歪な愛 | soraharuruの まにまに 雑記帳

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日々のまにまに。空のまにまに。雨のまにまに。
だれかを想うまにまに …


いろんな隨に ふとした間に間に …
きらきらひかる摩仁たちを 思いつくまま綴っています









粉の味を噛みしめて味わう スコーンや
ビスケット(薄い焼き菓子じゃなくてアメリカ式の方の)の
しみじみとしたおいしさが好き。


全粒粉に きなこやそば粉をブレンドしたり
オイルはマーガリンやバターじゃなくて
オリーブオイルや菜種油で。


甘みの代わりのドライフルーツや
シナモンやクローブなどのスパイスを入れたり … 。








スコーンやビスケットをつくるとき
わたしはいつもわざと適当にまるめたり切ったりして
不格好なかたちに焼く。


そのほうが好き。

( ただ大雑把なだけね はな )





お行儀がいいのもきれいで素敵だけれど
ざっくり 素朴なかたちに安心するんだ。

飾らず取り繕わない
素直な温もりにほっとする。



歪で不格好であるほど
なんだか愛おしい。

愛おしくて …
抱きしめたくなる。




だから

わたしにとっての彼らは
その歪さが たまらない真ん中のかたち。    フラワー









      








わたしはたぶん歪さを愛している。


それはきっと わたしが
どうしようもなく歪な愛を受け取ってきたからで

そして 何よりもわたしが
どうしようもなく歪だったからなのだろう。



それらのどうしようもなく苦しかった歪さたちは
わたしのたからもの。

わたしを育てて導いてくれた
大切な大切なわたしのたからもの。











歪さ や 真ん中 というのは
外の世界に当てはめたものではなくて
自分にとってのかたち。


それが心地いいのなら
それがどんなかたちでも
自分にとっての真ん中。


もしも苦しいのなら
心地よさや喜びを感じられないのなら
それがどんなに整っていて褒められても
自分にとっては歪なかたち。





それぞれが抱え持つものは
それぞれに与えられた贈り物。

『 自分に還る 』ために与えられた
大切な大切な贈り物。



気づくたびに
越えてゆくたびに

その先には 必ず
自分だけの『 真ん中 』がある。

その瞬間の
真ん中の自分 がいる。










       









もちろん 人は
スコーンやビスケットとは違うけれど


だけどやっぱり
スコーンやビスケットとおなじように
わたしは

規格通りの『完璧』に『立派』な
『正しくて』『ちゃんとした』人よりも
その人のかたちのままに輝いている人を
輝こうとしている人を愛してしまう。


そして わたしのかたちのままのわたしを
心から愛している。










成ろうとする意思を持った
純粋な歪さをわたしは見たいのだと思う。


同情や同調などではなくて
ましてや『理解する』なんて大それたことではなくて

その痛みごと愛おしく
ただ抱きしめたいと思ってしまう。




今、その痛みの奥にある
愛の色やかたちを

そうして それらが越えた先にある
還ってゆく そのかたちと色の光を …


それぞれの歪な愛の先にある真ん中の愛を
その愛が放つ光を わたしは見たい。




それぞれの魂が放つ
それぞれの愛の光を

たくさんのたくさんの光り輝く愛を
わたしは見たい。





どんなかたちでも
どんな色でも

それはきっと
とてもとても美しいから。














































  ゚・*:.。..。.:*・゚゚  忘れてないよ ゚・*:.。..。.:*・゚゚・