粉の味を噛みしめて味わう スコーンや
ビスケット(薄い焼き菓子じゃなくてアメリカ式の方の)の
しみじみとしたおいしさが好き。
全粒粉に きなこやそば粉をブレンドしたり
オイルはマーガリンやバターじゃなくて
オリーブオイルや菜種油で。
甘みの代わりのドライフルーツや
シナモンやクローブなどのスパイスを入れたり … 。
スコーンやビスケットをつくるとき
わたしはいつもわざと適当にまるめたり切ったりして
不格好なかたちに焼く。
そのほうが好き。
( ただ大雑把なだけね )
お行儀がいいのもきれいで素敵だけれど
ざっくり 素朴なかたちに安心するんだ。
飾らず取り繕わない
素直な温もりにほっとする。
歪で不格好であるほど
なんだか愛おしい。
愛おしくて …
抱きしめたくなる。
だから
わたしにとっての彼らは
その歪さが たまらない真ん中のかたち。
*
わたしはたぶん歪さを愛している。
それはきっと わたしが
どうしようもなく歪な愛を受け取ってきたからで
そして 何よりもわたしが
どうしようもなく歪だったからなのだろう。
それらのどうしようもなく苦しかった歪さたちは
わたしのたからもの。
わたしを育てて導いてくれた
大切な大切なわたしのたからもの。
歪さ や 真ん中 というのは
外の世界に当てはめたものではなくて
自分にとってのかたち。
それが心地いいのなら
それがどんなかたちでも
自分にとっての真ん中。
もしも苦しいのなら
心地よさや喜びを感じられないのなら
それがどんなに整っていて褒められても
自分にとっては歪なかたち。
それぞれが抱え持つものは
それぞれに与えられた贈り物。
『 自分に還る 』ために与えられた
大切な大切な贈り物。
気づくたびに
越えてゆくたびに
その先には 必ず
自分だけの『 真ん中 』がある。
その瞬間の
真ん中の自分 がいる。
*
もちろん 人は
スコーンやビスケットとは違うけれど
だけどやっぱり
スコーンやビスケットとおなじように
わたしは
規格通りの『完璧』に『立派』な
『正しくて』『ちゃんとした』人よりも
その人のかたちのままに輝いている人を
輝こうとしている人を愛してしまう。
そして わたしのかたちのままのわたしを
心から愛している。
成ろうとする意思を持った
純粋な歪さをわたしは見たいのだと思う。
同情や同調などではなくて
ましてや『理解する』なんて大それたことではなくて
その痛みごと愛おしく
ただ抱きしめたいと思ってしまう。
今、その痛みの奥にある
愛の色やかたちを
そうして それらが越えた先にある
還ってゆく そのかたちと色の光を …
それぞれの歪な愛の先にある真ん中の愛を
その愛が放つ光を わたしは見たい。
それぞれの魂が放つ
それぞれの愛の光を
たくさんのたくさんの光り輝く愛を
わたしは見たい。
どんなかたちでも
どんな色でも
それはきっと
とてもとても美しいから。
゚・*:.。..。.:*・゚゚ 忘れてないよ ゚・*:.。..。.:*・゚゚・