日本テレビで、『太田光の、私が総理大臣になったら』という番組がやっているが、毎回、結構面白く観ている。


『朝まで生テレビ』は、あんなの政治家の喧嘩みたいにしか聞こえないからつまらないと思っているが、『ここが変だよ日本人』と『ジェネレーションジャングル(だっけ?ジェネジャンと呼んでいたので忘れた)』、『しゃべり場』なんかは、好きでよく観ていたものだった。討論番組というのは、なんにせよ、

我々になんらかの問題について考えるきっかけを与えてくれる気がするのでわるくないと思っている。


しかし、ああいうものを観ていると、911以降、日本という国はずいぶん変わってきたように思うのだがどうだろうか。

『ここが変だよ~』は、あれは今やってもあまり流行らないに違いない。なぜなら、『日本沈没』という映画になぜか沸き返る日本人、どこまでも自虐性を追求する姿勢が、あの番組のころはまだあまり我々の内部にきちんと認識されていなかった。であるからこそ、外国人が日本人のあそこがだめ、ここがだめ、という言葉がぐさりと心に突き刺さったのである。突き刺さり、次の瞬間去来する思い。


ああ、だから日本は嫌いなんだ。アメリカ人に生まれたかった。


ここであまたいたあそこのなかの外国人をさして、なぜかゾマホンのようなアフリカンではなく、アメリカ人、と日本人が思ってしまうのは、意識無意識にかかわらず、アメリカに占領された日本人のたどるべき宿命のようなものだった。


しかし、あの同時多発テロ以降、すくなからず日本人の中に、

なんで外国っていうと、アメリカしか思いつかなかったのかしらん

という、疑念やら疑問やら不信感やらが生まれだした。それゆえ、長いことかこってきた自我意識がぐらぐらと崩れだしたわけである。信頼していた先生が、犯罪者かもしれないと噂で聞いてしまったときのような感じ。


そんなとき、外人に「だから日本人なんかだめなんじゃん」なんて言われたら、へこむわけである。力をさらにうしなってしまうわけである。もっというと、「うるせえ!アメリカ(注・外国といえば、アメリカがどうしたって最初に出てくるのは一種の呪縛)だっておかしいじゃねえか!」と、逆上してしまう危険性もあるわけだ。


よって代わりに登場したのが爆笑問題太田である。


太田は、今の日本にあまたいる芸人の中でもまれにみるほどの熱い男であるというのが私の感想であるが、

その理由は、


政治に詳しい

歴史に詳しい(さらに認識が正確)

議論に熱い

日本語を大事にしている


ということのほかにも、なによりも人とのコミュニケーションを大切にし、対話をすべての一番上においている

という美点を持っている。


私は大分前から、太田の魅力とは

内省的であるところ(そのへんがかつての日本男児的)


であると感じてきたのだが、そのあたりの本質がいまだ如実に出ていてなおかつ、ある程度名の売れた、ある程度主張を外に発言してきた人間がすすむ道としての自我の統一というのを経て、太田というひとは確実にピンポイント的にわかりやすい思考回路に集約されてきているわけである。なにをいっているのかわからなくなってきたがつまり、

あくがぬけてインプットからアウトプットにむかう過程のレベルが格段に上がった

ということでなかろうかと思われる。誰でもそうだが、言いたいことはあるのだろうがなにをいっているのかいまいちわからないとか、情熱は伝わるのだが癖でつい同じ言葉に帰結してしまうので最後は誰の印象にも残らない、という状態から、確実に脱却した、というところだろうか。


いろいろ並べ立てたがようするに、


論じるタイプの番組のなかに必要なのは、正確なボキャブラリーをみじかい時間の中で言い当てる能力を持った人間がどれだけいるか


にかかってくるということで、そういう意味では『たけしのTVタックル』における同等の地位を誇るのは、

大竹まことではないかとわたしはふんでいる(無論、たけしもかなりのレベルだと思うのだが、中心であるがゆえに随分それをおさえているように見える)。


ときどき、めちゃくちゃなというか、過激すぎるマニフェストもむないわけではないが、太田の発言には今後とも、愉しく見守って生きたいと考えている。