人を噛んだ紀州犬が、3人の警官に射殺されました。13発の銃弾を受けて……というか、外れが多かったみたいですが、一発が頭部に命中して絶命。なんまんだぶ……なんか、かわいそうですね。TVの写真でみるかぎり、そんなに凶暴そうでもなく、フツーのわんちゃんなんですが……飼い主の飼い方にモンダイがあったようなこともいってましたが、どうなんでしょうか。
ベランダで飼ってて、あんまり散歩もさせてなくてストレスがたまってたとか……警官は、飼い主に、「撃ちますよ」と言い、飼い主が了承したので発砲したと言ってた。なるほど……犬は「器物」なので、持ち主(飼い主)が「壊していいよ」といえばピストルで撃って破壊してもOK。「殺し」じゃなくて、たんに「駆除」なんですね。ハエをハエ叩きでポンとやるのと同じ。ただ規模が大きいだけ。
じゃあ、相手が人間だったら……たとえば、どっかの会社で、社長がOKといえば、警官は社員を撃ち殺せるのか……いや、これはダメでしょう。社員は社長の「持ち物」じゃないし……というか、「人間」だから……でも、相手が人間でも、ポンポン撃つ場合もある。どんな場合だろうか……凶悪犯罪者で、銃とか持ってる……あるいは、戦争で、相手は敵の兵士だ……そんな場合かな。
これ、「自衛権」に深くかかわってくると思うのですが、今回も、犬が複数の人を噛み、さらに警官にも襲ってきた。だから撃った。警官が自分自身を守るためもあるけど、もっと人を噛んで被害が広がらないように……つまり、「人間の仲間」を守るために撃った。そういうことになります。この理論が「戦争」にも適用される。敵の襲撃に対して、自分と仲間を守るために……
撃つ。殺してもいい。というか、たくさん殺せば殺すほど、「英雄」として讃えられる。太平洋戦争のときの米軍将校のカーチス・ルメイさんなんか、何十万の日本人を焼夷弾で焼き殺した功績を讃えられて?日本政府から勲章をもらってます……んー、どー考えてもヘンな話だなあ……これって。じゃあ、アメリカから勲章はいいの?となると、それも、よーく考えれば(というか考えなくても)ヘンです。
殺しまくった人が、その功績を讃えられて叙勲される……これは、そこで働く「倫理感」がやっぱり狂ってるんだと思う。どうでしょうか……「アイツをほっとくと、オレたちに危害を加えるから、殺す!」これ、「倫理感」と呼べるのだろうか……今、ABくんたちが推進しようとしていることのベースには、この「狂った倫理感」がありますが、これって、もしかしたらけっこう重篤な病気なのでは……
「存立に明白な危機」とか言ってますが、それって、「犬が噛むかもしれんから殺す!」と、どこがどう違うんだろうか……じゃあキミは「自衛」まで否定するのか? という声がきこえてきそうですが、たしかに私も、蚊がプーンときたらパチン!とやります。で、潰れた蚊を「なんまんだぶ」と唱えてゴミ箱へ……これを否定すると、果てはジャイナ教になる。虫を吸いこむかもしれないから息を止める→自分が死ぬ。
人間の倫理は、たぶんここを越えないといけないのでしょう。じゃあ、どうやって? ということなんですが、昔、埴谷雄高さんの『死霊』という小説を読んだときに、キリストが、釈迦が、「死者の国」で、自分が食ったものに責められるという話がありました。キリストは、ガリラヤ湖の魚から、釈迦はチーナカ豆から、それぞれ、「オレを食っただろう!」と厳しく断罪される。
聖書では、キリストが、弟子たちに命じて、ガリラヤ湖に網を投げさせ、魚をとらせて、弟子たちとともに焼いて食べるシーンがあるそうで。また、釈迦は、チーナカ豆のカレーを食べて、それが元で食中毒で入滅……なので、この二つの食べ物は、「聖者を弾劾できる権利」を持つ象徴的な存在として、この小説『死霊』に登場するわけです。このことは、前にも書いたように思いますが……
当時、この場面を読んだ私は、なるほど……と思いつつも、この「論理」を完全に受けいれることはできませんでした。「いくら立派な教えを垂れても、オマエは私を食った。その一点で、オマエは鬼なのだ!」と、こういうことになって、これはこれで、まちがっていない。たしかに、いくら立派な人でもモノを食べる。ということは、その食べられたモノにとっては、その人物は、鬼、悪魔にほかならない。
キリスト教の人にきくと、「牛や豚は、神様が、人間の食物としてつくってくださったのだから、食べてもいいのです」という……なんと勝手な!そんな神様は、人間の神であっても、牛や豚の神ではない。むしろ、彼らにとっては悪魔です。これと同じ論理が、「紀州犬13発射殺事件」にもいえる。射殺相手が犬だから……犬の神は、たぶん、今のところは人間の神より弱いから、モンダイにならない……
でも、犬の神が、人の神より強くなったら、射殺した警官は、犬の神によって断罪されるだろう……なにをアホなことを……と思われるかもしれませんが、戦争は、昔は、人と人の戦いである以上に、神と神の戦いであったとききます。まあ、今も、キリスト教とイスラム教の戦いは、神と神の戦いであるともいえるのですが……先の、日本人大量虐殺犯のルメイさんは、日本人をたくさん殺したことについて……
「アメリカが勝ったから戦争犯罪人にならなかったけど、もし負けてたら、ボクは、戦争犯罪人になってただろう」とおっしゃったとか。なるほど……よくわかってらっしゃいます。人間の倫理感って、まあ、こんなもんなんですね。すべては「相対的」なのか……とすると、それって、「倫理」といえるんでしょうか。ホントの倫理は、どんな所でも、どんな時でも、通じるものでなきゃイカンのでは……
この点について、私は、最近、本田哲郎という方の『聖書を発見する』という本を読んで、感じるところがおおいにありました。本田さんは、カトリックのフランシスコ会の司祭で、ローマ教皇庁立聖書研究所を卒業、聖書をヘブライ語とギリシア語の原典から厳密に研究する聖書学者でもあります。しかし一方、みずから大阪の釜ヶ崎の2畳のアパートに暮らし、日雇い労働者と生活をともにする「実践の人」でもある。
私が本田さんの本でとくに感じたのは、聖書全体が、「小さくされた人」のために書かれた書であるという彼の主張です。「小さくされた」というのは本田さん特有の用語で、ふつうの聖書だと、「貧しきもの」(原語はプトーコイ)とか、そういうふうに訳している箇所を、本田さんは、「小さくされた」と訳す。これは、そういう目にあっている人の実感にいちばん近い。たしかに「小さく」されてるんですね……
でかい人によって。まあ、普通の言葉でいえば「抑圧」とか「弾圧」ということだけれど、そこにはすぐに政治的な意味が入りこんで、政治家に利用される。本田さんの感覚は、政治とかいっさい関係なくて、人と人が会ったときに、どっちかが「でかくされて」いて、他方は「小さくされて」いる、という、これ、ホントの実感の言葉です。で、釜ヶ崎の労働者は、「いちばん小さく」されている。
キリスト教の方々は、よくホームレスの炊き出しとか行いますが、本田さんによると、彼らは「わかっちゃいない」ということだそうです。「いいこと」をしたという気分でいるが、キリストは、いったい「どちらにいる」のか……本田さんは、まちがいなく、炊き出しを待っている労働者の側にいる!と言い切ります。炊き出しの列に並んで、自分の番まで鍋が持つかなあ……と不安がっている労働者……
彼こそが、まさにキリストなんだ!……聖書は、一貫して、こういう「小さくされた」立場の人たちに寄り添って書かれている……イエスが生きていた当時は、魚の命を取る漁師は、社会的にもいちばん軽蔑された最低身分の人々であった。イエスの弟子には漁師が多い。他にも、取税人とか娼婦とか……当時の社会でもっとも「小さくされて」いた人々が、イエスの弟子となった。
そして、イエス自身もそうであったといいます。イエスは「大工のせがれ」といいますが、本田さんによると、聖書では、イエスの父、ヨセフに対して「テクトーン」という言葉を使っているが、これは、ギリシア語の元の意味だと「大工」ではなくて「切る、掘る、削る」という作業工程を表わす言葉であり、「石切り」と訳すのがいちばん適切ではないかと……これに対して家を建てる大工は「オイコドモス」。
つまり、「建築家」と訳せる言葉を、聖書はきちんと使っているというのです(隅のかしら石の箇所)。したがって、イエス自身も、大工ではなく、下働きの石切りの子であり、当時の社会では最下層の民の出であった。しかも、母マリアは、今でこそ「聖処女懐妊」ですが、当時はまさに不義密通の女で、その子がイエス……社会通念としては、石打ちの刑にあってもふしぎはない、罪人の子であった……
なるほど……と思いました。埴谷さんは、ガリラヤ湖の魚を食べたイエスは、魚から断罪されて当然だと書く……しかし、その魚を穫るのは漁師……今、われわれの社会で、そういう「生き物を殺さなければならない仕事」が、社会的に蔑視されるという風潮は、少なくとも表向きにはなくなっています(というか、なくなったことにしなければならなくなっています)。しかし実際はどうなのか……
犬を撃たなければならなかったおまわりさんたち……これと同じで、戦場で人を殺さなければならない兵隊さんたち……これを、どう考えればいいのでしょうか。ABくんは、「徴兵は、憲法で禁じている苦役にあたるから、絶対ない」と言ってます。まあ、憲法をないがしろにしまくってる人にこう言われてもなあ……というのもありますが、しかし「経済徴兵」。これは、絶対そうなるでしょう。
自民党の方々は、「今の自衛隊は、練度が高い。そんな、徴兵されたシロウトに勤まるもんじゃない」なんて言ってます。しかし……練度が高い兵隊さん以外にも、「捨て駒の歩兵」って、やっぱり要るんじゃないですか?? 人間じゃなく、ハイテク兵器が戦うのがこれからの戦争だ!ともおっしゃる……しかし……前線に高価なハイテク兵器を送るより、奨学金という借金を背負った学生あがりを使い棄てる方が……
はるかに安くつく!という地獄のようなことを、政治家や経済人は考えませんか? 練度の不足は、今はやりの「ウェアラブル端末」で補わせられ……もっとひどいと、「埋めこみ端末」で、こういう奨学金地獄の若者たちは、サイボーグ兵士にされてしまう……いや、強制じゃないですよ。あくまで表向きは。それがイヤなら、何百万の奨学金を返してちょうだいね。どっちでもご自由に……
今、ABくんたちがガンガン進めている「新安保」と「2極化」の果ては、こうなると思います。地獄のような奨学金を背負った若者たちは、どんどん「小さく」される。射殺された紀州犬は、やっぱりあの場面では「いちばん小さくされた」ものだったけれど、拳銃を発射して犬を撃ち殺さなければならなかったおまわりさんたちも、やっぱり「小さくされた」ものだったのでは……
人は、どんな場面でも、自分が「小さくされる」ということに対して、一種耐えられない反発感があるものだと思います。これは連鎖であって、どんな人でも、自分より小さな存在と、大きな存在を持つ。すべての人が、存在が、「同じおおきさ」……それが理想だと思うけれど、そういう瞬間は、やっぱりマレなのかもしれません。でも、そういうシーンもゼロではない……それは、ホントの友人、仲間関係。
もしかしたら、ホントの倫理感って、そこにしかないのかも。みんなが楽しく心を開いて、うちとけて……それは、たしかにあると思います。でも、今の社会は、どこへ行っても、どこまで行っても、けっこう難しい。なにが「公平な倫理感」をつくりだしているのでしょうか……ハイデガーさんは、実存カテゴリーということをおっしゃる。エクジステンツィアーレでしたっけ……
人は、本を「ドミノ」に使ってしまう(
リンク)。ドミノに使われた本は、その本来の「存在」を失って、無限に並べられた(ゲシュテル)系列のうちの一コマにすぎなくされてしまう。「自分はデカイ」と思っていても、結局その「本のドミノ」の系列にすぎないことにはかわりない。ダレもアンタを、「アンタ自身」として大事に思ってるんじゃないよ、「役に立つ」から大事にしてるだけなんだ……
こういう見方をすれば、ABくんも、サイボーグ化された奨学金地獄経済徴兵トゥルーパーも、射殺された紀州犬も、射殺したおまわりさんも、まったくかわりはありません。みなそれぞれ地獄……オソロシイ。ホントの倫理感って、こういう「系列」にまったくカンケイないところにしかないんじゃないかな……未来の地球が、「すべての存在」にとって、そういう「楽しい世界」になるといいと思うのですが……