蛸頭族の若き領袖 Ocho(オチョ)。この一族はみな、頭に蛸を乗っけている。生まれたときからそうなのか、それとも後で乗っけるのかは定かでないものの、死者を解剖してみると、蛸は本人の脳と一体化しているので、単に乗っけているだけではなく、蛸とそれを乗っけている人が深く結ばれていることがわかる。

いや……もしかしたら、本体は、蛸の方なのかもしれない……それはともかく、このシーンは、オチョくんの上に乗った蛸が、「あっちに敵がいるぜ」と警告を発して、オチョくんがそちらをキッと睨みつける瞬間を描く。このように、頭の上の蛸は、一種のレーダー的な役割も果たしている。

小松左京の小説で、アマゾンの密林だったかに、頭の異常に大きな種族がいるという話があった。文明からはるかに断絶されているように見える彼ら……しかし、探検隊は、彼らの一人の少女が、今、文明世界で流行している歌を口ずさむのを聴く……テレビもラジオもないのに、なぜ?

実は、その種族は「電波人間」で、大きな頭部の中には、空中を飛び交う電波を直接受信して、音に変える機構が内在されていた……つまり、その少女は、テレビやラジオといった電波を音や光に変えるメカニズムを必要とせず、その脳で直接電波を「聴いて」いたのである。

蛸頭族の蛸も、もしかしたらそういう特殊な機構を備えた「身体の一部」なのかもしれない。そうすると、彼らは一見人間に似ているが、人間ではない「別の種」である可能性も……さて、どうなんでしょうか……??

四月一ヶ月、碧南市のカフェ・カノンで開かせていただいていた私の個展も、昨日無事に終了。作品を撤収し、次の方の作品が飾られたあと、みなでおつかれさんパーティーに……いやあ、充実した一ヶ月でした。遠かったので、数回しか通えませんでしたが……思いがけない出会いもあり、楽しかったですね。買ってくださった方もおられたし。

今回は、白い紙に細い線を引いただけのドローイング作品だったので、まあ地味の極地というべきか……でも、いつもふしぎに思うのですが、モノクロームの細かい画面でも、画廊空間でけっこう「持つ」のです。これは、今回だけでなく、名古屋の画廊でも東京のギャラリーでも同じ。ギャラリー空間の魔法というべきか……

さて、こんどは、どこで、どんな空間と出会えるでしょうか……おたのしみに。

一ヶ月の会期。長いなあと思ってはじめましたが、すぐに終わりです。短いなあ……

いろんな方に見ていただいて、うれしかったです。とくに、会場のカフェ・カノンの常連さんたち。とてもユニークな方々で、いろんな意見や感想が聞けて、よかったなあ。それと、作品とは関係なく、いろんな話が……


落語の師匠、アフリカ音楽の研究家、鍛冶屋さん、現代美術作家、写真家、街歩きの人……カノンには、ありとあらゆる分野でさまざまなことをやってる方々が集まります。古い歴史のある土地柄だけに、いろんな人が惹かれ、育つのでしょうか……おもしろい場所です。

うちからちょっと遠い(車で一時間半)ので、あんまり通えなかったのが残念ですが、いい体験でした。野外活動研究会のある方が、「間主観性」ということをよくおっしゃってたのを思い出しました。

これは、哲学者のフッサールの言葉のようですが、人間は、一人ではダメで、2人以上、いろんな人の主観の間に生まれてくるもの……ということでしょうか。個展は一人でやるから個展なんですが、考えてみると、見る人がいるから成立する。そういう意味では、「個」展ではないかも……

私の作品は、よく「アール・ブリュット」あるいは「ボーダーレスアート」の作品みたいだといわれます。しかし、描いているときは、やっぱり「見る人」を意識して描いてます。その意識があるかぎり、上記ジャンルの作品といわれる「権利」はないのかもしれません。

あるいは、よっぽど集中して描いてるんだね、ともいわれますが、まったく逆で、テレビを見ながら描いてることが多いです。この作品(アラクネンシス)の発端は、学生時代に、講義を聴きながらノートの片隅に描いていた落書き……

だれでも経験があると思いますが、長電話しながら、メモ帳になんかへんな図形をぐるぐる描いてる……アレです。アレを、意識的にやってみたらおもしろいんじゃなかろうか……と。

考えてみると、テレビも講義も長電話も、すべて「他者との関連」のうちに成立する事象です。してみると、このシリーズは、もともと「他者との関連」が無意識的にせよそのベースにあるのかな?

しかし、テレビがなくても講義や電話がなくても、コレは描けます。「他者」があって描いた線と、自分しかいなくて描いた線と、違うか?といわれると、そんなにちがいがないような気もする。まあ、そこは結局はっきりわからないのですが。

それに、たとえ「他者」がいない状態でも、できあがっていく線は、明確に「他者」です。私ではないもの……私の手が描くけれど、紙に現われた瞬間から、それは「他者」となる。ペンと紙の抵抗感……

それは、まさに、私という自分と、ペンや紙という「他者」……いや、ペンや紙だけじゃなく、その場の空気や音や感触や光と影……そういうものがすべて一種のオーラのようにないまぜになって「作品の胎盤」となる……

そういう意味では作品って、ふしぎです。これまで明確に「なかったもの」が、今、ここにある……これは、ピカソでもダヴィンチでも、私のような無名絵描きでもそう。赤ちゃんの絵でもチンパンジーの絵でも、そうです。そこは平等。

間主観性というのは、おそらく「場」の問題なのかもしれません。人の主観は「場」として、あるいは「ゲート」として働く。そして、そのはたらきは、かならず「他の主観」と混交しあうときに十全に機能する……ハイデガーは、現存在(人)は、そこにある存在(フォアハンデンザイン)ではなく、利用できる存在(ツーハンデンザイン)でもないといいますが、もしかしたらそれは、いつもぐるぐるとこうやって「作品」をつくりだしている、そのものなのかもしれません。



ということで、一ヶ月間、どうもありがとうございました。また、こうやってできたらいいなと思います。