燃えるような緑の中に平和の象徴
なんていい写真だと朝から自画自賛w


白黒写真

 

南国人はテンションあがるわぁ⤴︎

2017/12/26 17:00
大好きなケンタッキーフライドチキンをたくさん食べて、天国へ旅立ちました
たくさんの思い出をありがとう
あなたは我が家の太陽でした✨

読者諸君

 

いきなりエラソでごめーん、ほんとにスイマメン

 

はい。ネタも古い...

 

 

というわけで久々のブログです。

テーマは、上記通り、不安を抱えた2016年、年末です♪

ジャンルは、研究系としてみました、一応。

 

実は、今年、不安について考えることがありまして。

こーみえて、いや、どーも見えてないと思いますが、

あたくし、ちょいと、いろいろ心について考えるコミュニティに属しておりまして。

 

そこで、下記3つのテーマから1つ選んで、考えよう、って話になりまして。

それをまとめたのが、今回の本文になります。

 

それにしても、味のある三択です。

何を選ぶか実に悩みましたよ。

 

まさに、三択労す。。。

ちょっと遅れて、メリークリスマース ^^/

 

よいお年を。

 

以下、本文です。

 

 

不安三択

 

① 不安とは何か

② ベンゾジアゼピンの歴史

③ 不安の対処法

 

 

課題③ 不安の対処法について

 

不安の対処法を考えるにおいて、当然、不安とはそもそも何なのかを考えないわけにはいかず、その点への私見も交えて、思いのままに書いてみる。もちろん、不安とは何かというテーマが課題①であり、私の守備範囲を超えていることは100も承知の上で、である。

私が思うに、不安とは生きる原動力だ。我々、人間は不安なしでは生きていけない。今、こうして私が文章を書いているのも、課題③を担当すると明言しながらも、何もせぬまま締切前日に迫り、このままでは同志の仲間たちの信頼を裏切ってしまうという不安に苛まれたために他ならない。そもそも、課題③を選択したのも、LINEにも書いた通り、皆が課題への取り組みを表明する中、自分だけ取り残されてしまい、同志として資格を喪失してしまうのではないかという孤立の不安に襲われてしまったため、苦し紛れにfirst nameにかけて③を選んだまでだ。そして今も、折角それなりの時間をかけて書いた文章が、きっとほとんど読まれることもなく、そのまま歴史の陰に埋もれてしまうことに不安・悲壮を感じてblogに載せることで少しでも書いた意義があったと思い込みたいからだ。

人は一体どういう時に不安を感じるのか。今挙げただけでも、信頼を失う不安、孤立の不安、やるべきことをやってないことへの焦りと不安、忘却の不安といった形で表現できる。自ら、不安を生きる原動力と定義した以上、その形は、現在70億を超える世界人口の人々の中に、もはや無限ともいえる形で無数に存在していると思う。では逆に、人は、どういう状態の時に不安がなくなるのか。この問いへの答えは思いのほか単純で、その不安となる要因が解消された時だと思う。今の私でいえば、こうして文章化することで、着々と課題をやっている気になれるので、当然不安感が徐々に消失していっているのを自らの内面の実体験として感じられる。ただ、同時に、こんな文章を誰が好き好んで読むだろうかという、自分の文面や表現方法への不安は新たに湧き上がってくるし、わざわざblogに転載しようとすることに、「私が書いた文章読んで―」っていう自分好き好き人間と思われてしまうことへの不安もある。(ま、その通りか。)

人はどうやって不安を解消するのか。それは、おそらく行動だと一言でいえると思う。人は不安な状態に陥った時、その不安の原因を考え、それを解消すべき行動に移る。医師であるところの同志の彼が、LINE上で例示したところの医師国家試験の前の不安との向き合い方にしても、結局のところ、その解消の根本策は勉強して一歩でも国試合格に近づくことであり、勉強という行動である。もし、それが自分で解決できない不安の時は、人は、家族や友人、あるいは、最近ではネットを介して、その解決方法を相談するという身近な人に頼るという行動にでる。さらに、それでも解決できない時、あるいは、そもそも何に対する不安なのかすらわからない、所謂、病的不安のような心理の時は、信頼できる第三者、つまりは、我々も含んだ精神医療の世界への扉をたたくという行動にでる。もちろん、それがその道の専門家と出会えれば幸運だろうが、一方で、教科書片手に診察する、まだまだひよっこ医師に当たってしまうというリスクも内在しており、期待と不安の入り混じった方法ではあるだろう。そして、ある人はベンゾ系を処方され、ある人は、各種不安解消法の教示といった精神療法を受け、また、ある人は、今とここに集中するマインドフルネスといった最新の治療法と遭遇することとなる。その詳細は、すでにLINEで十分に議論されているところであろう。ここでは詳細については触れない(というか、よく知らない、詳しくない)。

気づけば、この文章も、軽く千字を超え、無駄に長くなってしまったので、最後にこれだけは書いておきたい。そもそも不安とはなんなのか、についてである。いやいや、それは冒頭に書いただろって話なのではあるのだが、今一度考えてみるに、不安という文字面から当然予想される通り、心の不安定感、それこそが文字通り、定義通りの不安なのだろう。物質世界において、自然の法則に従い水が高きから低きに流れるように、精神世界においても、心もその安定性、所謂、安心感を求めて彷徨う。しかし、その安心感のある場所とは一体どこなのか。『戦争は絶対いやだけど、平和なんて死ぬほど退屈』って誰が言ったか知らねども妙に納得させられる言葉に表されるように、心は、生命の危険の低い平穏を求めるとともに、命を失いかねないような刺激を求める。こうした『心』が本来持つ両価性の存在理由について、私は明確な答えを持ちえないが、恐らく死ぬほど退屈と表現するところの平穏とは、心の安定の地において、長く何もすること、したいことがない生活をしたときに出てくる言葉であろう。そうであるならば、それは時間経過と無視して語ることができない。我々は、時間という絶えず流れ続ける時空の中に存在しており、何もしないことが安定性を保つことにはならない。常に流れ続ける時の流れの中で動かないということは、つまりは、受動的に流されていっていることだ。当然、心の安定性を維持できるはずもない。そうであれば、心の安定の地において、時の流れと同調して生きること。それが、心の安定性を保つ方法なのではないだろうか。過去を嘆かず、未来を憂えず、今とここに集中して生きる。実は、古くから東洋の伝わる瞑想、あるいは、最近話題のマインドフルネスとは、そこに着眼しているのではないかと思う。呼吸という我々が普段無意識に行っている自律神経によって行われる行為をあえて意識化することで、今、この瞬間を、ここで生きているということを実体験する。そのことが、心の安定性につながるというのは、私が考えるところの持論、独論とも矛盾しないところである。

以上、ここまで書いて、なんとなく心の安定性を得られたので、これでおしまいとする。

ちなみに、私は別に、瞑想やマインドフルネスの回し者ではない。どちらかといえば、不安といえばベンゾ系乱発のベンゾボーイ、いや、ベンゾマンである。

 

ほな。 そう③

 

 

P.S.

上述の通り、本文章は想いのままの我論、独論である。

That's エッセー。

不安についてきちんと学びたい方は、2010年刊 臨床精神医学 39(4)  383-387の田代信維九州大学名誉教授が書かれた『人はなぜ不安になるのか』をまずは、おすすめしたい。おすすめしておきながら何だが、ちと難解 w


されど、与えられないことも・・・



それでも、求め続けて

片足あげる10歳を超えたソレイユ2016春


なにこれ!
フツーに美味い〓
なんか裏切られた気分…

紀文だけに…つて。


色はノンコーラホワイト