朝の霧がまだ山を包んでいた。
姉は小さなリュックを背負い、振り返って笑った。
「すぐ帰るから」
その言葉を最後に、姉の姿は霧の向こうに消えた。
優しく、暖かく私を包んでくれた姉の手の温もりだけが私の心に去来していた。
毎朝早くから、薪に火をくべ、湯を沸かし、野菜を洗い、お米を炊き家族の食事の支度をしていた。

自分は一番最後に少しだけ残った米粒を野菜のスープで流し込み、
私や弟の空腹を満たそうといつも我慢を重ねていた。
畑仕事は過酷だった。
自然は雄大であり美しいが、人間が相手にするには大きすぎる。
父と共に雑草を取り、稲を植え、晴れの日も、雨の日も埃と泥を被る日々。

彼女にはこの風景がどのように映っていたのだろうか
友人や異性との時間は、家族のために消えていった。
畑から帰ると、夕食の支度が待っていた。
姉の手はいつもカサカサで、擦り切れていた。
夜、ゴザの上に身体を横たえ、「フゥーっ」と息を吐く姉の横顔は憔悴と倦怠に満ちていた。
山道を下りる背中を、父は黙って見送った。
母は炊事の手を止め、目を伏せたままだった。
その朝、家の前に咲いていた白い花が、
風に揺れて小さく首を振っていた。
——それが、三年前のこと。
バンコク。アジアでも有数の大都会。
欲望と富が交錯する街。
遠い街の灯りの中で、姉は働いていた。
最初は衣料工場だった。
夜勤と残業が続き、目の下には隈ができた。
でも、仕送りだけは欠かさなかった。
「家族が楽になるなら、それでいい」
そう言って笑う姉の声が、電話越しにかすかに震えていた。
ある日、工場の同僚が辞めた。
紹介された仕事は、繁華街の店だった。

ネオンが滲む夜の通り。
化粧を濃くし、香水をつけ、笑顔を作る。
最初は怖かった。
けれど、3ヶ月、6ヶ月と時間が経つうちに慣れていった。
男たちの内なる欲望と見え透いた笑顔にも、
何も感じなくなっていった。
何よりそこにはお金があった。
生まれてからずっと苦しんできた。
父が何度も親戚に頭を下げ、
肥料代やバイクの頭金、弟の学費を借りてきた。
一晩で、工場の一週間分を稼ぐ日もあった。
村の電気代を払い、弟の学費を送り、
母に薬を買った。
——それでも、誰も彼女を責められなかった。
貧しさの中で選ばされた道に、
「正しい」も「間違い」もなかったから。
だが、連絡は次第に途絶えた。
電話をかけても、番号が変わっていた。
手紙も戻ってきた。
母は「きっと忙しいのよ」と笑い、
父はただ山に出た。
沈黙だけが、家の中に降り積もっていった。
妹は、夜のランプの下で刺繍をしていた。
白い糸の中に、姉の顔が浮かぶ気がした。
針を通すたびに、胸の奥で何かがほどけていく。
時々、風が戸を叩くたびに、
姉が帰ってくるような気がした。

春、ドイトゥンの丘を訪れた。
白い花のそばに、見慣れない淡い紫の花が咲いていた。
それは、姉の好きだった色だった。
彼女は静かにしゃがみ込み、指で花びらをなぞった。
——夜の中に消えた姉よ、
あなたの祈りは、今もここに咲いている。
風が頬を撫でた。
遠くの山の向こうで、朝が始まろうとしていた。
白い糸が光り、
妹は静かに針を進めた。
それはもう、悲しみではなかった。
祈りと呼ぶにはあまりに優しく、
ただ、希望そのもののように見えた。
※この物語は、タイ北部🇹🇭の街チェンライ郊外の村で出会った実在の女性と彼女の家族をモデルにしています。
