リメイクというもの | デペイズマンの蜃気楼

デペイズマンの蜃気楼

日々の想った事、出会い、出来事などなどをエッセイのように綴りたいなと。
時折偏見を乱心のように無心に語ります。

なんの用事が忘れたけど、五年前に東京に行った時に、夜中に時間が空いたので、レイトショーで「トータル・リコール」のリメイク版を観にいった。
新宿のど真ん中。
奈良のほぼ貸し切り状態に慣れていた僕は新宿のすし詰め状態に耐えられなかったのも相まってか、映画の感想としては「つまんねー」だった。
目新しいものが何もなく、それでいて変に90年版のサービスを入れようと中途半端さというか…。
それでもディレクターズカット版があるというので購入して観てみたら、上映当時よりは一呼吸置けたせいもあるのか、無理な繋ぎが無くなったり、人間関係の描写が増えたり、ちょっと余韻をスパイスで入れたりと、普通に観れた。
もしこれが仮に原作の[追憶売ります]がこの世に存在しなくて、シュワルツェネッガー版もこの世に存在しなくて、突然この映画が世に出てきたら、人はこの作品にどんな印象を抱くのだろうか?と考えてみたりする。
[ダ・ヴィンチ・コード]や[天使と悪魔]も原作ファンからボロカスだったけど、仮に原作が存在しなくて、映画単体としてロン・ハワードがこんなサスペンスを作りました、と世に出たらどう評価されるのだろうか?
と考える。
シュワルツェネッガー版の「トータル・リコール」が大好きだけど、あれはあれで今観てもさらに、当時からもかなり粗い。
顔面パカパカおばちゃんのギミックは面白いけど、そこに至るまでのあの一連は、とてもプロの作りとは思えない雑さだ。
もちろんリメイクして駄作は数多くあれど、というかほとんどだとしても、中には固定観念さえ抜けば成立しているものがたくさんあるのではないだろうか?

リメイクを受け入れられなかった場合、それは過去作が優っていたのではなく、過去作でプログラムされた脳内リズムが書き換え不可能になっているだけなのではないだろうか?
そんな事を時折思う。

で、リメイクの「トータル・リコール」はディレクターズカット版をにはイーサン・ホークが大事な役で出演しているんだけど。
細かい場面を完全に忘れた頃にたまに観返していて「あれ?結構展開が粗いなぁ」と思いながら1時間過ぎた頃に、ピアノの場面でコリン・ファレルの顔が出てきた時のガッカリ感…。

メニュー画面の表示の正解がホントにわかりにくい…(ーー;)
あまりにもあまりな不親切。

{8099C6F7-73B0-40D7-8C80-DB407716D0BC}