「詩」てなんだろうか?とよく考える。
物を書き始めると、やはり詩は意識するようになる。
詩を書こうと意識するのではなく、詩という手段で表す言葉の羅列を、自分とは違う分野のものとして意識する。
ヨーロッパの映画を観ると、よく「好きな女には詩を贈れ」なんて台詞が出てきたりする。
「詩」や「歌」っていいよな、と思う。嫉妬の意味で。
「君のために詩を書いた」
とか
「君のために歌を作ったよ」
と言われるとカッコいいけど
「君のために50ページの脚本を書いたよ」
て言うときっと
て、顔をされる。
詩という手段を極力避けてきた。
難しいからだ。
歌を聴いて歌詞を読んだりしても「凄いなぁ。絶対書けないなぁ」
と感心していた。
けど、数年前からよく「君の長ゼリはセリフというより詩やな」と言われる事が多くなった。
何の事かわからないけど、どういう意味ですか?と問うても、詩に対する「これ!」という形は教えてもらえない。
人から「詩を書きぃや」と勧められても、余計に避けるようになった。
難しいし、今度は手法がわからなくなったからだ。
高校生の時に一回だけ詩を書いた。
卒業文集で朝高を舞台にバットマンの短編小説を書いた。
同級生がバットマンで、夜な夜な現れては悪い生徒を見つけて懲らしめるんだけど、裏で悪い事している教師を懲らしめたら、教師が化学薬品を被ってしまってヴィランになって…と、ティム・バートンのバットマンのストーリーをそのままに、嫌いな教師をコテンパンに書いたらコテンパンに怒られて卒業文集から削除されてしまったので、代わりに適当に詩を書いた。
「どうせあんたら生徒がこんなん書いたら嬉しいんでしょ?」的な模範な詩を書いた。
一文字も覚えてない。
小説の方は挿絵まで書いた力作だったのに。
それ以降、詩なんて書かなかったけど、前述のように頻繁に言われるようになって、自分の書いたものを読み返しては、詩って何なのだろう?て悩む事が多くなった。
先日佐山さんに詩を依頼された。
びっくりしたけど、こんなチャンスは!と思い、全く曲のテンポを考えずにまずは想うままに書いてみた。
次に音楽に合わせて書いた。
実は今小説を書いている。
年齢別に数人の方にモニターとして読んでもらっている。
十代の子も一人読んでもらっている。
先日佐山さんにもお渡ししたところ、パラパラと数ページをめくりながら「ところどころに詩が記されてるんやなぁ」と仰った。
驚いた。
やっぱり僕にはわからないけど、詩の形式がそこに在るのかと。
「パプーシャ」という映画でジプシーの子が詩人に「詩ってなに?」と尋ねると詩人は「今日感じた事を明日忘れないためのものだよ」と答える。
それを隣で聴いたパプーシャは「でもジプシーの言葉では[明日]も[昨日]もタイシャというのよ」と言う。
今日でない限り、全ては[今日ではない]という意味なのだろうか?
考えた果てに形のないものなのかな。
そして形のないものは、それに至る経過が形成していくのかな。