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ミニ自叙伝「思い出の断片1」
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2012/3/12
小学三年生の冬休み、富山から東京に引越して来ました。上野駅を降りると、通路には不労者やコジキで溢れかえっていました。私は「とんでもないところに来た」と思いました。「東京の電車はドアが勝手に開いたり閉じたりするので危ない」とも思いました。
子供なのに脅しや引ったくりにあったことも何度かありました。みんな貧しく、親の給料は月一万、子供の小遣いは一日十円以下。しかし子供たちは生き生きしていました。
小学校五年生くらいのときだったでしょうか。キューバ危機があり米ソは一触即発となりました。先生・日教組はソ連フルシチョフを応援していましたので、私たち子供はアメリカを悪だと思っていました。ケネディに申し訳なかったと思います。
暫くして、アイルランド系でカトリックのケネディは暗殺されました。それを機にし、ユダヤ系のマフィアが台頭してきて、それまでのイタリア系を駆逐したのが今の現状です。それ以来、アメリカの音楽業界などは経済ユダヤが牛耳っています。 日本でも在日系の幾つかの宗教団体が同じ事を任されています。
私が言いたいのは、その傘下でないと政治も宗教も企業も暴力団も生存不可能な時代になったということなのです。 これに対して、そんなのは仕方ないよとか、へーそうなのとかとぼける人たちは、かの宗教団体などの経済ユダヤと変わりません。
あるアメリカから入ってきたキリスト教系の宗教団体の幹部などは、私に言いがかりをつけてきた事もあります。私がクリスチャンでもないのに「コズミックサウンド」をやってるのが許せないと言うのです。
みんなどの宗教の人たちも自分たちが最高だと洗脳されていて、ヒステリックです。まともに論争すると、大抵の人たちは「そんな証拠があるのか」と迫ってきます。まるで脅しをかけるヤクザと変わりません。
育った場所柄、とくに右翼や左翼とは戦争だったことを思い出します。今でもそうです。もうまっぴら御免という感じです。 ほとんどがエセですから。
ところで、私が東京で育ったところは足立区でした。当時、団塊の世代の先輩たちは素行が悪く、夕方に人の見ていないところで先生を集団で殴る蹴るなどの暴力を犯し、先生を泣かせて土下座させるまでひどいことをやったのです。私はそれを目撃しました。
学校の校門には週に一度、惨殺された犬がぶら下がっていました。 私は中学に入ると田舎でやっていた柔道を思い出し、道場に通ったり、サウンドバッグでポクシングの練習をしました。夕方になるとチェーンや空気銃で襲われる事もあったからです。不良グループはヤクザの子供だったり、在日だったり、色々とありました。 (続く)
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ミニ自叙伝「思い出の断片2」
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2012/3/122
足立区などは創価学会と共産党で子供たちの家庭の半分位を占め、クラスには在日や同和子弟が何人もいました。中学教師の中には程度の悪いのもいて、生徒に手をつけて妊娠させたりという有様も見受けられました。
暴力沙汰に及び、学校に出てこない生徒もいましたが、それに引き換え我ら一般の生徒たちは生き生きとしていました。
代用教員と言って免許を持っていない先生もいました。ちなみに私の中学三年の担当は85才の婆さんで体育の先生でした。不思議と私はその先生が好きでした。
私の家は浄土真宗ですが、そんな足立区の環境の中、家の近所にカトリックの教会を見つけました。神父さんはポルトガルから来た七十位の白髪の人でした。
私は一人、吸い寄せられるようにその入口にさしかかりました。日曜日でミサをやる直前だったのですが、神父様が「こんにちは! ようこそ。どうぞお入りなさい。」と私を招き入れたので自然と体が動いて教会の中に入ったのです。
ミサが終わった後、一人別室に呼ばれ、「あなたはキリストの教えを勉強したいですか?」と聞かれましたので、ためらいもなく「はい!」と返事をし、毎週日曜日、ミサが終わったあと一対一で勉強するチャンスを得たのです。
振り返ってみれば、誠に頭が下がる立派な神父様です。海のものとも山のものともつかない、どこの馬の骨かわからない子供に一対一で教えてくれたのです。しかも貧しい下町のしがない子供のために時間を割いてくれたのです。
今の世の中、地球をくまなく探してもこんな人はいません。無償の愛があることを知ったと同時に、それを誘(いざな)うイエス・キリスト様に今でも深い感謝をしています。
神父様は私の最初の霊的命の恩人であり、キリストは命を支える存在だと知りました。
感謝! (続く)
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ミニ自叙伝「思い出の断片3」
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2012/3/14
幼児の頃は政治家か資本家になる事を夢見ていましたが、小学生の頃は医者になりたいと思っていました。特にシュバイツアーや野口英雄に影響されたからです。
中学では学校新聞を一人で切り盛りしなくてはならず、楽しく忙しい思いをしました。顧問の先生と夜遅くまで、コロッケをほお張りながら〆切りに追われていました。
新聞社に取材に行って紙面が出来上がるまでを調べたり、川上や長島や王などのインタビューもしました。私の文章力は中学生のままです(笑)。
ところで、放送部の人員も少なかったため、昼休みの音楽を担当する事になり、生徒の歌を募集する企画を立てたのです。応募が少なかったため、自分の歌も吹き込んで放送しました。そうしたら放送部の顧問であった音楽教師から、「君は歌が上手いからプロになりなさい」と奨められたのです。私は半分その気になりました。
どこのクラブにも時間の許す限り参加しました。地理歴史部では縄文式土器を製作したり大島に探索旅行に行ったりしました。美術の才能もありましたので油絵を書くチャンスにも恵まれました。
時々、友達と秋葉原に行くのが楽しみで、電気部品を見ては夢踊らせました。チンピラに恫喝されて一目散に逃げた記憶があります。東京は危険でしたが富山では味わえない体験でした。
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ミニ自叙伝「思い出の断片4」
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2012/3/15
小学校六年生の時、学校から開成中学を受けるようにと言われて受験したのですが、全く何の準備もしていませんでした。当然躊躇しましたが、担任と校長の強い薦めがあり応じました。
案の定、試験内容が難しいどころか手も足も出ませんでした。小さい頃からそのための準備をしてないと無理だったのです。私の通ってた小学校では恒例?として、毎年1人~2人位を受けさせる事にしたとのことですが、まぐれで数年に一回は合格者が出ていたようです。なーんだ!(笑)
私の中学三年間はクラブ活動で明け暮れましたので、試験勉強も一夜漬けで通しました。三年の時、家の経済状況を気にして、試験で奨学金を得て高校に望みました。受験したのは私立城北高校という名門高と都立江北・足立学校群。受けたた両方とも合格しました。家の事情を鑑みて都立高校のほうを自ら選んだのです。
もし城北に行っていたら人生が変わっていた事でしょう。なぜなら70年安保を目前にしてのっぴきならない事が控えていたからです。都立足立に振り分けられたことでその後の人生が”おぼろげ”ながらにも決定づけられたのだと思います。
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ミニ自叙伝「思い出の断片5」
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2012/3/16
私の母方の実家は富山県氷見市にあり、裸足でも歩いて海に行ける日本で最も美しいところの一つです。私の小さい頃までは茅葺きの家でした。玄関を入ると土間があり、部屋に上がると囲炉裏端がありましたのでとても風情がありました。朝起きてみると曾婆さんが鍋を自在鉤(じざいかぎ)に掛けて味噌汁を作っていました。調理しながら云う言葉は、「父ちゃん母ちゃんの言うことようきいて頑張んなはれや」。
夏は冷たい井戸でスイカを冷やして食べ、冬は炉端や掘ごたつで暖を取りました。亡き婆さんが私のために残してくれた辞世の言葉があります。「花には水 人には愛 世間にはユーモア」。私はこれを実践出来ないでいます。人生の課題!
私の生家は高岡市伏木にありました。かつて港町として栄えたところです。港に入るノルウェーなどの外国船に乗りこんで遊んだ記憶があります。もちろん違法ですが、その楽しさとスリルは格別でした。外国の玩具を貰ったこともあります。
時々、家の近くの二上山なども歩いて登ったものです。日本で一番古い神社、皇祖皇太神宮のあったところと言われています。古代には武内宿禰が埋葬された墓があったそうです。
海水浴場まで行く桜並木の道はとても美しいところでした。夏は蛍が多数棲息して光を放ち、冬は坂道などで子供たちがスキーをしたりと、とても自然に恵まれたところでした。振り返れば、美しい海と山が近くにあるというのは何と贅沢なことなのかと思います。私の宝、懐かしい記憶!
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ミニ自叙伝「思い出の断片6」
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中学時代の音楽の先生から「君は歌手になれ」と奨められましたので、高校に入ったら音楽をやろうと決めていました。
中学生の当時、ベンチャーズやビートルズが流行ってましたので、レコードを擦り切れるほど聞いた記憶があります。大概はラジオから流れる曲を聞いて、その音楽の素晴らしさに浸っていました。音楽のセンスはこれで培ったように思います。
当時はラジオから世界中の音楽が聞けたのです。それもゴージャスなものからジャズ、ラテン、ポップス、民謡、はたまた浪曲などなど。ラジオ文化が一番豊かだったように感じます。ラジオを聞いて磨いたセンスが音楽家として役に立ちました。
高校へ入るとすぐに音楽の授業で、教師が個別に生徒の歌のチェックをしました。その時、音楽部に入りなさいと教師に言われ、自然にハイ!と返事が出ました。私の高校三年間は音楽一筋だったかもしれません。
楽器は幼少の頃にはバイオリン、小学校では木琴とウクレレと大正琴、中学では主にギター、高校ではギターとウッドベースとピアノをやりました。
楽器だけはよくもこんなに身近にあったものだと関心します。それに録音機はソニーのオープンリールのテープレコーダ。これを使って演奏や歌をチェックしていたおかげで成長したと思います。
特に親に感謝すべきはピアノを与えてくれた事です。高校一年の時に土下座して買ってもらいました。
経済的に豊かでないのに、楽器にだけには不自由しませんでした。普通は、クラシックをやるためにビアノをやりますが、ポップスをやるために、しかも独学で習得してやろうという子供はメヅラシイと思います。しかもその願いを聞き入れてピアノを購入してくれる親がいるとは!まるで奇跡です。感謝!!
私には先生がいませんでしたが、それでもギターで覚えたコードをピアノで再現する事が出来たのです。。。
高校の音楽部ではコーラスをやりました。学校の歴史で初めてNHKのコンクールに入賞しラジオ出演しました。
文化祭では私のアレンジした混声四部合唱「白い恋人たち」も取り上げられました。
思い出深いのは友人と結成したフォークバントです。彼はギターの名手でした。卒業したら一緒に音楽活動したいと思っていたのですが、家を支えるために就職を余儀なくされ、夢は敵いませんでした。
人間的に素晴らしくウマが合うので一番の親友でした。母子家庭でしたが、家に招かれ食事をご馳走になるなど、お母さんにもお姉さんにも親切にしてもらいました。
卒業してから分かったのですが、彼は北朝鮮の国籍だったのです。彼の結婚式に参加しましたが、私一人が日本人でした。貴重な経験でした。
私の歌の基礎は高校生にあったと言えます。コーラス、バンド等…。テレビの番組でムーンリバーをソロで歌った事もあります。
あるプロダクションからスカウトがあり、家にまで役員が来て、歌手契約を結びました。テレビコマーシャルの音楽制作を手掛けていた音楽制作の会社です。有名なものでは「明星即席ラーメン」のコマーシャル音楽がありました。
当時その会社はコマーシャル音楽の賞を取り日本一に輝きました。それで私は日本でも有名な先生たちのレッスンを無料で受けられる事になったのです。しかしその会社は暫くして倒産しました。
私の歌手デビューの夢は無残にも打ち砕かれましたが、そこで受けた音楽教育は当時の日本では最高のものだったのです。感謝!
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ミニ自叙伝「思い出の断片7」
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2012年3月18日
前述しましたように私は高校生の時にオーディションに受かり、無料で素晴らしい先生のもとで歌を習う事ができました。
コーリューブンゲン、コンコーネ、スタンダードナンバー、カンツォーネ、シャンソン、ポップスは伊津野修先生。先生のアドバイスの一つに「君はピアノの才能があるから、弾き語りをするといいよ」。私はその事を機に、ピアノの弾き語りを目指しました。
伊津野修先生はNHKテレビ「歌のメリーゴーランド」にも毎週出演していた日本有数のテノール歌手でした。江利チエミやフォーリーブスや小坂明子などのボイストレーナーもやっていましたが、イタリアに移り活動されていたようです。その後は日本に戻り音大教授になられました。
私が20歳過ぎたくらいの時だったでしょうか。伊津野先生のリサイタルのリハーサルを見学し、その帰りに食事をご馳走になりました。そこで先生がこうおっしゃいました。「君はまだ日本にいるのか。日本にいたら芽も出ないし、潰されてダメになるよ。早く海外に出なさい」。
私はそれを実行出来ませんでした。今思えば確かに日本にいた私は埋没してしまったのです。心の奥底で日本に見切りをつける決心がつかなかったからです。でもその選択でその後の人生の道があったのですから、それはそれとして良しとせねばなりません。感謝…。
さらに、現在は二期会の理事長である栗林義信先生にも習いました。先生の声は天下一品です。これほどの実力者ですから二期会のトップになったのだと思います。その頃、クロネコのタンゴを唄った皆川おさむも習いに来ていました。先生はピアノを弾きながら、私の声の質と歌い方に微笑んでいたように思います。
そして、「おもちゃのチャチャチャ」を作曲した越部信義先生にも習いました。先生に言われて印象的なのは「君は曲作りの才能があるから、自分で曲を作って世に出なさい。これからはそういう世の中になるんだから」。 越部先生のおっしゃった事は見事に当たりました。
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ミニ自叙伝「思い出の断片8」
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音楽の基礎的な事は、高校時代に習得しました。当時の日本の高校生で、ポップスの歌とギターとピアノと作曲・アレンジを手掛けていた者は自分以外に私は知りません。それほど音楽文化の層は薄かったのです。
私は切に音楽家を目指そうとしました。作曲家ではバートバカラックやヘンリーマンシーニのサウンド、歌ではアンディ・ウイリアムスやジルベール・ベコー等が好きでした。
そこへもって、自宅に日大のジャズ研の学生が下宿したのです。彼は私にいろんなジャズの名盤を聞かせてくれました。それ以来ものすごくジャズが好きになり、彼や彼らの仲間とバンドを組み一緒に演奏するようになりました。
ある時、千葉県松戸市の中国レストランで演奏の仕事を依頼され彼らとステージに立ちました。にわかプロでしたが、お金を貰って演奏する喜びと厳しさも知りました。そこに日本ジャズ界の草分けである有名なサックス奏者が立ち寄り、私一人をキヤバレーのビッグバンドにスカウトしてくれたのです。
高校三年生の私にしては毎日演奏するのは荷が重いし、テクニックがないので断りましたが、「ピアノ弾きがいないのでどうしても来てくれ。弾いているふりをしているだけ(当時の隠語で「かかし」と言った)でいいから。一日千円出すから。」という甘い言葉にほだされて引き受けてしまいました。勿論、学校に内緒の条件で。
しかし、騙された?と思ったのは初日からでした(笑)。毎日ショウが入りますが、その日は日本一のベテラン・ジャズシンガー、笈田敏夫さんでした。
キヤバレーのプロのバンドはリハーサルが無く、全て初見なのです。しかも一曲目からピアノだけの伴奏で歌うバラードでした。私は逃げる事も出来ず、体から血が引いたままステージに立ちました。駆け出しのにわかピアニストですから。
案の定、私はひどいトチリをやってしまいました。よくあれで途中でストップもせず歌えるものだと後で関心?(笑)させられました。
バンドマスターに連れられて楽屋に謝りに行きましたが、笈田敏夫さんは怒りませんでした。子供だから怒ってもしょうがないくらいに思ったのでしょう。申し訳ないと思うと同時に、恥ずかしさでいっぱいでした。
そこから私の奮起が始まったのです。自分の腕を磨くために頑張らなくてはと。あと、ふた月余りで高校卒業ですから、いろいろと作戦を練りました。
ところで実は、当時の大学も高校も70年安保を目前に控え、相当揺れていたのです。それは高校生の私にも及びました。
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ミニ自叙伝「思い出の断片9」
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高校三年の時、来るものがついに来たという感じです。学生たちはそれまでの既製政党を全否定し、自民党から共産党までの全てと対峙しました。それを新左翼と言い、共産党と違う意味で反代々木派と呼ばれました。
アメリカやソ連という二大国をも否定し、反帝国主義・反スターリン主義を掲げました。
社会党左派にも新左翼はいました。ご存知、加藤登紀子さんの旦那、故・藤本敏夫さん(私は何度かお会いしている)がそうであり、その後、反帝全学連の代表となりました。共産党と対峙するのは必然です。
スターリンは独裁ですから対立する者に対して粛正を行いました。ライバルは永久革命を唱えたトロツキーでした。新左翼は総じてトロツキー主義です。その幼児的な行動は当然批判されるところですが、共産党や労働組合を動かしている陰の秘密結社に弾圧されたと言っても過言ではありません。
勿論、新左翼も玉虫色で、毛沢東主義者がいたり、収拾がつきません。学生たちはヘルメットの色でセクトをシンボル化しました。
共産党・民主青年同盟はここでは問題外なのですが、一応言いますと黄色。彼らは議会制民主主義を掲げ、政治家を国会に送り出していましたので、新左翼が当然迷惑だったのでしょう。スターリン主義が根底にあるのを暴露されたくなかったのかもしれません。
新左翼は60年安保当時の全学連と区別するために、全共闘として連帯しました。青ヘルメットは社会主義青年同盟。白は革共同ですが、中核と革マルに分裂しました。
赤はブントと言われた共産主義者同盟。赤が元でここから白が別れたのです。理由は、赤が世界同時革命を主義にしていたのに対し、白は日本の革命が先決だとしたからです。赤からさらに赤軍派が出たり、浅間山荘事件を起こすなど、狂気のセクトが枝別れしました。この影には彼らの背後の秘密結社の工作と闘争資金の流れがあります。
赤に黒の縦筋が入ったものは毛沢東主義のML派。セクトに属さない者やアナキストたちは黒。こういう色とりどりの集団が70年安保の時など日比谷公園などに集合したのですから、すごい騒ぎになりました。
機動隊は催涙弾というベトナム戦争で使われた毒ガスとジュラルミンの盾で学生たちに攻撃を仕掛けました。過激派は火炎瓶と鉄パイプで応戦しましたので凄い事になったのです。
他には「ベ平連」などという訳のわからない市民運動があり、見知らぬ女の子と手を繋いでフランスデモをするので人気がありました。元首相Kなども所属していたエセ左翼集団です。これも秘密結社が背後にあります。
このような事を思いだす度に、そのどうしようもない目茶苦茶ぶりが分かると思います。しかしエネルギーはありました。当局が恐れた理由はわかります。
だから共産党や労働組合は一方の秘密結社の監視下にあり、新左翼ももう一方の秘密結社の工作で分解し、ヤクザと新宗教も秘密結社の管理下に置かれたのです。
その後、学生たちは一方の秘密結社のコントロール下にある右翼運動に取り込まれていきます。片や今でも市民運動もその支配下にあることに間違いはいありません。これがオウムやニューエイジに尾を引きます。
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ミニ自叙伝「思い出の断片10」
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所詮、当時の左翼運動などというものは、唯物論なるマルクス宗であって、彼らとの議論は不毛です。なぜかと言うと私が高校三年生の時、その渦中にあったのでよく分かっているからです。これは洗脳されたカルト信者と同じで、無神論なる宗教を信じているに過ぎません。
まず、同期の音楽部長が当学校教育体制を批判して学内でハンガーストライキをやったのです。彼は立派だと思いましたが、ガンジー気取りで一人ヒーローになろうとする行為は少し疑問でした。なぜならハンストを一日で止めたからです。
その後一転して彼はノンポリになり受験勉強に精を出し、とある難関にして有名なる国立大学に合格しました。彼はテレビにも出演したり、某空手団体の顧問弁護士もやっています。
学校制度に反旗を翻すことと大学に進むことは両立出来なかったのです。高校生で学校側と対立した者は内申書に何等かを記入されましたので、大学の門を閉ざされました。これは制裁であり見せしめです。だから彼は諭され折れたのですが弁護士としては成功しています。
ところで、当時は学校や社会に疑問を持つ者はことごとくマルクス・レーニン主義、はたまた毛沢東主義に傾倒しました。それを研究することが進歩的であり最先端の文化人となる道だったのです。
赤軍派などにとって北朝鮮は理想国家だったのでしょう。ブルジョアジーのいないプロレタリアート独裁の国。これはとんでもない幻想です。何が彼らを奮い立たせたのでしょうか。
実は北朝鮮というのは旧ソ連が作り上げたのです。所詮彼らは世界同時革命の狂信者ですから、スターリン主義のソ連とは信条が違いました。ですから秘密結社等の工作により資金的な事や幻想を吹き込まれ、ついには一網打尽にされたのでしょう。
目に見えない神秘の世界を否定する左翼はどこまで行っても救われません。なんと私は高校生でそれを体験してしまったのです。もうお分かりかと存じますが、私と同志たちは大学の門を閉ざされました。
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ミニ自叙伝「思い出の断片11」
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当時の高校生、取り分け私と同期の者たちなどは悉く社会と教育に疑問を抱くようになりました。誰が教えたととか扇動したというわけでもなく。
その勢いは大学から都立高校にまで及びました。日比谷高校、青山高校、上野高校、北高校、そしてわが足立高校。悉く学問には優秀な人材が集まるところです。また純粋さにおいては大学生なぞは足元に及びません。なにせセクトに属していないのですから。
結社やセクトの者どもらはノンセクト(無党派)をコントロール出来なくて困っていたと思われます。中核や革マルに属している者もいましたが、高校生ほとんどがノンセクトだったため、当局もコントロール出来なくて手を焼いていたことでしょう。
大学生の多くはセクトに入っていたため、工作がしやすかったのです。彼ら団塊の世代は大学を卒業したら何事もなかったかのように転向して、いまでは社会のトップに立っています。私に言わせればかなり困ったタチの人間が多いです。かつて犬を惨殺して校門に吊していた世代です。
それに比べ、当時の高校生で世の中に反逆した者たちほど純粋な若者はいません。未だに社会との折り合いが悪く不遇な人間も多いです。自分たちのやった事にプライドと責任を持っていましたので辛酸を舐める結果となったのです。
内申書には不利な事を書かれましたので大学も門前払い。就職も出来ませんでした。私と同じ目に遭った仲間たちは皆、何十年も社会の底辺でうごめいているような状態です。
しばらくは何処へ行くにも私服警官が尾行したり、友達と旅行に行っても、いちいち親に連絡をして、「お宅のお子さんは悪い仲間とつるんでどこどこに行きましたよ」などと電話でありもしない事を親に告げ口したりしました。一面識もありませんから親たちも当局のやることにはさぞかし閉口していたことでしょう。
全く暇な奴らどもです。税金泥棒! これが国家の正体であるとは思いたくもありませんが、若者たちの将来を奪い、社会のみせしめにしたことは事実です。
私は実際にそのようなことをされたので国家権力は信用できないどころか、むしろひっくり返すべき存在と思っていました。今は勿論そんな事は思っていません。
彼らは自分たちのしている意味が分かっていなかったのです。国家権力を笠に着るものらの意識は少年たち以下だったからです。人の道を言ってみても意味が通じない人種だったのでしょう。
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ミニ自叙伝「思い出の断片12」
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当時、無派閥でセクトに属していない者をノンセクトラジカルと言っていました。思うに、実はその層に社会を永続的に変化せしめるエネルギーがあったのではないかと…。
植え付けられた思想がなく、マルクス主義でもなんでもない連中が、素直にお尻に火が付いていることを悟り行動したのです。しかも彼らこそセクトのカルト的要素を本能的に見抜いていたような気がします。
しかし所詮は親のスネをかじる甘さがあるのですから、そこから脱却するのには相当長い期間を要しました。つまり家庭を持って子供を設けて初めてわかることがあります。そこに人生の真価を問われる何かがあるのです。長き道を歩ませられる重要な事が秘められているのです。
言い換えれば、自由と責任と義務の意味を知らされるのです。道の重要さを認識させられるのです。紆余曲折は死ぬまで続き、一本筋が通る道の選択を余儀なくされるのです。そこには何の植え付けられたものもありませんので実に有り難い。道なき道というのはまさにこのような事なのでしょう。
私の場合は音楽と言う職業を選び、プロセスとして超常現象や霊的あるいは不可思議なる出来事を体験しました。その経験を通し、あるいは独学でこの世の神秘を学び、しかも体の不調で死の恐怖を味わいもしました。
有り難い事に子供も授かりました。もし子供がいなければ人生は変わっていたことでしょう。さらには大全宇宙のまことかけがえのない御親を識ることが出来たことはこの上ない喜びです。
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ミニ自叙伝「思い出の断片13」
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ところで、若き時に二人の精神世界の指導者の著作に惹かれた事があります。一人はグルジェフ、もう一人はクリシュナムルティでした。
グルジェフのバックボーンにはイスラム神秘思想がありますが、その生きていく智慧はインディー・ジョーンズみたいなところがあり、私の大好きな存在でした。
戦前はナチス幹部の精神的支柱ともなっていたようですが、その憎めない生き様はそんなことには一向にお構いないくらいに魅力的です。ユダヤ神秘主義のシュタイナーと対立したことにはうなづけます。
ちなみにグルジェフの信奉者にはジャズピアニストのキース・ジャレットがいます。チック・コリアはユダヤ神秘主義ですが、シュタイナーとどのような関係であるかは分かりません。
彼の友人でユダヤ系アメリカ人、ジョエル・カープさん(IBMを経てSamsungの経営者となった。彼には自分の会社の日本支社に入社するように勧められたが私は首を縦に振らなかった。)と親しくしていて旅行の折に聞いたた話ですが、彼の友人であるチック・コリアは実は音楽療法をやりたかったのだそうです。シュタイナーもグルジェフも音楽の奥義を追及していました。
クリシュナムルティは稀有なる存在者でした。当時のインドでは、バグワン・シュリ・ラジニーシやサイババ等も脚光を浴びていましたが、そんなものを寄せつけない孤高の叡智を持った存在でした。
私がリアルタイムで最も尊敬し敬愛した存在です。精神世界で心の師と呼べる人物は彼をおいてはいませんでした。彼が亡くなった時にはひどく落胆したことを覚えています。なぜなら、師が生きているうちに会いたいと思っていたからです。
私は彼により一変させられました。これはパラドックスのようですが、実際に起きた死の体験やクリシュナムルティにより人生の道をゼロから始める作業、つまり霊的な死を余儀なくされたからこそ、むしろそこに留まることは出来ないと識ったのです。
ゼロからそして死へ、死から第二の生へ至る宇宙律の発見。その啓蒙への道…。
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ミニ自叙伝「思い出の断片14」
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ところで日本及び世界は政治経済等、益々危うくなっています。しかし、なかなか改善策も打つ手もありません。この時代に生を受けた我々はよほど業が深いのでしょう。原発を稼動することがいかに危険か、ほとんどの人が分かっていない事からもうかがえます。
私は高校生の時、社会制度と学校教育に疑問を感じ、叛旗を翻しました。同じような疑問を感じた仲間たちと共に。燃え盛る炎のようで誰も止められませんでした。赤穂浪士四十七士の討ち入りの日に行動したのです。何かにつき動かされるとはこの事です。私には幕末維新の志士たちの気持ちがわかります。 2・26の将校たちも、三島由紀夫と盾の会の人たちも行動を起こすべくして事件が起こりました。善悪は抜きにして。
さて学校は我々に放蕩の顛末を反省作文にして提出せよと迫りました。私は学校体制に反発して三学期の試験を受けませんでしたので留年するつもりでした。しかし学校側は作文を書けば卒業させてやると言ってきました。試験を受けなくても単位が取れるほど成績がよかったのか、学校に置いておけないほどの問題児だったのかわかりません(笑)。
私は自分の信条に従って、世の中と学校体制の批判を書いて提出しました。職員会議で読み上げられたそうです。あまりの内容の衝撃に鳴咽で震え出す先生もいたそうです。反省どころか想像もしていなかった内容だったのでしょう。
私の作文の最後の内容の一部はこうです。
*****「地球の最後の日に、一人私は石に腰掛け、白い髭をなでながら、人類の崩壊を目の当たりにしてたたずんている。」*****
教師たちは、私と同志たちを社会から抹殺するために、大学を受けられないように内申書に記入しました。国は未成年者に罪を犯したのです。
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ミニ自叙伝「思い出の断片15」
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めでたく(笑)高校を追い出される事が決まりましたので私は大学を受けようと思いました。しかし、案の定わが同志の内申書には不利な事ばかり書いてありましたので、私も自分の内申書の内容を知りたいと思いました。その内容を知るためには大学入試を受ける申し出を高校にしなければなりません。
私は二校受けるということにして、一校は早稲田を一応受験しました。案の定落ちました。もう一通を開封してみたところ、これでは絶対受からないという内容でした。私の仲間たち全員が同じ事を備考欄に書かれていました。
今も国家というものは昔と変わらずひどいものです。高校を卒業しても半年は何処へ行くにも警察の尾行がありました。何も悪い事をしていないのに、私の身分はヤクザや昨今のオウム以下でした。理由は組織の何処にも属さずにいましたので、特別に目を光らせていたのです。
若い人たちにこれだけは告げておきたい。いつの世にも国家権力というものは、組織に属していない者たちを特に監視していますし、それを先に叩きのめします。これは習性なのか、よほど暇なのか(笑)。つまり組織に頼らずに生きる者らは弱者だからです。
実はこの事は違う曲面で断続していたのかもしれません。サラリーマンを離職して『心と体と環境の総合クリエイティブセンター「みづほ館」』を流山市初石に開設しました。音楽療法や整体や氣功をとおして地元に貢献できたと思います。弟子も育って今でも彼らは頑張って活動しています。
さて、それからしばらくして家の前にオウムが集団で引越して来て大騒ぎになりました。彼らが来てからは警察や右翼や得体の知れない奴らが毎日のように押しかけました。
不思議で妙な事ですが幾重かの層が見え隠れしていました。まずはオウム、そしてそれを見張る町内会の警護団、さらにそれらを監視する警察、その上に全体を見張る公安、また周囲を取り巻くマスコミや右翼や宗教関係。すごい状況! ずいぶん旨そうなリングじゃねえか(笑)。
びっくりしたのは、町内会の役員と警察に常駐している公安が私の家にやって来た事です。見かけぬ怪しい奴らがうろうろしているので、変なやつがいると最初に警察に通報したのは私なのですが、それがオウムのグループでした。オウムが目と鼻の先に引っ越して来たのです。こんな閑静な住宅街になぜだ…。
なんと町会役員たちは数人がかりで家に乗り込んで来て、「頼むから騒がないでくれ」と迫り、公安警察は「絶対尻尾を捕まえてやるからな」と刑事コロンボの真似をして私に呟きました。
私は愕然としました。サラリーマンの時に大変な思いをしながら、国学院で神職の資格を取り、自費で本を二冊刊行し、未知の分野の科学技術の研究をしていただけだというのに。
時として権力は敵を間違えることがあります。その理由は簡単です。政治や宗教や結社等が見えないところで繋がっていて、自分たちの都合のいい社会をつくろうとして、動物の如き動きをしているからにほかなりません。
それでも私はその罪を許してあげようと今に思う。彼らは私よりも年上なのですが、道理をわきまえておらず、無明の中をさまよっている小さな者たちだからです。大きな悪を司る者らよ、今どこで何をしているか!
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ミニ自叙伝「思い出の断片16」
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高校を卒業する以前からギターの弾き語り等の仕事が入ってきました。渋谷公園通りにあるイタリアンレストラン。当時はホセ・フェリシアーノや長谷川きよし等が脚光を浴びていて、あんなふうにギターで弾き語りができたらと思い、一生懸命に練習したからです。
ギター弾き語りの仕事はそれなり面白かったのですが、例のピアノの仕事のミスが幸い(笑)してか、ピアノに打ち込んでみようと決めました。歌のほうでもさらに深い表現を目指し、シャンソン界の第一人者・宇井あきら先生の門をくぐり、銀パリにも何度か出演させてもらいました。アテネフランセという御茶ノ水にある学校にも通いフランス語を少々かじりましたが、今はもうすっかり忘れています(笑)。ちなみに、宇井先生は菅原洋一が歌った「今日でお別れ」という作曲でレコード大賞を取った人です。
さてその当時、音楽家が歌や演奏で仕事をするためには何が必要だったのか。それはビートルズやカーペンターズ等のポップス、映画音楽、ジャズ、ラテン、シャンソン、カンツォーネ、スタンダード、フォーク、歌謡曲と幅広い能力が求められたのです。タンゴなどというものも少しかじっておかないとリクエストがきたときに対応できません。
このような幅広いジャンルをこなすのには何が必要か。それはジャズの理論と演奏方法です。渡辺貞夫さんがちょうどバークリー音楽院から帰ってきて恵比寿にあるヤマハでスクールを開きましたので、そこに通ってジャズピアノと理論を学びました。先生は徳山陽さんという人で、レイ・ブライアントとビル・エバンスの研究では日本の第一人者でした。
私は仕事をしながら独学でピアノも弾いていましたので、きちんとした教育を受ける事は自らの音楽構築に役立ちました。オーディションに受かりさえすれば都内各地でバンドや弾き語りの仕事の引き合いが数多く舞い込んできたのです。
20代半ばには当時のサラリーマンの3倍くらいは稼げるようになっていました。深夜の仕事(1時~4時頃)があると通常の夜の仕事(6時半~11時半)の1.5倍位にはなります。しかし二か月もやるとへとへとで体を壊してしまう事があります。所詮は水商売、夜の稼業に変わりありません。どんなに優秀であっても無名のままです。
戦後、ヤクザやチンピラたちでさえも憧れた夜の花形の仕事はスリービー(3B)と言われ、バンド、ボーイ、バーテンダーというものでした。その中でもバンドは一目置かれていたのです。
この道の大先輩でジョージ川口というドラマーがいましたが、最盛期にはギャラの札束を数える間もなくバッグに詰め込んで全国を縦断していたそうです。彼はヤクザも憧れるヤクザ以上の極道でした。 昨今、芸能人とヤクザとの問題が持ち上がっていますが、今更という感じは否めません。
かつての若者たちの音楽文化にフォークやニューミュージックというものがありました。私も自主レーベルを作りレコードを制作してその世界に飛び込みました。入場料を取る自主コンサートをやると必ずヤクザが来て「誰の許可得てやっとんじゃ」と脅しをかけられた人は少なくないはずです。脅されることなく興業やメジャーレーベルでのし上がって行った人たちがフォークやニューミュージックの世界にはありましたが、これが音楽産業界のタブーであるかもしれません。
業界に在日の人たちが多いのはこのところに端を発しています。在日ヤクザは同朋に手出しをしません。その辺りに今日の音楽業界の問題があると言えばそうなのでしょう。事情もわからないで右往左往し、悩みながら結局は芽が出ないで終わってしまっていたのは普通の日本人ミュージシャンだったのです。
何と言うことでしょうか! しばらくして在日ヤクザは宗教系列プロダクションに権限を譲り、奥で上前だけをはねるようになります。これが日本の陰の二大エージェントなのです。マフィアと同じ構図です。彼らの仲間に入るか、彼らに頭を下げて仕事を貰うしかないのです。それは他の分野にも及んでいる事は言うまでもありません。
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ミニ自叙伝「思い出の断片17」
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高校卒業後はしばらく、ピアノの弾き語りを渋谷でやるチャンスに恵まれました。その店は既にありませんが、電通通りにある「モリゼ」というイタリアン・レストランでした。客質も善く、ここでピアノ弾き語りとしての第一歩を踏み出した気がします。
私がピアノの弾き語りを始めた頃は、都内には数えるくらいしかピアノの弾き語りはいませんでした。それから2~3年して、雨後の竹の子の如く増えていったのです。
*あの頃のバンド仲間やミュージシャンたちは今どうしているのだろうか?
*その時代にピアノの弾き語りをやっていた者はどこで何を…?
*ひょっとして私が現役最高齢にして最もキャリアが長いピアノ弾き語りなのではないのか?
暫くして19歳の時、新宿百人町(今はこの地名は無い)で店舗が空いているから店をやってみないかという話があり、生まれて初めて飲食業の経営者というものを体験しました。店の名前は「タムタム」。打楽器のようにリズムのノリが良いことを願って命名しました。
弾き語りが出来るようにピアノとアンプをセットしました。今思うとユニークです。お客さんがくつろげるように靴をクロークで預けて入る「ジュータン・Pub」にしたのです。店は建物の二階にあったのですが、これではお客さんも飲み逃げ出来ません(笑)。
演奏の合間のBGMはLPレコードをかけました。椅子とテーブルは壁側にぐるりと配置し、お客さんが中央で踊れるようにしました。当時流行っていたポップスやディスコ・ミュージックを流したらお客さんはとても喜んでくれました。そのうちにギターやベーシストなどの演奏仲間も集まりとてもいい雰囲気になりました。
店がそれほど長く続かなかったのは、連れ込みホテル街の入口にあり、一般客が入りづらかったこともありました。しかし本当の理由は、建物のオーナーが店舗を手放してしまい、その上さらに東大出身なるその人物は本当の持ち主ではなく、私に高額家賃で又貸ししていた事が発覚したからなのです。
今思うとよくもあのような特殊地域で店を出す勇気があったものだと思います。まあ、当時の新宿の無法地帯ではざらにあった話ですが、若さゆえの恐いもの知らずか(笑)!
しかし、いい経験になりました。若い時にはどんな事でも勉強になります。その後は奮起してバンドを結成して、都内あちこちで演奏する日が毎日続きました。
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ミニ自叙伝「思い出の断片18」
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私が手掛けた店は新宿百人町「タムタム」の他に二軒あります。新宿歌舞伎町の「JAZZてんとう虫」と渋谷区本町の「Pubあめりか屋」でした。まずは「てんとう虫」の話からしましょう。
近くにあった会員制の「ミスター倶楽部」というところでピアノ弾き語りの仕事をしていましたので、「てんとう虫」には休憩の合間に顔を出していました。当時、家内が切り盛りしていましたので、言わば用心棒がわりというところでしょうか(笑)。
ちなみに、映画「ツィゴイネルワイゼン」を監督した鈴木清順さんの奥さんがやっていた「かくれんぼ」という店が目と鼻の先にあり、監督も毎日のように用心棒として出勤されていました(笑)。どれほど危険な地域かと言いますと、時々朝方に路地裏で血だらけで倒れている人がいることでも想像できるかと思います。
「てんとう虫」は小さな店でしたので演奏はできませんでしたが、JAZZのレコードをかけて評判になりました。
あの頃「バンちゃん」と呼ばれていて、後に小説家になった「馳周星」という常連客がいました。彼はてんとう虫を舞台にした「不夜城」という小説で一躍有名作家になりましたが、これは映画化もされヒットしました。
有名無名のミュージシャンがいっぱい集まりました。山下洋輔、浅川マキ、小椋ケイ、石川さゆり、映画監督の和泉聖治等、有名人や覇者もいろいろと来ていました。
それにも増して珍しかったのは海外の有力な人たちが大勢来店したことです。世界的に有名な数学者でアメリカ人のバシェック・ホワタルさん。そして彼と一緒に来た秋山仁さんもその後有名な数学者としてマスコミにも出ています。
海外のジャズミュージシャンではピアニストのレイ・ブライアントも来店しました。息子も共演するなど、とても縁の深い人でした。そして家内の母親とも交流が深かったのです。不思議です。
今は人の名前はおぼろげとなりましたが、イラク大使のアル・ジャフさん、アルジェリア領事のカメルさん、IBMの重役ジョエル・カープさん。名前は忘れましたがノキアのアジア極東社長等。
イラク大使は我が家にも訪ねて来てくださいました。一緒に飲みに行ったこともあります。
アルジェリア領事は私と妻を家に招いてくださり、奥さんがアルジェリア料理の腕を振るってくださいました。主食のクスクスは美味しかったです。
IBMのカープさんとは奥さん共々一緒に箱根旅行をしました。例のチック・コリアの友人です。その後、サムスンの重役となってからは音信が途絶えました。元気でいれば幸いですが…。
ところで、「てんとう虫」の建物は「新宿センター街」というところにあった終戦直後のものでした。しかも旧青線地帯(国が管理する売春地域を赤線と言い、無認可のところは青線と言った)にあったのです。そこで立ち退きの問題が持ち上がり出ていかざるを得なくなったのです。
その地上げに際して立ち退きを迫ってきたのが満州で馬賊をやっていた銀座にある有名ファッション業界の社長でした。実際にはヤクザと同じなのですが(笑)。
ところが、ある精神世界やUFO関連で有名な出版社のパーティーに呼ばれてピアノを弾くことになった時の事。なんとその人が居るではありませんか! 出版社の社長と無二の親友で戦前の満州の馬族仲間だとは奇遇でした(笑)。そのヤクザのバツの悪そうな顔は今でも忘れられません。
てんとう虫を舞台にして、ケンカ鉄や熊さんやら当時ヤクザも恐れた人たちがいた事実。彼らはどうしているでしょうか。鉄さんは映画の主人公にもなりましたが、その監督は「てんとう虫」の常連でもあった有名な和泉聖治さんでした。
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ミニ自叙伝「思い出の断片19」
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「JAZZてんとう虫」は団塊の世代を中心にして、その前後の年代のお客さんが多く集まりました。常連客となった人は皆さんとてもいい人たちでした。
前述しましたように、「てんとう虫は」新宿センター街というところにあったのですが、近くにはゴールデン街という風情のある場所(笑)も在りました。赤塚不二夫やタモリたちも馳せ参じていたた一角です。彼らがたむろしていたところは「ジャックの豆の木」という店だったと思います。
友人でコータローさんの経営していた「トートの書」という店もあり、私の好きなところでした。ただし、よくわきまえていませんと危なくも怪しげな店もかなりありました。そこが映画のセットみたいで面白いのです。これは話し出すときりがありませんので、ここらで止めにしておきます(笑)。
さて、てんとう虫は左翼も右翼も関係なくジャズのレコードに酔いしれていました。政治も哲学もUFOや超常現象の事も何もかも、見知らぬ同士でも朝まで語り明かすこともしょっちゅうでした。まるでフランスのカフェのようです。
時々フォークのレコードなどもジャズの合間に流していました。当時は井上陽水などのLPも鮮烈でした。「かぐやひめ」の「神田川」が流行っていた頃、これを聞いて皆が涙ぐんでいました。
信じられないと思いますが、当時の若者たちは猛者も相当いましたが、案外と純真でナイーブだったのです。このような時代はおそらくもうやって来ないでしょう。フランスにおける絵画やシャンソンのかつての時代が過ぎ去ったように、時代とはそういうものなのでしょう。
さてさまざまな紆余曲折がありましたが、渋谷区本町の「Pubあめりか屋」は私が29歳の時に出した店です。思い切って昼間のランチもやり店舗の家賃と光熱費を捻出しました。開業資金が300万円ほどかかりましたので、当時流行ったインベーダなどのゲームの出来るテーブルをリースしたところ、一年かからずに借金が返済出来ました。
バンド演奏で使用していたフェンダー・ローズという電気ピアノを設置して演奏ができるようにもしました。
当時はUFOをはじめとする精神世界のブームでしたのでその類の雑誌も置きました。私も度々UFOを目撃したり不思議な体験をしていた事もあったからです。
とにもかくにも、お昼の開店と同時にドットお客がなだれ込んで来ました。飲食業というのは人の三倍働かなくてはなりません。日銭が入りますので当たれば儲かります。
それにも増して、ゲーム代金の収入がハンパではありません。テーブルのリース屋と週に一度ごと折半するのですが、自転車のハンドルが重くて運転が大変な程に百円玉が集まりました。それで店の開業資金の借金を返済出来たわけです。笑いが止まらなくて腹が痛くなりました(笑)。
活気ある凄まじい世の中でした。多くの人が脱サラをするときに、「喫茶店をやってみようか」ぐらいの軽い気持でもなんとかやっていけたのです。いい時代だったのでしょう。若者たちの多くは自分の夢に向かって突き進んでいました。
近所に住んでいたメリージェーンのヒット曲で有名な「つのだ☆ひろ」やその事務所の人たち。そして彼のバンドのメンバーたちとの交流も懐かしい思い出です。
「アイ・ラブ・ユー」の尾崎豊も無名の時に来てくれました。まことにさわやかで真面目な青年でした。彼の死を耳にしていたたまれなくなったのは言うまでもありません。
超常現象関係の本を置いていましたので、そういうオタクなファンも来ていました(笑)。UFO番組を担当するテレビ・ディレクターもお客様でしたが、彼はその後、カルト本などを出してずいぶんと怪しくなりました(笑)。
昼のランチから夜のスナック・タイムまで眠る暇もなく、とにかく忙しいかったことを今でも思い出します。どうしてそんなに繁盛していた店をやめたのか。そこに吾が運命の分岐点がありました。
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ミニ自叙伝「思い出の断片20」
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私の世代を振り返ってみますと、超古代のミステリーや超常現象やUFOや超能力等が本や雑誌などの媒体を通してや華やかに取り上げられた時代だったことは確かです。学生運動が収束したとたんにそうなったのは必然のような感じに思えてしかたがありません。スプーン曲げ等をやる友達もいましたし、特異現象はさして珍しくありませんでした。
しかし不思議なことに、暫くしてぷっつりと消えるようにして表面上は世間から無くなってしまいました。その後は自己啓発セミナーやら新宗教やらとんでもないことになるのですが…。
実は今だに総括出来ていない世の流れとして、点と点で繋がる奇妙なものがあるとすれば、学生運動の挫折から超常現象の体験を通した精神世界への目覚めがあるということです。この世代で社会に対しての深い洞察力を持ちつつも表舞台と縁遠い存在がある人たちには、一貫してこのような摩訶不可思議かつ理解不能と思えるような事が起こっていたのです。
すなわち<組織に属していない>という共通項・・・・・。これです! 全ての組織的な動きが幻想を生み出すことを知っているのは、ごく少数ですがこの世代の中にいます。インド哲学やクリシュナ・ムルティの存在はこの事とリンクしていました。
大人たちの作り上げた社会に対して真っ向から“Non!”を突きつけたのです。つまり無言の抵抗だったかもしれません。多くの若者たちが自立するべく技を磨き一国一城の主になることを夢見ました。音楽や演劇や写真、また喫茶店や飲み屋の主など様々な分野において。
それに反して社会そのものは組織人間やサラリーマンの天国になっていきました。そこにおいて組織権力や支配体制との折り合いがひどく悪いのです。しかもそれが何十年も続いています。時代劇で傘貼りをしている万年浪人のごときです(笑)。
でも実際にこのような時代状況になって、あとは棺桶に足を突っ込む年代になってみると黙っているわけにはいかなくなってしまったのです。かくいう私は中学生の頃の豆新聞記者の経験を思い出し、また恥や外聞もさらけ出し、文才の無さもさることながら、このように奮闘しつつも世間に訴えているわけです。
早く人々の気づきが訪れ社会全体が改まり、子供たちの未来が良き地球となりますよう祈るばかりです!

