自分らしさ[No.333] | 起業して不安はあるもののワクワクしている50歳・IT技術者・中小企業診断士のブログ

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僕はラーメンが大好きで、どこか初めての場所に出かける場合は、事前にネットで近隣の評価の高いお店を探しておくことが多い。そして実際に食べてみるとネットでの評価の高さとは裏腹に、うーん・・・なことが時としてある。そんな時は自分の舌がダメなのかな?世間の標準からズレているのかな?と不安になってしまう。その一方、ひょっとしたらステマみたいなテクニックで評価が操作されているのかも、自分が正しいのであってネットの評価は多くの人が思わされてしまっているだけなのでは?裸の王様に素敵な洋服ですね、なんて言えない!と思ってしまうこともある。自分の主観が一番優先されるべきで、客観は素敵な主観に効率的に出会うための手段にすぎない、ネットの数多くある評価の仕組みについては、そう思うことにしている。

 

さらにネットの話で、インスタ、Facebook、googleニュース等で流されるコンテンツは偏執的、つまり自分の興味や思考(嗜好)にあったものだけが選ばれている、というと聞こえがいいが、今の自分にはないけれど今後ハマるかも、とか自分と正反対の意見に接してその背景を想うことで自分の思考を修正するようなことが難しい。だから不寛容を加速させかねない。極端な考えに支配され分断が進むアメリカみたいに。さらに次々に自分を心地よく刺激してくれる映像を見せられるものだから中々やめられない。気がつくと随分と時間を奪われてしまったりする。推しのアイドルのランキングアップのために幾十枚もの同じCDを買ってしまうマニアみたいに。

 

似たようなことで、最近ショックドクトリンという本を紹介する番組を見た。恐怖や不安、混乱を利用して、自分の優位性を高めたり、儲けたりする火事場泥棒的なやり口にはご用心!といった内容だ。対テロを口実に敵対心、不安感を煽り国家の監視強化を正当化する、そんな例が挙げられていた。安全確保のため監視は不可欠である。そんな綺麗な言葉が人々を傾倒させる。監視はちょっと・・・と言おうがものなら、じゃテロによってあなたの子供が犠牲になってもいいんですね!?そんな二元論で言いくるめられてしまう。殺されるのは嫌だけど、監視されるのも・・・嫌だ。だからもう少しいい塩梅でやって欲しいんだ、は受け容れてもらえない。何故かというと仕掛けている側は対テロというよりも圧倒的に、監視強化によってもたらされるコントロールによる恩恵の方を欲しているのだから。

 

続いて自分らしさの表現を左右する買い物について。次々に新しいものが、少しだけ形を変えて、少しだけの機能が加えられて、もしくは宣伝方法が変えられてリリースされる。世界記録の更新を極めて細かな小分けにすることにより、その度に注目を集めたソ連の棒高跳び選手ブブカみたいに。何となく新しいのではないと不完全な思いにさせされて、まだまだ使えるのに買い替えてしまったりする。最近のESGのE(Environment:環境)が随分と持てはやされるようになり、幾分このようなことに胡散臭さを感じるようになったけれども、まだまだあるところにはど真ん中に据えられている。人材は費用ではなく資産とか美しいことを並べておきながら、実のところは社員を顧みる意識なんて皆無である企業の残念のように。そして購入後に気づかされる。別に買い換えるほどのことはなかった、と。

 

以上のように自分らしさを守っていくには多くの困難が待ち構えている。それでは自分らしさを守っていくにはどうしたらいいか?とても参考になるお手本がいる。第二次世界大戦の敗戦のどん底から日本の復興を主導し、戦勝国という立場がもたらす圧倒的上から目線なGHQに従順ならざる唯一の日本人と言わしめた白洲次郎だ。そんな彼が大切にしていた「プリンシプル」という言葉がある。自分に課すルールみたいなものだ。そのルールに則って空気を読むことなく主張、行動する。どうしても協調が求められる場面の多い環境下では、そんなスタンスを一貫するのは困難なこともある。それでも僕は可能な限りそんな風でありたく思う。最後に彼がGHQマッカーサー元帥の敗戦国日本に対する驕り高ぶった態度に対して言い放った言葉を紹介する。

 

 

我々は戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではない。

 


自分らしい「ゆらゆら帝国」