承認欲求~すごいでしょ![No.314] | 起業して不安はあるもののワクワクしている50歳・IT技術者・中小企業診断士のブログ

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 自分のことを分かって欲しい、認めて欲しい、という気持ちは誰にでもある感情だと思う、おそらく。ただ、その強弱、認めてほしい内容は人それぞれで、時に誤解を招くようなことも少なくない。人は自分に余裕がないと、人を受け入れる度量に乏しく、むしろ嫉妬を感じてしまうものだから、自分を承認してほしい際の表現は控えめがちょうどいい(と勝手に思っている)。

 

 SNSでゴージャスな投稿を見ると、すげーと思いつつ、過剰にアピールされていたりすると、嫉妬ともに、ひょっとしたら、この人は満たされていないのかな?とも感じてさえしまう。じゃ自分はどうか?と考えると自分もこうして好き勝手なブログを書きながら承認を求めているのかもしれない、と考えると、そうした投稿と大差がないのかもしれない。書くことは自分を助ける、とどこかで書かれていたけれど、ホントだ。

 

 また人は自分を承認してほしい時、聴き手に、聴くこと、受け止めること、ただそれだけを求めていることが多い。意見は要らない。受容とか、共感、それが人を包み込むような包容につながる。これでいいんだ、と実感できる。「僕は少し違う考えを持っている、どういうことかというと・・・」は往々にして、不要である。自分の正しさの主張の機会は最小限でいい。僕の職業はシステムエンジニアであるが、技術は申し分ないけれども、利用者のニーズを適切に評価する信頼性に欠ける、なんて言われないよう「聴く」姿勢を強く意識していたい。

 

 人は持ち物や、ファッション、音楽、本、食べる物・・・といった自らの選択によって自分はこういう人です、分かって下さい、といったアピールを頻繁にする。最近、マーケティングの一手段としてストーリーの大切さの話を読んだ。人はモノを買うのではなく、そのモノの持っている意味を買うといった内容だ。流石に空腹を一早く満たすためのカップ麺にそんな感覚はないが、大切な顧客をもてなす勝負のかかった店選びには、そういった要素がふんだんに鏤められる。

 

 また、似たような話で車という商品には移動という機能と、それを所有する意味の両側面があって、日本車は機能としての素敵は申し分ないものの、意味としての洗練は不十分だ、といった内容の本を読んで、なんとなく納得してしまった。顧客が僕をシステムエンジニアとして選んでくれる理由として、技術はもとより、顧客である自分たちの安心感が何より、と言っていただけるよう励んでいたい。

 

 

 先日、「一生モノのアイテム」みたいな雑誌の特集があって、その中で僕の大好きなヘミングウエイが愛した万年筆が紹介されていた。決して安いわけではなかったけれども、それを所有することで憧れに近づけるかも(そんなワケない)、素敵な文章がかけるかも(そんなワケない)、ヘミングウエイみたいだと誰かに感じてもらえるかも(絶対に有り得ない)、そんなどうしようもないことを感じつつ、アマゾンでついポチってしまった。書き心地は悪くはないけど、100円のボールペンの方がいいかもしれない。さらにインクを注入する作業も手が汚れるし面倒くさい。都度、キャップをグルグル回して開け閉めするのも手間である。それでも、その万年筆の所有は他者からの承認は到底望めないけれど、自己承認(満足)で構わない。

 

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