平均、それと平等[No.175] | 起業して不安はあるもののワクワクしている50歳・IT技術者・中小企業診断士のブログ
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先月に発表された7-9月期のGDPの成長が事前の予測を裏切りまくってマイナスとなり、とってもたまげてしまった。民間エコノミストの事前予想は上と下の大胆な数値を「異常値」として切り捨て、真ん中くらいの当り障りのない情報で評価する傾向があるそうだ。大胆な予測は上司が承認してくれないから。消費増税による買い控えとか、海外現地生産が進みまくった中での超円安の負の側面とか、いつもと違う状況の中、今回「平均」は通用しなかったみたいだ。

言われたことを確実・忠実にこなす平均的な人は評価されやすい。よく言うとバランス感覚、悪く言うとゼネラリスト。随分と前からゼネラリストは不要みたいなエッジの効いた話を耳にしてきたけど今のところ、そんなこともない。

平均年収は格差が拡大する中で数値として意味をなさなくなりつつあると言われている。5人がいたとして一人が4000万円、他の4人が250万円だとすると平均年収は1000万円。一方、5人全員が1000万円の場合も、平均年収は1000万円である。同じ総収入、平均年収のなかでの数字のパラドクス。格差時代と言われる昨今、冷静に数字を評価しないと不要な混乱が生じることになる。平均値より中央値、つまりもっとも人が分布しているところが重要だと言われるようになってきている。

小泉政権の時もそうだったけど政治が安定し、景気が回復してくると同時に格差という声が大きくなる気がする。優秀な人が引っ張って、その見返りとして儲けることに僕はそんなに違和感を感じない。拝金だけのインチキはどうでもいいし、アメリカを見ていると、もう少し平たくてもいいのかなと思うこともある。でも、みんな平たく貧乏よりも、一部の優れた富めるリーダーがもたらす全体の引き上げによる豊かさの方が僕は好ましいと思う。多少の嫉妬はあるかもだけど。東西を隔てていた鉄のカーテンとさよならした時に、限られた固定的な既得層だけが豊かな、平等とはほど遠いソ連ではなく、どちらかというとみんなに平等な機会が与えられていたアメリカを世界が選んだように。


雪解けに向けたレーガン・ゴルバチョフの会談

格差が傲慢とか既得に陥らないための教育機会の平等、相続税を高めることによる世代を超えた格差固定化の防止、雇用の流動化による機会の時間的平等、そんな格差への対処が進んだら日本がもう1度、世界に伍していけるのかなと思う。

人は持っていないと平等を、持ってしまうと維持を、求める。

特に子供の教育については親の収入による教育費への多寡、情報への感度といった影響によって二極化が進んでいると言われている。平均なき、歪んだ平均。僕は教育くらいは、貧富によらない平等な機会が与えられるべきで、国家予算を集中投下すべき部分だと思う。優秀な人材が世界に出て行って、富を日本に還元するといったリターンは投資額を大きく上回ると勝手に思っているから。

公平な競争条件のもとでの努力とか勇気の差から生じる格差は発展に向けて不可欠だ。いつでもだれでも機会が平等に用意されているのであれば。

個人の金融資産の60%を保有しているお年寄りは孫への教育費の支援を惜しまないようである。その一方で子育てが必要な世代は教育費を貯めるために働かないといけないけど保育園に入れなかったり、企業の時間的、空間的な奉仕の強要といったことで、働けなくてお金が足りないから十分な教育を受けさせられない、といったお金のミスマッチ、偏在が生じている。そろそろ 老 →若 のお金のシフトを国として真剣に考えた方がいいと思う。

もうすぐ選挙だけど、そんな世代間格差を平らにならしてくれる人がでてこないかなと思う。だって今のような財政収支が続いていく限り今の子供たちが年をとった時に今のお年寄りが得ているのと同じようにはならないだろうことは明白だし、若者にお金を振り向けることが長期的にはお年寄りに還元することにつながるだろうから。

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