起業して不安はあるもののワクワクしている50歳・IT技術者・中小企業診断士のブログ

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表題は Evidence Based Policy Making の頭文字をとったもので「証拠に基づく政策立案」と呼ばれている。これまでの常識とか変な思い込みからではなく、根拠に基づいた政策を進めていきましょう、そんな意味だ。少し前に新聞で、次のようなことが書かれていた。日本の経済は今後、大きく伸びていくことは期待できないばかりか、経済規模に大きく影響する人口に至っては大きく縮んでいくことが懸念される。だから社会生活を支える財源もそれに合わせて乏しくなるだろう。そんなだから、情報から得られる根拠によって適切に判断、検証し、余裕のない貴重な財源を効果的に活用していこう、お願いだから、地方の有力政治家の思惑とか、特定企業への利益還元、政策担当者の場当たり的な判断、そんな残念は勘弁して欲しい!

保守的な組織と接する機会があると、前例だとか現状維持への執着、権威への服従、そんなことへのやれやれ感で一杯になることがある。これまで上手くいっていた方法の前提であった環境は既に変わってしまっている。だからそれに順応するための新たな方法が不可欠だ。けれども、それを推し進めようとすると、往々にして主人公の交代、大袈裟な言い方をすると、権力の移行が生じる。古いやり方で活躍していた人が蹴落とされ、新たなやり方に素早く適応した人にスポットライトが当てられることになる。そうなってはたまらないから、ごく限られた部分の人が、根拠を顧みることなく古き良き?に固執し、全体の価値を貶めてしまうことがある。デジカメの市場侵食が勢いを増す中、フィルム写真に執着しまくって市場退出を迫られたコダックのように。

次は効果に乏しい品質管理の例。業務で新たに問題が生じると、業務マニュアルに新たな再発防止策が追加される。例えば確認が不十分であったため生じた問題に対して、確認は必ず2人で行い、その確認結果を詳細な文書で残し、それを係長、課長が承認する。その際には「てにをは」的な厳格な文法チェックも含まれ、差し戻しが頻出する。最後に月一回開催される品質会議なる軍法会議のような公の場で、文書に対する最終確認が行われる。多くの「重箱の隅」的な指摘がなされ、やり直しを命じられることも少なくない。このような難関をくぐり抜けてようやく結審する。さらにその文書は5年間の保管が必要とされる。以上のようなルールが日々、追加され、現場はそれに従順であるために毎日精一杯の対応が求められる。そんな中、前向きなワクワクするような提案を考える余裕、気力なんて残されない。もちろん、引き起こされる問題によって工場の稼働が止まるようなクリティカルなものであるならば、そこまでの対応にも納得感はあるが、非常に些細な、例えば社食のハンバーグランチに添えられているサラダの人参の千切りが幾分太くなってしまうことへの行き過ぎた批判みたいなのは従業員のやる気をげんなりmaxにさせる。プライオリティに応じた適切さが欠かせない。


些細に対する過剰な厳格さは健全な運用を破壊する。

もう一つ、国難とまで称されるようになった少子化対策について。少し前までは、共働きを支える保育園等への受け入れの必要性が随分と叫ばれていた。待機児童ゼロを目標に保育園、保育士の拡充に力が入れられてきたが、このところ空きが随分と出てしまっているところもあるらしい。目標とする受け入れ数が実態とかけ離れた過大な数で、それがために施設、人員の余りが生じている。その余分を例えば大学等の学費低減に差し向けた方が出生率は増加の方向に向かうのかもしれない。見誤った現状認識に対する過剰な対策。システムベンダの意向が優先され、現場の声を軽視して導入された、ほぼ使われることのない情報システムの残念みたいに。


以上のように現状を適切に把握し適切な対応をとるためには正確な情報が欠かせない。かつて民主主義に属さない権威主義国家の統計値は国家のご都合で鉛筆を舐めるような操作をするため当てにならないと言われてきた。ところがここ日本でも経済状況を実際よりもよく見せるような統計値の脚色が明るみになり、衝撃が走った。その操作された統計値に基づいて経済対策を行うものだから、現状とマッチしない施策が実行され、投入された費用が効果的な結果をもたらさない、そんなことが懸念されていた。ステージ3のガン患者に対して行われるマイルドな、効果のほぼ見込めない見当違いの治療のように。

 

 

最近、ガバナンス改革の一環で社外取締役が急増している。当初は、よその人にうちの何が分かるの?といった社外取締役に対する懐疑的な声が強かった。しかしながら、タタキ上げのオジサン達の凝り固まった常識に基づく身勝手な判断ミスが相次ぎ、多様な背景を持っている人達の議論によって残念過ぎる勘違いを事前に抑止しないとヤバい、そんな考え方が支配的になった結果だ。このような中、多数の会社を兼務したり、代表とズブズブみたいなことで、お飾りになり下っている社外取締役も少なくないようだ。誰が正しいか?ではなく、何が正しい、が貴ばれるところに私は身を置いていたい。情報ばかりか、自分の意さえも殆ど顧みることなく勝ち馬の意向をばかりをなぞるような人に今後の多くの可能性が残されていないことを信じている。

 

「だから」を歌うsonic youth