※記事のうち興味深いものを2点ほどをご紹介させて頂いています。
松崎白圭(1682-1753)は江戸時代中期の儒者であり、篠山(現在の兵庫県篠山市)を封土とする(形原)松平家の家臣でした。形原松平は三河の頃からの徳川家康の親戚筋であり、戦国のころから忠義をつくして各地を転封したのち慶安2年(1649)からは篠山5万石の藩主として就封しておりました。
白圭(名は佐吉・堯臣)の父親は、元は河内の人物で、家系についてははっきり示せない事情があったのか明らかには伝わっておりませんが、おそらくは学問をもって松平家に出仕が適い、のち200石取りの参政(家老)を勤めるまでに出世いたします。
白圭もまた子供のころから利発で、5歳のころ八幡祠で遊んでいると、参拝客のうちの大人の三人組が、佐吉の可愛らしい姿に小遣いでもやろうと十文銭二枚を与えると、作法どおりに地面に伏せて丁寧に稽首したのち、それを祠のさい銭箱に投げたので、大人たちが愧じて立ち去ったという逸話が残っています。8、9歳のころにはすでに大人の風格を帯び、成年式を終えたのちは松平家の世子信岑(1696-1763)の近習として仕えるようになります。
この頃の篠山には松崎蘭谷(1674-1735)という儒学者がおりまして、この儒学者は篠山の在地の出であり、伊藤仁斎の門下生として推挙され、松平信岑の父信庸に仕えることとなった人物なのですが、白圭と同じ松崎姓ではありながら、同じ家門や係累であったというわけでは無さそうで、記録からははっきりしないところがあります。ところが松崎蘭谷には男子がふたりいたのですが、ともに若くして亡くなっており、蘭谷の学問は白圭とその子の観海が継いでゆくこととなります。
さて、その松崎白圭が書き残した随想集(エッセイ)に「窓の須佐美」があります。譜代大名家の近臣としての広い見聞と、儒学者としての見識をもとに享保年間(1716-1736)のころに記されたこの書は、江戸時代初期から中期にかけての逸話や小話、当時の風俗などを伝える好著として多くの江戸期研究に史料を提供しています。またいくつかは文芸や娯楽、落語の素材に利用されており、落語の「芝浜」「黄金餅」、芥川龍之介「忠義」、中山義秀「世を美しく」といった近世の作品に翻案されています。
この「窓の須佐美」には次のような逸話が記されています。備前岡山の国に兄弟で田畑のことで争いをする者がおり、何年も何年もそのような争いを続けて納まることがなく、次第に双方に加担する者まで増えてゆき、代官の差配にも納得しないようなありさまでした。
そこで当地の大名である池田光政(1609-1682)は、これは人の道に大いに通じる問題であるから軽々にしてはいけない事案だとして、泉八左衛門にこれを裁断せよと命じました。泉八左衛門は陽明学者である熊沢蕃山(1619-1691)の実弟であり、ともに岡山池田藩に出仕しておりました。
八左衛門にも陽明学への志が深くあることを期待しての任命でありました。しかし八左衛門には実務の経験がなく、このような争訟をお預かりすることは出来かねますと度々辞退したのですが、藩公には思うところがあってお許しになりません。
それではと、何某かの邸宅にて事情を聴きましょうということになり、兄弟をその屋敷に召し寄せ、加担する方々の者の意見はこのさい聞かないぞと言うことに致しまして、ことごとく立ち去らせまして、さて人を遣らせて言わせますところ、今日は突然に急用ができた、時間がかかりそうだ、気を張りつめずに打ち解けて待っておれ、このように伝えさせまして、兄弟を狭い一室に入れまして、そのままにして置きました。
その日は終日そのままにさせておき、食べものも十分にごちそうを揃えて食べさせもし、酒も無理にでもと飲ませて酔わさしめ、今日は寒いだろう風呂にでも入れと、用意させてある風呂に一緒に入れさせたりも致します。
夕方にはまた人を差し向かわせ、こちらの要件はまだ終わらない、遅くはなるが今夜中には話しを聞くからと告げさせ、兄弟二人の間に火鉢をひとつ差し置いて、夜中に至るまでお出ましになりません。
兄弟のふたりは、日中は物も言わずにおりましたが、時間も過ぎ、狭い一間の部屋に終日ずっと顔を突き合わせておりもしますので、さすがに兄弟のよしみでもあり、寒いのだから火の近くにでも寄れと言うこととなります。
いつとはなく火鉢のそばに座り寄り、火にあたりもし、竹馬の鞭のふりわけ髪とでもいうところ、子供のころの親しみも思い出し、なんとはなく親のいた時分のことなどを語りもし、親のことがいつもよりも恋しく慕しく思い出されます。兄が言うことには、つくづくと思うんだが田畑の争いのことは、誰々が強いることが募りつのって訴訟などということになったのだ、これからは争いを止めて、二人で作っていこうやと言いますと、弟のほうも、元よりそういうことならば何の思う所があるものかと言うのでした。
ならばそのように申し上げてみるかと言うことになりまして、このように考えておりますという主旨のことを差し申し入れましたところ、泉八左衛門はすぐさま出てまいりまして、二人の申すところが理(ことわり)である、めでたいことこの上ないと賞賛し、親が残したその体、その骨肉の去りがたきが理であると彼らにも理解できるようこまごまと説き聞かせもしますと、兄弟は涙を流します。
二人は連れだって帰ってゆき、その後には世にもめずらしいほどの仲の良い兄弟になったということです。「必ず訟なからしめんとはかかる心にこそ」と、この話しは締めくくられます。
これは論語顔淵第十二「子曰、聴ㇾ訟、吾猶人也、必也使ㇾ無ㇾ訟乎」の引用で、「次郎物語」で知られる昭和初期の作家下村湖人はこれを「先師がいわれた。訴訟ごとの審理判決をやらされると、私もべつに人と変ったところはない。もし私に変ったところがあるとすれば、それは、訴訟ごとのない世の中にしたいと願っていることだ」と訳しています(「現代訳論語」)。
※参考文献
・東条琴台「先哲叢談続編」巻之七、松崎白圭、松崎観海
・東条琴台「先哲叢談続編」巻之五、松崎蘭谷
・松崎堯臣「窓のすさみ」泉八左衛門兄弟の田地争を和解せしむ
(校訂 塚本哲三 有朋堂書店 1915.3)P.42 トロント大収蔵。なお有朋堂版の緒言において塚本哲三は松崎白圭
(堯臣)の履歴について青山下野守の臣下と記していますがこれは「先哲叢談続編」の白圭・観海の履歴と整
合性が取れず、ここでは「先哲叢談続編」をもとに履歴を紹介し、また形原松平家の家臣として記しました。佐
村八郎「国書解題」も青山下野守の臣下としてありますが同様に判断しました。
穂積陳重の『続・法窓夜話』(1936.3.10)を現代語に完全改訳。
短編×100話なので気軽に読めます。
AMAZON公開の便宜上、第二話「憲法という語」と
第三十六話「加藤弘之博士の人権新説」を
入れ替えてあります。リライト本です。
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