竹田駅から 10分程
安楽寿院 へ
参道を挟んで左側
74代・鳥羽天皇と藤原得子(美福門院)の第8皇子
76代・近衛天皇の陵
安樂壽院南陵(あんらくじゅいんのみなみのみささぎ)
歴代天皇の御陵として残る唯一の塔だそうです。
もとは、美福門院(1117~1160)のために建てられた塔でしたが
美福門院は、遺言により高野山へ埋葬
塔には、近衛天皇の遺骨が納められています。
その後
創建当時の寺院・塔は火災・地震により消失。
現在の多宝塔は、1606年(慶長11年) 豊臣秀頼により再建
宮内庁管轄地です。
鳥羽上皇城南離宮の東殿を、1137年(保延3年)
覚行(がくぎょう)法親王(白河天皇・皇子)を導師として
鳥羽上皇が改めたことに始まる 安楽寿院
弘法大使をお祀りしている大師堂 右側は薬師堂
鳥羽離宮跡とその庭園
白河天皇は、1086年(応徳3年)から鳥羽離宮の造営に着手
次いで鳥羽上皇も行われました。
離宮内は
南殿・北殿・馬場殿・泉殿・東殿・田中殿などの御所や
寺院が建立されました…と
↓ 説明文に記されています。
本御塔は収蔵庫を兼ね、重要文化財の阿弥陀如来坐像が
安置されているそうです。
柵の隙間から
72代・白河天皇は譲位後、上皇となっても
【73代・堀河天皇】【74代・鳥羽天皇】【75代・崇徳天皇】と
3代に渡り院政を敷き政治権力を保持しました。
74代・鳥羽天皇も譲位後、
【75代・崇徳天皇】【76代・近衛天皇】【後白河法皇】と院政
安楽寿院は、
鳥羽伏見の戦のとき、官軍の大本営となった所です。
最後に訪れたのは、
城南宮の西の⛩を抜けR1号線の横断歩道を渡った先の
鳥羽離宮跡公園
かっては、離宮南殿が在った地です。
また、京都に入ろうとする旧幕府軍に対して薩摩軍が城南宮の
参道から大砲を討ち始め1868年(慶応4年)1月27日~31日の
鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発となった地です。
伏見上鳥羽の小枝橋で戦端が開かれ、新政府軍の5000人に対して、
幕府軍は15000人と圧倒的に優勢の筈でしたが …
【錦の御旗】を掲げ「大義は我らにあり」と士気も上った
新政府軍の勝利となりました。
戊辰戦争は、
新政府軍の勝利となった鳥羽・伏見の戦いから始まり
【江戸城無血開城】【東北戦争】と各地で戦いが起こり
白虎隊が飯盛山で集団自決するという悲劇の【会津戦争】
そして箱館戦争(五稜郭の戦い)にて1869年(明治2年)5月
終結となります。
郡上八幡城の天守の裏側には、白虎隊と共に戦った凌霜隊
(郡上藩の脱藩士によって組織された部隊)も敗北し、
降伏し謹慎の身となり、謹慎が解かれ放免されるも、
郡上八幡には住み辛く、この地を離れたと…
業績を称える碑があります。
鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発の地・小枝橋の碑
鳥羽伏見戦跡碑
72代・白河天皇が退位後に院政の拠点として造営された鳥羽離宮
此処では、最初に造営された南殿の建物と庭園の跡を確認
★ 北殿は
名神高速道路京都南インターチエンジにあり
その遺跡は、近くの鴨川の氾濫で壊されています。
★ 東殿は
今の安楽寿院附近で白河・鳥羽・近衛天皇陵も含まれている。
★ 田中殿は
遺跡が見つかっていません。
★ 馬場殿は
城南宮の北と考えられるが明らかではない。
城南宮も鳥羽離宮の一部と考えられ、流鏑馬に事寄せて
後鳥羽上皇が北条氏討滅を図った地
これらの御所に付属する仏殿が建てられ遺跡で確認された所も
あるそうです。
↓ の説明文には、この様なことが記されています。
此処に隣接し金網フェンスで仕切られた向こう側では野球と
訪れたのが日曜日だったので子供たちの姿が多々でした。
何処かに
【鳥羽殿跡】と記された石碑と薩摩藩が使用した【アームストロング砲】が
ある筈…と、出会った地元の方も探してくれましたが分りませんでした。
金網フェンスの向こう側だったよう。
帰路は、5~6分の先に在る【赤池バス停】へ
城南宮バス停の一つ前だったので、私は座れましたが、
その後は、ステップにもとギュウギュウ詰め状態
大抵、バスは「後乗り」「前降り」ですが 運転手さん
「前からも乗って下さい」と 通過することなく乗せると
まさに京都駅八条までの20分間は、すし詰め状態でした。
でも、待つよりは乗れた方がいいですよね。
歩数 22824
距離 14.2km
東寺・城南宮の椿としだれ梅・安寿楽院・鳥羽離宮跡と
後で見残したと思う所もありましたが、巡ってきました。