東福寺駅

朝の到着時・8時12分は人の波でしたが 只今13時40分

 

 

13時45分発 奈良線(快速)にて9分ほどで六地蔵駅到着

最後に訪れる地が 今回一番の目的地かなあ。

 

 

駅からこの広い通りに出るのに少し迷いましたが 此処からは

真っすぐ進み分岐の新小栗栖街道へと進んで行きます。

 

 

六地蔵駅から 約 2.4km 30分ほど

途中から少々迷路のようでしたが明智薮に近づく程に

50m間隔で指標があり また先に行く男性の姿も

目的は同じでした。

 

 

 

本能寺の変後 

摂津国と山城国の境にある 山崎の地(京都府乙訓郡大山崎町)

円明寺川を挟んで秀吉軍と対峙・山崎の戦い

天王山で攻防戦を繰り広げるも敗れ近臣10数名と落ち延びようと

暗夜に乗じて坂本城を目指していましたが 途中小栗栖の付近に

差し掛かったところ信長の近臣・小栗栖館の武士集団・飯田一党の

襲撃によりあえない最期を遂げたと・・・

 

 

 

志半ばであえなく命を落とした場所 明智薮です。

一角だけ残された薮

12日ほどで終わった光秀の天下

目指したものは何だったのでしょう ??

 

 

伏見区小栗栖に在る 本経寺

明智光秀の供養塔があるとお聞きしていたのですが

どうも見落としたようでした。

 

 

近くに在る 小栗栖八幡宮

明智光秀を討ったと伝わる飯田一党の館跡(小栗栖城)だと。

この辺りでは 飯田一党が討ったと伝わっているそうです。

 

 

 

此処で ご一緒していた方と別れ 次の目的地

1.6km 約20分 先に在る 光秀胴塚です。

 

 

ここの説明文によれが

農民に襲撃され その場で自害し家臣によって介錯

首は家来が隠し持ち 東山区梅宮(先日 首塚を見に行った辺り)に埋葬

胴体は 明智薮辺りに埋葬されてと伝わっているそうです。

 

この石碑は

地元 山科の有志によって建立されてものだそうです。

 

 

★ 伏見区小栗栖   明智薮

★ 山科区勧修寺御所内町   胴塚

明智光秀を討ったのは誰  ??

僅か 2km弱しか離れていない地でさえ違うとは如何に・・・です。

 

愛妻家で知られる光秀

実は側室がいた !!

明智憲三郎氏は その側室が生んだ於寉丸(おづまる)の子孫

明田と姓を変えて代々ひっそりと暮らしていたが 明治になり

明智姓への復姓を願い出て許可されたと言うことだそうです。

 

憲三郎氏によると

光秀の子孫と伝承されている家(明智姓を名乗っていない家も含め)は 

全国に十家族ほど存在しているとか

これからも 伝承内容・ルーツを探求・解明する活動を続けるそうです。

そして 

謀反を起こしたのは 一族の存続のためだったと。

 

その時代の 為政者(権力者)によって改ざんされた可能性もありと

真実は・・・

一度だけ 講演を拝聴させて頂きましたが また機会があれば

お聴きしたいです。

 

 

昨年4月に訪れた時は

山科川の土手の桜並木がとても綺麗でした。 

 

 

地下鉄・東西線 小野駅から山科駅

 

 

JR山科駅発 16時36分 米原~大垣~

岐阜駅着 18時22分

 

 

11月25日(水)

京都滞在時間 約8時間30分

ひたすら歩き ひたすら見てと欲張った時間を過ごしてきました。

 

岐阜駅北口 信長夢階段では

ひょうたんのイルミネーションが点灯されています。

穏やかな光景です。

 

今回の歩数は 28537歩でした

                   長い忘備録となりましたが 完です