金地院から2~3分先 粟田口に在る

ねじりまんぽ(蹴上トンネル)

かって

琵琶湖疎水で運ばれてきた物資を船ごと台車に載せて運ぶため

トンネルはより強固にとレンガを螺旋状に積まれた

明治時代の土木技術の遺産です。

 

 

昨年の6月

京の七口の一つ 粟田口ルート

三井寺(園城寺)から琵琶湖疎水沿いを歩き「ねじりまんぽ」を抜け

高低差ありの13kmのハイキング ゴール地点の粟田神社

傾斜のある長い参道を見て凹んだのを思い出しました。

 

・・・粟田神社前を通り 三条広道を   あし   あし   あし   

通り沿いに

坂本龍馬・お龍 「結婚式場跡」の石碑

 

 

説明文によれば

1864年(元治元年)8月初旬 竜馬&お龍 内祝言を挙げた地だと

(他にも説があるようですが この説が一番信憑性があるそうです)

京都における重要史蹟として建碑されたそうです。

 ★ 池田屋事件は 1864年7月8日でした

 

青蓮院門跡へお寄りする予定でしたが 時間的に無理

何時かです。

 

 

金地院から 此処まで 約1.4km  所要時間 20分ほど

水辺に柳  情緒のある光景に癒されました。

因みに 此処ではが見られるそうです。

 

京都市東山区白川筋三条下る梅宮町に在る

和菓子店・餅寅さん が目印

 

 

お寄りして 場所を

路地を5~6m入った所に 木像・位牌・遺骨・遺品が納められた

明戸光秀首塚

 

 

1582年6月21日(天正10年6月2日)早朝

本能寺に滞在していた信長に謀反 急襲した光秀

6月13日 山崎(天王山)の戦いで羽柴(豊臣)秀吉に敗戦

坂本城へと逃れる途中小栗栖(伏見区)の竹藪で農民に襲われ重傷

自害と最期を遂げたと言われています。

家来が首を落とし知恩院の近くまで来たが夜が明けたので

この地に首を埋めたと伝えられているそうです。

しかし 吉田兼見卿記によれば

15日迄に発見され 18日から粟田口(左京区)で重臣の首と共に

数日間晒された後に近くに埋め塚が築かれたとも。

その後

江戸時代中期に この地・梅宮に移され明智光秀を弔う地となりました。

因みに

胴塚は 小栗栖(伏見区)のあります。

 

お互いに必要とする存在だった筈が徐々にすれ違い

悪化関係となった 信長と義昭

 

また 信長光秀を高く評価

「子孫に至るまで信長の恩を忘れてはならない」と家中軍法で

述べるほどと信頼関係は良好だった筈の光秀

その一年後の謀反

なぜ 何故 何故なんでしょう ??

 

もし 信長と光秀が良好な関係で天下統一を目指したなら

歴史はどのように変わったのでしょう ?

 

あくまでもドラマですが

今回は どの様に描かれるのでしょうか ?

 

時代と共に評価も異なってくる・・・

史実も変わってくる・・・

複雑な気持ちで 首塚を参拝しました。

 

餅寅さんにお寄りして 暫しお話を・・・

 

 

山城国・丹波国・丹後国と京都府には明智光秀の足跡が

多く残っています。

このお茶は

この三ヶ国からそれぞれ名産を集めブレンドしたお茶

緑茶・玄米・小豆・黒大豆などだそうです。

買い求めてきた黒豆大福の程好い甘さに合った

コクのある少し複雑な味でした。

 

餅寅さんから10分ほどで鴨川の河原へ

右側の橋は 三条大橋

 

 

四条橋~団栗橋~松原橋から五条橋へ

 

 

コサギ・アオサギそしてカモ達の姿を眺めながら河原を行きます。

 

 

 

五条橋

牛若丸と武蔵坊弁慶  

初めて見た時 想像していたのと全く違っていたので

少しガッカリ ・・・なんて言ったら駄目だったんですね。

京人形風だったんです。

二人が出会ったのは 今の松原橋だったそうです。

 

 

 

知らない通りをぶらぶらと

京都タワーを目印に 京都駅へ向かう途中

文子(あやこ)天満宮 

起源は

菅原道真乳母であった丹治比(たじひの)文子

道真没後 「われを右近の馬場に祀れ」とのお告げを受け

自宅に小さな祠を立て道真を祀ったと言われています。

 

 

天神信仰発祥の神社・北野天満宮の前身とも伝えられているそうです。

現在の社殿は 1918年(大正7年)造営です。

 

こう言う出会いがあるので歩きは楽しい  音譜  音譜  音譜  

 

早朝に岐阜を出て目いっぱい楽しんだ今回の京都

点ではなく 繋がる線として巡ってきました。

 

          自己満足の備忘録   

               長々と記しましたが 完 です。