金ヶ崎城跡から 1時間10分ほど走行
国道367号線 左側に注意しながらの走行でしたが
信長の隠れ岩の目印になる三ッ石を見つけることが出来ず
通り過ぎたよう。
取りあえず朽木陣屋跡へ
訪れた日は 月曜日 休館日でした。
・・・と言うか 事前に電話予約のようです。
若狭・越前などと京都を結ぶ朽木街道に面し重要な交通の
要衝だった地 朽木元網が領する朽木谷
朽木元網は浅井長政と起請文を交わしていた間柄でしたが
織田信長の金ヶ崎退き時は破棄していました。
殿を 明智光秀・木下秀吉・池田勝正に任せ10数人の供と
京都へと撤退
道中の朽木領では朽木元網が甲冑姿でいると それを知り
同行していた松永久秀・森三左衛門(可成)にその真意を
確かめに行かせます。
敵意がないと言うことを確認するまで 此処三ッ石の洞窟に
身を潜めて待機していたと言うことです。
朽木城に宿泊 翌日京都までの護衛役を務めた朽木元網
何故か 織田信長からの厚遇はなかったようです。
陣屋跡の草むらで アキアカネに出会いました。
肝心の信長の隠れ岩
教えて貰って再度 367号線を走行
見つけましたが・・・
立て看板には
200m先 焦らず慌てずゆっくり行きましょうと
ハチ・マムシ・ヤマヒルに注意って
草茫々
10mほど草をかき分け進みましたが
行くことを諦めました。
画像は 拝借しました。
今日 TERをしてお聞きしたら
一時期 整備されたようですが
何かイベントがない限りは 放置状態だと。
行く気満々だったのに残念でした。
飛鳥井・・・この名前は
朽木の資料館の方との会話の中で出てき名前です。
元網の母は
十一位 権大納言と言う高位 蹴鞠の宗家・飛鳥井雅綱の娘です。
代々 足利将軍の側近(奉公衆)として仕えてきた朽木氏
織田信長の死後
豊臣秀吉に仕え 小田原征伐に参加
関ヶ原の戦いでは 当初は大谷吉継に従い西軍でしたが
小早川秀秋に呼応して東軍に寝返ります。
電話で話していた歴史資料館の方
先回放映された 麒麟がくる
「稲葉良通(村田雄浩・演)もそうよね」って
確かに
土岐家から離反して道三に そして義龍に付き信長へと
稲葉良通(一鉄)
頑固一徹の語源になったとか
村田雄浩さんの雰囲気ピッタリです。
強かでなければ生き残れない
巧みに生きたと言うことでしょう。
17分ほどの会話でしたが
直に会話したいと思う方(女性)でした。
佐々木綱吉の菩提寺・足利将軍/義晴・義輝が滞在した言う
興聖寺へ