3月1日(金)は

春期・青春切符の利用開始日です。

・・・で 青春切符を利用して行ってきました。

 

岐阜~豊橋~浜松 そして静岡へと

静岡駅南口のバス停より 久能山下行きバスに乗車です。

 

 

十数年前に訪れたことがありますが その時は車で日本平へ

そしてロープウエイで久能山東照宮へでしたが

今回は 江戸時代から数多くの人々が上り降ったと言う久能山

山下より表参道の石段で行きます。

 

 

此処は 石垣イチゴの名産地 鳥居前には土産店がありますが 

訪れた1日は 少し閑散とした感じでした。

 

 

スッキリとしない天候 振り返り見る光景です。

 

 

石段途中に 伏見稲荷から勧請したという 駿河稲荷社

 

 

石段の段差は余りないので思っていたよりきつくありません。

・・・が 社殿まで1159段 17曲りあるそうです。

 

 

やがて 一の門

 

 

一の門前からの眺望

海岸沿いに 石垣イチゴのビニールハウスが並んでいます。

晴天だったら 駿河湾の海水の色の素晴らしさを見ることが

出来るそうです。

 

 

一の門をくぐり 門衛所前を通り先に進みます。

 

 

社務所で拝観料・500円を支払い 

俗世界と神域を区切る境界線 楼門へと向かいます。

 

1617年(元和3年)建造の楼門は 重要文化財です。

 

 

霊獣・バクは4つ 四方を見張っているそうです。

掲げられている額は 後水尾天皇の御宸筆です。

 

  

 

 

楼門をくぐると 

家康公 38歳 身長・155cm 体重・60kgの時の手形です。

感情線と知能線が一つとなった升掛です。

 

   

 

家康梅                   神馬(愛馬)

家康公は 梅花をこよなく愛されたそうです。

 

 

灯籠の立ち並ぶ先には 唐門が見えてきました。

 

 

3代将軍・家光公建立の 五重塔

神仏分離令で取り払われ 礎石のみ残されています。

蘇鉄は 駿府城から移植されたものです。

 

 

真っ直ぐ石段を上ることは出来ません。

右から回り込んでの参拝です。

 

 

正面 1617年(元和3年)建造・重文の日枝神社横から

社殿へと入って行きます。

 

 

2代将軍・秀忠公の命により

元和2年5月着工 翌年の3月に造営された社殿は

僅か 1年7ヶ月という短期間でした。

 

日光東照宮より19年前に造営された久能山東照宮です。

 

                       拝殿

此処まで来れたことに感謝して参拝です。

 

 

拝殿前 振り返り唐門からの眺めです。

 

 

右側 拝殿 そして石の間で繋がっている本殿

 

つまり 三棟連なる権現造りと言うことです。

 

 

 

拝殿横

久能山東照宮には 数多くの葵の紋があります。

ただ 逆さ葵の紋は3ヶ所のみです。

この一角にありました。

・・・と言うか 捜しあぐねて社務所の方に教えて貰いました。

拝殿の左側にあります。

あえて未完成の状態であるということだそうです。

 

右側から見た 本殿

左側から見た 本殿

 

廟門をくぐり40段の石段を上り本殿の裏側にある 

家康公を埋葬している廟所(神廟)へ向かいます。

 

 

石段途中に植えられている寒緋桜

囀り飛び交う鳥 メジロでした。

 

 

 

 

1616年(元和2年) 75歳没

ご遺命によりご遺骸は 久能山に埋葬されました。

当初は 小さな祠が建てられていたそうですが 家光公により

石造りの塔に改められました。

 

 

課外授業の一環でしょうか 熱心にメモとる小学生の姿が見られました。

 

一角に 愛馬の墓があります。

 

 

 

廟所(神廟)横にある 楠の大樹

金の成る木と言われています。

 

★ よろず程のよ木

★ 志ひぶかき(慈悲深き)

★ 志やうぢ木(正直)

これを常々信用すれば富貴が得られる・・・と言うことです。

家康公の遺話だそうです。

 

徳川家康公を 御祭神とする 久能山東照宮

1周期が過ぎたら 日光山へ勧請することとのご遺命により

御霊は日光東照宮へと移されました。

 

この地は

1400年前 奈良時代(推古天皇)

久能寺が建立 平安時代から鎌倉時代にかけて隆盛を極めたが

失火により坊など焼失

 

さらに戦国時代

武田信玄公が 久能城を築城

武田氏滅亡により 徳川家の所有となる。

 

その後 久能城は廃止

家康公の遺命により遺骸を埋葬

秀忠公により久能山東照宮が建立と歴史の変遷を

辿ってきた地です。

 

標高・216mの久能山に建つ 

権現造り・総漆塗そして極彩色の社殿

かっては 城砦が築かれていたと言う証が今も残っている地を

巡って来ました。

 

帰路は

ロープウエイに乗り 日本平へと向かいます。