六波羅蜜寺

951年(天暦5年) 後醍醐天皇の皇子・空也上人によって

開創された寺です。

 

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平安後期 平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより

清盛の時代には 平家一族がこの一帯には5200余の

邸宅を築き大集落を形成していました。

 

1183年(寿永2年7月25日)平家都落ちのときは 

火が放たれましたが唯一 本堂は類焼を免れました。


度重なる兵火の中 

平安・鎌倉期の名宝である木像が多く残されています。

 


                                                               空也上人立像  

念仏を称える口から 「南無阿弥陀仏」を表した六体の

阿弥陀さまが現れたという伝承のままの姿です。

 

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                                                                   平清盛坐像

経巻を手にした仏者としての 穏やかさが感じられる姿です。

一門の武運長久を願い 朱の墨の中に血を落とし写経したと

言われています。

 

西国三十三ヵ所観音霊場・17番札所である当寺には 

2009年9月に納経に来ました。

 

ご近所で こんなポスターが貼られていました。

 

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現世と冥界の境界にある 六道珍皇寺

 

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その昔 この辺りは死者を葬送する際の野辺送りの場所で

この世とあの世の境 「六道の辻」と呼ばれていました。

 

六道とは 仏教で生前の行いの善悪によって行くとされる

地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六種の冥界のことです。

 

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奥にある井戸は 昼は嵯峨天皇に 夜は閻魔大王に仕えた

小野篁(オノノタカムラ・小野妹子の子孫)が冥土へとの

入り口であったという伝説が残されています。

因みに出口は 嵯峨だったとか。

 

本堂の右横 格子から覗き見ることが出来ます。


家が立ち並ぶこの辺り 

かっては平家一族が権威を誇り栄華を極めた地

源氏との戦いに破れ 都落ちの際は焼け野原と化した地 

 

後に 鎌倉幕府が朝廷監視機関である「六波羅探題」を置いた地

・・・などと時の流れを歴史を思いながら歩けば 感慨深いものが

ありました。

                                      京都東山区のごく一部を訪ねました。

 

訪ねても訪ねても京の町は尽きることなく 無限さを感じています。


 

駐車場は寺の無料Pが以外とありますし 

コインパーキングを利用すれば良いのですが 

拝観料(でも 折角だから中も見たいです)が

もう少し安ければと思います。