きのう
節分
の昼食は
恵方巻き、
年の恵方に向かって
太巻き
を
ただ黙々と食すという、
年越しそば
や
雑煮
に続いて
島にはない文化の実践で
季節を確認、
この歳になってようやく
少しずつ
「日本人」になりゆく気がする
ボクだけれども、
恵方巻き
の習慣が
全国的に普及したのは
それほど古いことではないらしく、
せいぜい
ここ30年ほどの話であって、
ファミリーコンピュータ
と
ほぼ同世代
であることを考慮するなら
「日本人の伝統」
のように振る舞うには
まだまだキャリアの足りない
新参者、
その起源をたどれば
江戸時代くらいまでは
さかのぼることが
できるらしいのだけれども、
一説によれば
その原型は
遊女に太巻きをくわえさせる
という
卑猥なのかどうかも微妙な
旦那衆の遊びがそれ
との話もあって、
まったくもって
由緒正しき儀式
などではない
ことはわかるのだけど、
しかし
だからといって
こんなものには何の意味もない
と
言おうとしているのではなくて、
むしろ
恵方から福など来やしない
ことを
多くの人が「知って」いながら
それでもその人たちが
この実践を続けられるのは、
その行為に、
それぞれが
それぞれの
意味
を与えているから
だという話であって、
ある人は
食卓に
季節というリズム感を出すために、
ある人は
そうした季節というものに敏感な
「良識人」であろうとするために、
ある人は
好きな人と同じ物を食す
というよろこびのために、
またある人は
かつての旦那衆のように
「オレのもかぶりついてくれ」
という猥談に華を咲かせるために、
それぞれの「意味」で
この巻き寿司は食われている
はずで、
それは
無意味
などではなく/であるからこそ
多意味
というべき事態であって、
何やら
筆のおろされるのを待つ
真っ白なキャンバス
が浮かんだりもしたのだけれども
それはおそらくちょっと別の話で、
南南東
自宅からでは
太平洋が広がるばかりの
その方角に向かって
むしゃむしゃもしゃもしゃ
そんな考えをめぐらしつつ、
さて
自分にとっての
この恵方巻きの意味は
と問えば、
1月からのスタートダッシュの出遅れ
等々
新年ひと月の
後悔
なんかの
黒いもの
を
海苔に託して、
一口一口
それら一つ一つを
黙って確認しながら、
呑み込んで
「なかったことにする」
という
言い訳の道具
これに見つけたり
と思う、
そんな、ボクです。
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しかし私たちはつねに、そこに意味を求めたり、与えたりしてしまう。
市川真人,2012,「文学2.0 余が言文一致の未来」,『日本2.0 思想地図β vol.3』,ゲンロン