新学期が始まり、子どもの自殺を危惧する記事が散見されますが、子どもが「死にたい」という言葉は果たしてどこまで本気で言っているのか疑問に思うことがあります。

 

 本当にそう思っている子どももいるのかもしれませんが、そのように言うことで、周囲の大人たちを脅して自分の都合の良いように動かそうとする子どももいます。

 いわゆる「テイスティング」にあたる場合もありますが、その言葉の裏側をよくよく観察する必要があります。

 

 最近の子どもたちは、ストレス耐性が脆弱化しているように感じます。

 

 ひと昔前に比べると、今の子どもたちはかなり恵まれた環境の中で育って生きている子どもが多いと思いますし、小学生でもスマホやゲームを買い与えられたりで、楽しいことや考えなくても良い環境になっています。

ですから、ちょっとつらいことがあったり、自分の思い通りにならないことがあると、「死にたい」と言い出すことがあったりします。

 

 ゲームの中では死んでも何回でも生き返ることができてしまうので、「死ぬ」ということも簡単にできて、簡単に生き返ることができるとでも思っている子もいるかもしれません。

 

 「死」というものは、もう二度と生き返ることなどできない、取返しが付かないことだということを知る機会を設ける必要があります。

 

 したがって、「死」について、それを「トラウマになるから」「傷つくから」と言って、それを子どもから遠ざけるようなことはしない方が良いのではないかというのが私の持論です。

 

 夏休み明けの学校の登校再開がプレッシャーになって自殺をほのめかす子がいるのだとしたら、「学校へ行くことの何がプレッシャーになっているのか」を丁寧に聴く必要があります。それは親の役目であり、責任でもあります。

 

 学校へ行かない場合、「行く場所がない」としたら、親が子どもの居場所になるのが最優先です。「仕事があるから休めない」なら、仕事を辞める以外にないのが普通です。

 

 「子どもが学校へ行っていさえすれば安心」なのは、親の安心であり、子どもの安心ではありません。

 

 「子どもが学校へ行きたくない」と言うなら無理していかせる必要はないと謳うなら、そのような人達は、子どもが不登校になった時の通える場所を確保してあげてから、そのように声高に言えばよいでしょう。

 

本当に自殺したいと思う子は、「親に心配をかけさせたくない」「親を悲しませたくない」という優しい心を持っている子が多いのも事実です。

 

 親の方が「子どもが迷惑をかけてくれても構わない」、「子どもを守るためなら何でも厭わない」という、どっしりと構えた心構えを持った親になっていただきたいものです。

 

 何でも学校や周囲のせいにする以前に、親としての自分を省みる必要があるように思います。

 

 子どものストレス耐性の脆弱化という事を書きましたが、結局のところ親の子育て力の脆弱化の表れでもあるかもしれません。