昨日は、久しぶりにリンドウの青い花に惹かれて買いました。
この青を見ていると、なんだかしみじみと過去のことを感じるもので、
不思議とみていると、痛みにフォーカスされる青紫だなぁと。
長かったので、少し、カットしたものはガラスの器に入れることに。
スピリッツのエッセンスを少し、垂らしたりしてました。
どうやら去年もこのくらいの時期にリンドウについてあれこれと書いていたみたいなのですね。↓
この品種のリンドウは秋田県で栽培されたもので、深山秋という品種なんだそう。
一度で良いので、秋田のリンドウ畑を見てみてみたいと思っています。(あればですが)
花びらが開くリンドウらしくて、つぼみのリンドウもまた素敵なのですが、
なんかユリっぽい品種だなぁと感じてました。
リンドウのフラワーエッセンスもあるのですが、
過去の痛みだとか、過去の傷を癒す性質を持つフラワーエッセンスとして意味付けられることが多いですね。
花言葉では、「満ちた自信」や「誠実」を表したりするようです。
花のボトルや花との出会いもそうなのですが、エネルギーが共振して手にいれたり、吸い寄せられるということはあります。
ここ2日間くらい感じたり、ふと味わっていたことなのですが、良い機会なので書いておこうかと。
私はどれほど感じきることを許可しているだろうか…と
思考レベルでは理解しようとしているのだけど、味わうこと、味わいきることはとても大事なことだなと思いました。
…ふと、過去のことを思い出す機会があって。
他者に見出していることとか、(社会的だったり、恋愛も=な部分もあったけど)
認めてもらいたかったこと、受け入れてほしかったことが沢山ありました。
愛しても叶わなかったものも、裏切られたこともありました。自分らしく愛されなかったこともありました。
そうして、成長しながら痛みを知っていくわけだけど、
昨日気が付いて、それほど対象に大きな愛を向けていたのだなと感じることもあって。
同時にそれは図りしれないな、とも感じたのです。(女性性の視点にも通じるけど)
必死だと感じていたときもあったけど、今はそこまで悲しみ・焦りに飲まれなくもなって。
生き急いでる20代の焦燥感は消えたように思う。
その愛のベクトルが変わって自分へ向き始めると、自分の中にふつふつと湧き上がる暖かいエネルギーを子宮から感じて。
そこまで愛させて(好きにさせてくれたなんて)、と愛する喜びを知る、というか、
ありがとう。という愛と感謝の気持ちに変わるのでした。
“真っすぐに自分から逃げずに愛してやれる嬉しさ”、というのもまた誠実な愛の炎なのです。
これがリンドウの男性性でもありますね。
それを神聖な男性性とも捉えられるでしょう。それはとても安心・安全なのです。
愛される=愛することのバランスというのは、健全な愛においてとても大事。
…なぜなら、愛することって自分の信頼を相手に向けることだから、(たとえ相手がどう思っていようといまいと)
それができないのはとてもつまらないのかもって。それ自体が生きる喜びでもあるのです。
瞬間的なものでそれはまるでオーガズムともいえるものだから。なんども私は女性体だから味わいたくなるし。
女性なら、愛される喜びがあるんだけど、愛すってのは女性も男性にもあることだから。
…なぜか、ふと数年前に遡って元彼の夢を見たんですね。やっぱりまだ解消しきれてないんだなと、、
別に癒そうとか、じゃないし、ただ受け入れるというだけ。あるがまま見つめるだけ。
潜在意識から現れてるなーと感じて。たぶん、その時の感情を味わいきってなかったんだなと。
それに、
能力は充分にあったはずだけど天職だった仕事にも敗れてきた私だったから、失う苦しみは十分によくわかっているけれど、
自分から愛を失うなんてことはないのだよ。
たまたま聞いていた曲なんですが、まるで花が歌っているような曲です。
調べてみたら、歌詞がとっても響きます…!
これがまた素晴らしい翻訳で、
俺訳倉庫さんから引用させていただきますね。
生命はまるで一輪の花
手のひらの上の宝物のよう
微笑んでいて
世界も微笑みかけてくるわ
世間のことなんかどうだっていい
私はただ光に向かって生きるの
だから私のために泣いたりしないで
私には裁けないわ
あなたは看守の客人だから
中に招き入れて
世間から隠してしまってる
ライ麦畑の救助人にも
自分自身に囚われたあなたを助けられないわ
苦悶よ 少しの間でいい
みんなを解放してあげて
知って欲しいの
無為に生きる虚しさを