バスに乗ってる高校生に「まだ空港着かないかな?」と聞くと「もう過ぎたよ」 えっーーーームンクの叫び
ずっと外見てたのに空港は見あたらなかった。そもそも終点が空港と思っていた。実はこのバスは空港近くのバス亭まで行くバスでそこからさらに、サイクルリキシャや人力車に乗り換えなければいけないらしい。そっこうバスから降りて反対車線に渡りタクシーを止めて、空港に向かう。タクシーの人は当然ふっかけてきたが、すごいスピードで走ってくれた。80ルピーを払い、空港内へ。急いでチェックインを済ませる。しかしまたトラブル。。。大きい荷物はなく普通の軽いショルダーバックだけだったので機内に持ち込もうとすると、検査でアレはダメこれもダメ。急いでもどりカバンごと預けることに。テロ防止のため持ち込みは×だけど預けるのはOKである。みんなスーツケースや大きなバックパックなのに、僕だけ小さなカバンで担当の女性は「これだけ?」と目を大きく驚いている
。「これだけです。(きっぱり)」
さて、バタバタ劇を乗り越え、デリー行きゲートに着くと、飛行機はやや遅れてるようで、みんなゆっくりゆっくり待っている。なんかここまで急いできたオレは何だったの!? という感じである。インド社会は、空港はガラッと雰囲気が変わる。やはり、現在では、一流の金持ちか外人だけが使用しているという感じである。いままで見てきた庶民的雰囲気はない。この人達はどこにいたの?みたいな人達がビジネス新聞などを読んでいる。インドで見た大学の教授はこんな感じだったかな。
なにはともあれホッとした。遅れて航空会社に迷惑をかけることもなかったのでうれしかった。
さて、首都デリーに着き、成田発までの3時間を使い、デリー郊外のマーケットまでオートリキシャで走り、買い物をする。会社の人へのおみやげなども買い、街を見学して空港にもどる。まだルピーが少しあったのでペンなどを買う。しかし空港のおみやげはバカ高く店員も強気である。
そして、20:50発飛行機のチェックインを済ませ、成田行きのゲートに行くと日本人がたくさんならんでいる。けっこういるなあ。インドは、豪華に旅行することもできるし、またその逆のギャップもあまりに大きい。機内に乗ると隣に男子学生一人旅行者がいた。彼は1ヶ月くらいかけて南インドから周遊したらしい。
しばらくして、電気が消えるとインドへの思索をし、朝まで熟睡した。
日本に帰ると 胸に赤いものができる等の症状が出たが医者は疲れからでしょうということで1週間くらいで治る。出発直前に空港で旅行保険に入ったので治療費と携帯代はなんとかなる。
インド。すごかった。格差も激しかった。強烈だった。楽しかった。でもしばらくは行きたいとは思わない。でもしばらくしたら行きたくなるのかもしれない。
今 インド社会は急速に変わっている。IT化も進み成長著しい。ただ都市間と田舎との格差はあまりに激しい。びっくりする。
インド。ありがとう。総合的にインド人の人柄は好きである。人なつこいし。もちろん騙そうとしてくる人も多かったが、根っからの悪人には会わずにすんだ。ここで、包括的な真面目な文章も書きたいところだが、見栄を張らずにこれで終わることにする。
ここまで読んでくれた皆様本当に本当にありがとうございました。またドンドン世界に出て成長していきます。皆様のご多幸とご健康を祈りつつ。2007.1.6 東京より 旅行期間9・16~9・21

第9章

[1、飛行機フライト時間が迫っている。2、インドルピーが底をついてきた。3、大きいカバンを鉄道駅(周辺は超渋滞)に預けっぱなし。4、タゴールハウスもみたい。]という状況からです。
しかしタゴールもみたい。駅に預けた荷物も取りに行かねばならない。僕はあせりはじめていた。。。 そして移動しながら悩み考えた。しかも早く考えねばならない。
そして、僕は価値をはかりにかけ、人によっては少し非常識とも思える決断をした。駅に預けた大きなカバンの中身は、着用済みの下着とTシャツ、飲み物と、枕がわりにだけ使ったインドレイルウェイの時刻表。それと重要でない書類などだ。カバン自体は1000円である。預けた時にもらった紙には2ヶ月取りに来なければ捨てる というような文章がある。
そこでカバンを捨て、タゴールをとった(*゜▽゜ノノ゛☆
タゴールハウスにもどり50ルピーを払い見学をする。ノーベル賞をとった詩人タゴールである。4階まであり、やや急ぎ足での見学となる。とびきりの印象は正直なかったが、最後に見た大きなベットを見ながら タゴールの激闘と幸福の人生をうれしく思った。
さて、手元に8ルピーを残し、日本へ帰るための奮闘がはじまる。まずは昨夜のホテル近くの両替所にいくために地下鉄に乗る。やはり地下鉄の速さと安さはすばらしい。日本の技術が大きく貢献しているようだ。フライトまでは既に2時間を切っている。ダッシュで余ってたドルの両替を済ませ「ここからの移動は何が一番速いですか?」と
聞くと即答で「タクシー」とのこと。「サンキュー」と大通りまで走りタクシーに乗る。真っ黒な顔の運転手で英語はほとんど話せない。(なんかヤバイな
僕は地下鉄とダッシュで時間を稼いだのを思い出し、ダメもとで、駅にカバンを取りによってから空港に行けるか地図を描きながら聞いたみた。「問題ない。大丈夫」と最初は言っていたが、いきなり渋滞。渋滞。やっぱりカバンはあきらめ、描いた地図を指しながら「空港に向かってください」という。「わかった」とのこと。しかし渋滞。渋滞。「地下鉄の方が速いのでは?」と聞くと「いや今日はイベントで渋滞してるけどタクシーがいいよ」とのこと。しかし進まない。「すいませんが近くの地下鉄駅で降ろしてください。(少し語気が強い)」。空港はコルカタの北の方にあるのだが、地下鉄で北の最終駅まで行き渋滞をかわすことにする。地下鉄の人に聞くと「地下鉄が速い」。とのこと。。。(なんなの)。で、地下鉄最終駅についたがそこからバスで20分かかる。運よく空港行きの市バスがすぐ来たのでバスに乗る。バスにも女性専用席などある。渋滞もない。今回デリー行きの飛行機に乗れなかったら、稚内→神戸ほどの距離もあるフライトを逃すだけでなく、この時間の便に乗らねば本日帰る予定のデリー→成田の便に乗れない。そうなると会社も予定より休まねばならない。さて30分近く乗っても空港につかない。もうフライト1時間前を切っている。バスに乗ってる高校生に「まだ空港着かないかな?」と聞くと「もう過ぎたよ」 えっーーーー!ムンクの叫び
最終章に つづく

第8章です。

僕は、鉄道コルカタ駅のクロークに朝預けた荷物を明日まで預けることにして、街を歩いて見学し、タクシーに乗り、まずは夜もやってる観光寺院を目指す。コルカタのタクシーは日本でいう電子表示の値が値段でなく、電子表示にもとづいた値段が別表であるという少しややこしい仕組み(例えば座席前の電子表示が10ルピーでも清算時に別表がでてきて17ルピーとか)になっていて、最初のタクシーの人とは少し口論したがそれが正式なコルカタのルールらしい。地下鉄は快適。速い。便利である。女性専用シートもある。ホームにはTVが数台あり映画の宣伝などもある。コルカタの勢いを見ると日本は抜かれるな。寺院と周辺のバザールを歩いた後、バスでホテル街であるサダルストリートを目指す。まあバンコクのカオサン通りみたいなところだ。サダルストリート通りは楽しそうな反面怪しさムンムンの通りであった。最初、いきなり野良犬に吠えられる。ガイドにはインドでは狂犬病で死ぬ人もいると書いてあったので、けっこうビビル。ビビルオレ。下手な騙してくる男どもより何を考えているのかわからずワオンワオン吠えて来る野良犬はよっぽど恐かった。道を進むと「泊まるホテルは決まってる?」としつこいのはもちろんで、一番むかついたのは日本語で「はっぱ」とクスリやらないかと言ってきたことである。(あークスリやってる日本人が多いのだろうな)と残念に思いながら、極端に不機嫌な表情を示して追っ払った。メイン通りはバーなどで明るく、夜やってる両替所などもあるようだ。ホテルを決めると、Yシャツとミネラルウォーターを買いに外に出る。Yシャツは交渉で下げても280ルピーと現地では値が張ったが、「クオリティーが良いから」と言われ確かにとても良かったので購入。ホテルにもどり、共同シャワーみたいのを浴び、お金がもう少ししかないことに気づき、両替するため外に行こうとすると、受付の丸坊主の兄さんに「もう外は危ないからダメだ」「両替だけしたい」「明日にしろ。」とのこと。確かにさっき歩いた感じでは夜の治安は悪そうだし、部屋にもどることにした。窓は壊れ日経新聞が壊れた窓の部分を隠すように貼ってあった。部屋にベットと机があるだけの安宿だったが女性も多く泊まっているようだった。
明くる朝、インド最終日。コルカタからデリーにもどり、デリーから日本にもどる日である。まずはマザーテレサのマザーハウスに行くべく早く起きる。もちろんこんな朝から両替所はやっていない。ガイドブックに、コルカタは交通政策により今後、人力車は廃止する とのことだったので、今しか体験できないと人力車に乗ってみる。道を行くと朝から床屋などはやってるようだ。マザーテレサの建物の前に着くと、雨で大きな水たまりができていて建物に行けない。そこに子供達が石を置いて道を作ってくれた。建物に入ると1階で展示コーナーなどを見て、2階の礼拝堂に。シスター達が礼拝していた。館内を見学し、マザーハウスを後にする。しばらく歩き、バスにも乗り、コルカタでおしゃれなレストランに入る。今までのインドと違い、店員もスーツのようなものを来て、店内も綺麗である。ピザなどを食べる。とても美味しかった。
今度はカーリー女神寺院というところに向かう。ここでは生きたヤギの首がお供えの為に切り落とされるということで、残酷すぎるが恐いもの見たさで行って見ることに。着くと、他に頭の丸い日本人若者も来ていた。案内されて奥に進むと もうヤギの首斬りは終わっていて解体された内臓みたいのがあった。坊主日本人男性は「オレ斬られるとこみたくて昨日も来たのに!残念。」とか言ってる。こいつ露骨に残酷なやつだなあ。なんか嫌な感じ。寺院の人に聞くと「2時間後にまたあるかも」とのこと。そいつは「待とうかな」とか言ってたが、僕はもちろん去る。2時間待つ価値はないだろう。だいいち時間がない。次はインド博物館に行く。
地下鉄駅を降りると豪雨である。インド博物館はとても広かった。昆虫や他の生物の標本や、釈尊の彫刻があった。各世紀ごとに彫刻の顔の表情が微妙に違いその世紀の世相を少し感じながら見るようにした。続いて、バロティ大学内にあるタゴールハウスを目指す。雨はあがった。ここが実質的に目的地の最後の場所となる。しかし。ここで重大問題が発生。[飛行機時間が迫っているのとインドルピーが底をついてきたこと。また大きいカバンを鉄道駅(周辺は超渋滞)に預けっぱなし]ということである。昨夜から気になっていたが、インドルピーがもうほとんどない。今日はずっと銀行があれば入っていたが、どこも両替はできないという銀行であった。もう58ルピー(200円程度)しかない。タゴールハウスの入場料は50ルピーである。残り8ルピーでは空港まで行けない。入り口でちょっと高くなってもいいのでドルで入れないか聞くと「ダメ。ルピーオンリー」とのこと。「銀行がすぐ裏にあるよ」とのこと。とりあえず言われた銀行に行くと待ったあげくに「両替はできない。」とのこと。偉い人の部屋に案内され「両替できる銀行はこっからバスで30分」と教えてもらう。しかし、もう昼すぎ1時近いし、国内便の飛行機は3時発である。1時間前には空港に着きたいので、とてもその銀行に行く時間的余裕がない。しかしタゴールもみたい。駅に預けた荷物も取りに行かねばならない。僕はあせりはじめていた。。。つづく

第7章です。
「これは日本のお金だから、大きくなったら日本においでね」と伝えた。クロークに預けると身が楽になった。ここからさらに3時間特急とのことで、僕は初めてファーストクラスの車両に乗ることにした。ファーストクラスはさすがにインドでも金持ち級の人が乗っていて新聞など読んでいる。車掌にはパスポートの確認を要求され年齢など細かく紙に記入している。インドの電車でおもしろいのは、途中三味線持った人がきて三味線ひいたり、歌うたったり、施設への寄付を求める人が来たりと慌しいことである。鉄砲を持った兵隊も来たし、乞食も来た。目の見えないことをアピールする少年などもいた。(この少年の未来はどうなるんだろう。)ただ、ファーストクラスの人は冷たく一向に目もくれないで新聞読んだり寝てたりしている。確かに毎日毎日だとそうなってしまうのかもしれない。途中駅につくごとに物売りが入ってくる。僕はバターの塗ったトーストを買う。しばらく行くと、目的駅を一瞬乗り過ごしたことに気づく。まだ後ろに目的駅は見える。すぐ座席を立ちデッキに行く。インドの電車はドアが開いていて、まだスピードも出てないので、ドアから飛び降りようとすると、周りの売り子の青年達に止められる「やめろ危ない」「次の駅に行ってもどればいいじゃん」。まあそれもそうだし仕方ない。15分くらいで次の駅に着くと、次の反対側の電車は2時間くらい来ないらしいことがわかる。「えー」。バスもない。目的のない田舎駅に一人である。駅近くで困っているとジープみたいな車に乗った商売人でない村のアニキみたいな人が、「大学まで乗っけていってやる」と高い金で交渉してきた。ただし要求額がとてつもなく高く、交渉開始。いつの間にかアニキと僕の交渉におもしろがって人だかりができている。最終的に180ルピーほどで、乗り過ごした自分も悪いし、行ってくれるだけでもありがたいのでOKする。タクシーもなかったがタクシーよりは安い値段だった。ただ、ジープではなくアニキの小型車で行くことになる。40分ほど田舎道を走る。牛や山羊が道路の真ん中を歩くのをよけながらの走行である。大学に着くと、まず目的地のタゴール記念博物館に行く。入り口では鉄砲を持った人が警備していてカメラはないか等チェックが相当厳しい。館内では国際的な詩人タゴールとガンジーの交流の写真などが飾られている。しかし5分程度で終了。「これで全部ですか?」と聞くと裏に建物がまだあるという。インドの博物館はこのように裏手に何かあることがありけっこう気づかないで帰る人も多いと推測する。裏手にはガンジーとの対談の大きな写真や、生前のゆかりの品などが展示されていた。どこも靴を脱いで入らなければいけない神聖な(?)場所である。博物館を出ると、食堂に行く。そして大きい方のトイレを探すと、寮みたいなところにつながっていてドアを開けると、シャワーとのユニットで虫もいて強烈だった。事をすますと大仕事をした気分になる。
タゴール国際大学の地図付パンフレットを自転車売り子から購入し、図書館をかってに見学し(この学生になりすまし見学するのは僕は得意のようで学生時代はイギリスオックスフォード大学の建物なども見学し勝手に寮で寝たことがある。誰かが毛布をかけてくれていた。今考えると危険だし、変にスゴイ。というかヤバイwww)。しかし図書館では遂に追い出され、銀行を経由して日本語学科を訪れてみることにした。大学は広く20分ほど歩く。日本語学科建物の警備の人が担当の先生を呼んでくれる。あいさつするともう授業は午前中で終わってしまったとのこと。しかし、教室など丁寧に案内してくれた。
その後、街の様子などをみながら帰ることにする。雨が降ってきたので自転車リキシャに乗る。駅につくと、時刻表を確認し今度は一般席である普通2等車に乗ることにした。ここでの乞食が一番衝撃だった。電車の待つホームに2人ほどいた。老婆と老人である。老婆も老人もやせていて駅の水などを飲んでいる。老人の方は料理で使うステンレスのボールのようなおわんにお金を入れてとせびるのだが、手が震えていて、そのボールを揺らしてお金の音を立てて求める。しかしみんな相手にしない。煙たがっている。女性学生もカップルもまるで相手にしない。電車が来るというのでホームの橋を渡り反対ホームの階段を下りて雨の中待っていると 突然後ろの背中をボールで突かれ金物の音がする。振り向くと老人が手をふるわせながら物乞いしてきた。僕はむしろびびってしまい、周囲の目もあってか何故かあげることができなかった。このドスンと背中をつかれた感覚は今でも衝撃として覚えている。
電車は、エアコンのない2等シートで、来た時とは雲泥の差である。駅員のチェックなどもちろんない。(というか改札でもチェックしてない)。ただ、おもしろかったのは、陽気なカラオケ兄さんである。自称歌手みたい感じだ。なんと、突然カセットレコーダーと音響マイクを持ち出し、ステレオみたいのにつないで 歌いはじめる。この段階で僕は座席の上の横になれるスペースに移動していたが、拍手してるとやはり金を請求された。他にも、おもちゃのおまけみたいな売り子や、チャイはもちろん、漬物だとか野菜だとか、電車の中が市場のような雰囲気がありおもしろかった。あたり前のように電車故障もあり、みんな電車を降りて草むらでしゃべったりしている。この電車の中で、この旅行記を書くことを決意し序文の構想を練る。5時間も乗っただろうか夜にコルカタにもどる。コルカタはすごい。ここは都市だ。日本が提供した地下鉄も走っているし、カラー携帯も普及している。洋服を着た女性も見られ、西のムンバイと共に都市化が進んでいるようだ。日本もあと十数年もしたら抜かれるのではないだろうかと思うほど活気もある。乞食もやたら元気であり安心したりする。
僕は、朝クロークに預けた荷物を明日まで預けることにして、街を歩いて見学し、タクシーに乗り、まずは夜もやってる観光寺院を目指す。コルカタは渋滞がものすごく途中から地下鉄に切り替えることにする。コルカタのタクシーは日本でいう電子表示の値が値段でなく、電子表示にもとづいた値段が別表であるという少しややこしい仕組みになっていて、最初のタクシーの人とは少し口論したがそれが正式なルールらしい。地下鉄は快適。速い。便利である。女性専用シートもある。ホームにはTVが数台あり映画の宣伝などもある。寺院と周辺のバザールを歩いた後、バスでホテル街であるサダルストリートを目指す。まあバンコクのカオサン通りみたいなところだ。サダルストリートは楽しそうな反面怪しさムンムンの通りであった。つづく
さらにラン君は僕の学校があると川沿いに進んで行くと
観光スポットとは離れたところに民家などがでてきた。その中の一つのわらぶき小屋のような建物に連れて行かれるとびっくり。大人が4人くらいいる。(あれれ。なんか変?ラン君の目的地はここだったのか)と思いつつも、「まあ座ってくれ」と言われ、とりあえず見るからに悪人でないのを確認して座ることにする。彼らはボランティアで青空学校をやっていて学校に行けない子供達に勉強を教えているという。(確かにブッタガヤの識字率はインドでも最低ラインだとガイドに書いてあったなあ)。校長と名乗る老人に名刺を渡され、いろんな写真やノートやプリントを見せられる。ノートには日本語もたくさん書かれていて、「子供達のためにできることとして、少しでも真心の寄付をしてほしい」という内容のもので、それに対して日本語で「インドで『また』騙されたと思って、でも彼らを信じて寄付することにした。」だとか「僕はまだ学生なので寄付はできないけど力をつけるよう勉強したい」などいろんなメッセージが書かれていた。僕は最初は半分疑いながらも、そこに時折入って来る子供達と、担任先生の対応と、彼らの話しと写真とノートと真剣な目をみながら、ノートへの記入と、なかば寄付も考えた。その前に「学校は今やっているのですか?」「やっているよ」「よろしければ見学させてもらえませんか?」「ぜひ見てください」ということで小屋を離れ30秒も歩くと木の下で青空教室をしていた。20人くらいの小学生くらいの子供と教師一人であった。算数の授業のようだ。そして、担任の先生が子供達に僕にあいさつするように伝えると子供達は一斉にあいさつしてきてくれた。少し授業を見学してると子供達は僕のことが気になるのかちらちら見てきた。授業の邪魔になっても悪いので、すぐにもどろうとするとまたみんな手を振ってあいさつしてくれた。ここまで現実を目の当たりしてまで何もしない訳にもいかず気持ちを寄付することにした。さらに次なる(騙された)と思うであろう日本人のためにノートに自分の思いを書いた。「平日ならば一度授業をみてみると良い。そして最終判断は自身の心だ」というようなことを。その後校長は、ラン君のバイクで霊鷲山やら釈尊の修行したという穴の空いた木やもろもろのツアーを組んで提示してきた。ここは商売の話しだ。ただお金は学校で使うとのこと。僕は当初、歩き方に掲載されてたオートリキシャで30分でバス亭に行きそこからバス2時間半で霊鷲山というプランを立てていた。「バイクで3時間は荷物もあるし、お尻も痛くなるよ」というと「安全に運転するしバスより早いし大丈夫だ」とのこと。1日貸切りで1000ルピ-ほどとのこと。バイクを見せてもらうと原付ではないが3時間はきついな という小型車である。「とりあえずバス亭が通り道のようなのでそこまで行って、またラン君と話します。」というと校長はそれをラン君に説明していた。さらに写真をみなでとろうとした時、携帯をなくしカメラがないことに気付き、校長にカメラをほしい旨話すと、ドルで買ってきてくれた。さて、インドでバイクだ。バス亭に行く前にラン君に話し、さきほどの大菩提寺で写真を何枚か撮る事にした。今度は撮影料も受付に事前申請で渡す。写真を数枚撮り、バイクで出発。ヘルメットはない。いま考えるとなかなかできない大胆な行動だった。20歳いかない青年の運転に命を預け、自分を支えるのはバイクの後ろにつかまる左手1本。北海道のような田舎道。まわりは緑。自然一色。天候は晴れ。澄み渡る青空。気分爽快である。時折すれ違う大型トラックは恐い。ラン君は段差があるところは気を使いゆっくり走ってくれた。バス亭につくと、ちょうど霊鷲山に行くバスが発車するとのこと。安全を考えバスで行くことする。100ルピー渡してラン君と握手して別れた。このバスも楽しかった。40ルピー渡すと、一番前の席に案内される。発車前に窓の下からピーナッツやアイスやウチワを買わないかとしつこい。アイスはお腹下すのを恐れやめ、ピーナッツと、発車ギリギリ前にウチワを交渉して購入。この田舎バスは屋根にも人が乗っており、超満員状態。ここで頑張ってたのは声の大きいバスリーダー(僕がかってにつけたあだ名)。彼は客がのってくるたびに窓のサンに足をのせ屋根やら後ろやらにとび職のように動きまわり、お金を回収。田舎道にバス亭はなく、乗りたい人がいるのをバスリーダーが発見し、バスをドンドンたたいて運転手に伝える。ドンドン叩くとバスは止まるしくみで、僕の目の前で繰りかえされる。ひたすら景色の良い田舎道。途中で老女とバスリーダーの一戦があった。 どうやら老女は運賃を払っていないらしい。バスリーダーは声がでかい。「いますぐ払いなさい!」老女「今は持っていないのよ!」老女も無賃ながら強気である。さすがインド。正直現地の田舎言葉のため何を話しているかよくわからいが「払わないとここで降ろすぞ!」みたいなことをいい運転手にジェスチャーで止める指示を出そうとする。しかし老婆は目的地まで降りなかったようだ。
しばらく行くと、全員バスを降りろとのこと。予定より少し早い気がする。「えっついたの?」とバスリーダーに聞くと、「いいからこっちに来て」とのことで、バスを降りて荷台自転車みたいのにリーダーと乗る。僕は霊鷲山の写真を示し着いたか確認すると「それに向かってる途中」とのこと。車では入れない小さい橋を自転車で渡り、5ルピー渡すと、またバスに乗せられる。どうやら乗り換えらしい。後ろから他の荷台自転車や歩いて橋を渡ってくる人達がいた。今度は、僕を運転手の横の助手席みたいなところに乗せてくれた。しかし、窓ガラスは半分割れている。何か砲弾のあとか石でも投げられた後のようだ。バスは学生や子供連れ主婦などでだんだん混んできて、助手席周辺にも座ってくる。少年は窓ガラスの方に座り、僕のウチワをかってにあおいでる。おいおい窓ガラス気をつけろ! さらに進むとやっと目的地ラージギールバス亭に到着。一瞬気づかなかったが看板などで判断する。バスを降りると田舎特有のにおいがする感じだ。そして、看板を見てるとさっそく、馬に乗った馬車のオジサンが案内にかってでる。しかし、、、ヒンディー語。遂にヒンディー語しか通じないところに来てしまった。 つづく
第6章です。けっこう長文でこのまま10章程度まで続きます。基本、流し読みでけっこうです。
遂にヒンディー語しか通じないところに来てしまった。少し不安顔(3)。誰に聞いてもヒンディー語だ。歩いてロータリーみたいところを周ると、何人かの人に声をかけられたがみんなヒンデー、ヒンディー語だ(汗)。やっと唯一、英語のできる馬車の人が来る。少し安心。とりあえず、近くの温泉がでる泉まで行ってもらうことに。インドなのに珍しく温泉が出るらしく歴史的には釈尊も使っていたとかいないとか。
馬車は馬が疲れているようでやたら遅かったが温泉広場前で降ろしてもらう。温泉は入ることができて、僕は靴下を脱いで、ズボンをめくり足だけ入ることにした。あったかい。何か花を渡され、仏像の前に添えさせられる。温泉を出るとまた金額をふっかけられるが、ガイドに書いてあった料金と小額の花代を渡し後にする。そして霊鷲山に向かうことにする。時間は3時前。地図で見るとそんなに遠くはないが先ほどの馬車の速度を考えるととても不安だ。降りたバス停には17時30分が戻りの最終バスだと言っていたのでそれまでには戻らねばならない。ミネラルウォーターを買い、温泉前広場で交渉を開始。たくさん馬車の人はいたが、先ほどの英語のできるオヤジの馬車と、英語はできないが白い速そうな馬で若い青年の馬車と交渉する。英語オヤジは往復で70ルピーと言いさらに交渉で60くらいに下げられそうな余地はあったが、青年馬車は80ルピーで引こうとしない。しかし、馬は確かに元気そうだし、青年は仕事に誇りを持っているようだ。僕は青年馬車に決める。この人は、伊藤園の営業の時に僕のリーダーでお世話になった先輩Kさんに似ている。自分をしっかり持ち、しっかり仕事をこなす。そしてカッコよく人なつこい感じがある。馬は予想通り速かった。ミネラルウォーターはキャップの開けた感触と飲み応えに違和感があり、すぐに飲むのを止める。しばらく行くと「霊鷲山」と書いてある門に着いた。くぐる前に死にに行くみたいで少しぞくっとする。山の前で降ろされ、「待ってるから登ってきていいよ」とのこと。山のリフトのようなのがあるが、霊鷲山の隣りの山に登るものらしい。隣りの山の上から霊鷲山にも横に歩いていけるようだが、まだリフトは動いていない。従業員にやる気はなく1時間に1回の運行で、あと15分くらい動かないらしい。僕は近くのインド青年集団に霊鷲山頂上の場所を確認し、自分で距離と時間をおおよそ計算し、足で登る方が速いと思い、歩くことに決める。途中元気な青年に会い案内される。「釈尊が横に寝ている形をした山」などがみえた。写真も撮ってくれた。その青年は日本人団体の案内人らしく団体が降りてくると途中で別れた。僕は何故か元気で山を走って登る。そして遂に霊鷲山頂上につく。そこはやはり靴を脱いで入らなければならなかった。年配の方と青年がいた。ブッタの仏像などがあった。頂上の気分はよかった。山をまた走って降りる。途中目の失明した乞食や五体満足でない乞食がいた。
山を降りると、青年(あだ名はKさん)が馬を休ませ待っててくれる。「ありがとう。さあもどろう。」とのことでまた馬に乗る。途中霊鷲山の門の前で降りて写真を撮ってもらう。その後、快速で戻る。彼の「チィッ!」という言葉に馬は反応。僕にも手綱をもたしてくれる。「チィッ!」と真似てみるが 彼のような声はでない。お互い笑う。少し行くと学校が見え生徒がサッカーをしている。彼はそれを見まいとしながらも気にしているような印象を受けた。僕は(彼は学校に行けなかったのだな)と直感し、少し寂しくなった。
目的地の帰りのバス亭にはちゃんと早く着いた。まだ時間があったので、バザールなどのメイン街の方に行きたい旨彼に伝える。プラス15ルピーで彼は快くOKしてくれた。繁華街の中でも彼の白馬馬車は早く、変な日本人の僕が乗っているので なんかスゴイ形相でみんなに見られた。バザールの中心地で降りて15分間ほど歩いて見学する旨彼に伝える。街は異様な雰囲気で、もちろんここまで来ると外人は僕だけでじろじろ見られる。少し恐かったがドンドン進み繁華街のはずれの子供の遊び場までを一通り見学する。床屋などで集まってる人達もいる。じろじろ見る人に「ナマステー」(こんにちは)と声をかけると変な外人が話す言葉のギャップがおもしろいらしく大爆笑がおこり、場が和みナマステーと言葉が返ってくる。馬車まで戻るが彼がいない。飲料を飲んで待っていると彼が「悪い悪い」と笑顔で戻ってくる。そして、バス亭に約束時間通りに到着。彼にお礼を言う。計95ルピーだったので100ルピー札を渡すとやはり「おつりがない」との返事。僕はその答えを予測していたので、「この速い馬のエサ代にしてくれ。」といい別れた。バス受付のオヤジに聞くとバスはまだ1時間くらいこないとのこと。「えー」(けっこう計画立てて急いでここまで来たのに)。馬車の彼はまだいたが僕は今度は歩いて民家の方に行くことにする。民家の方に歩いて行くと牛がいて、井戸などもある。民家集落の奥をどんどん歩いて行くと女性が食事の用意をしていたり洗濯していたりする姿を見る。空き地では子供が遊んでいた。僕の方をやはりじろじろみてきた。写真をとろうと言ったら子供が恥ずかしがりながら集まってきてくれた。最後まで恥ずかしがって写真に入らない子供もいた。その場で撮って見ることもあげることもできないカメラだった事は少し残念だった。近くにいた青年がシャッターを押してくれた。その後、少し恐かったがどんどん民家集落の奥を進んでみた。なんか生活感がみえた。小さな路地で一家族と笑って話していると(といってもまた「ナマステー」とかだが) 風格のあるヒゲ生やした長老みたいな人が来て あまり入って来るな みたいな感じで追い出された。まあしょうがない。僕も現場奥まで行き過ぎた。もどって青年オヤジ集団とも写真をとり(暗くてほとんど写っていなかった)、買い物をする。店に行くと奥さんと子供しかいないらしく、僕はセロテープがほしかっただけなのに、オヤジさんのPHSに電話してすぐに戻れみたいな事を大げさに伝えている。(そんなたくさん買い物しないよ)。バス亭にもどるとまだバスは来ない。もう暗い。屋台みたいなトコで御飯を食べる。(汁ものはやめてトマトなどを買う)。
付近の人にバスの事を聞いていたので、いざバスが来た時は「バスがきたぞ」とみんな教えてくれた。そして、切符の車掌に「この人バスに乗るから早く切符よこせ」とまるで自分の事のように騒ぎ、親切にしてくれた。帰りのバスは少し疲れていた。前の席の女性は妊婦なのか窓から吐いていた。となりに優しそうな旦那がいるから大丈夫かな。実はアニキのようだった。バスの中には途中ジロジロ僕の方を向いて「日本人か?」と話しかけてくる人がいた。僕はその質問にはもううんざりしていたので 答えなかった。韓国人でも通じるけど嘘ついてもいやだしなあ。僕の話をネタにオッサン男二人がいろいろ話しているようだ。僕には「俺は有名銀行マンだ」「ガヤでの泊まるところを紹介してあげよう。安心しなさい。」みたいな事を話してきた。僕は怪しさを感じ、なるべく話さないようにした。途中のあの乗り換えの橋の所では自転車に乗るとオッサンが隣りに座ってきた。田舎の星がとてもきれいだった。でも隣りは「君は日本人?」としつこいオッサン。僕は答えなかったがあまりにしつこいので星をみながら「私は地球人です」と答えた。
その後自転車代の5ルピーを片方のオッサンがケチっている。(そもそも有名銀行員関係ならこんな田舎バス乗らないよなぁ) 乗り換えのバスでは貴重品管理をしっかりしてると、電気が消えバスは真っ暗に。これ女性一人なら(男性でも)少し恐いと思う。 やっとバスを降りると、バックのチャックが開けられ中身がなくなっていた。しかし、対策として外側ポケットにはティッシュといらない切符の紙くずのみしか入れてなかったのでよかった。バス亭からガヤ駅までは数人乗りのオートリキシャと交渉。やはり日本人に見られると明らかに高くふっかけられ、別のオートリキシャに乗る。ガヤからはジャッキーが教えてくれた時刻表の電車でコルカタに向かう。切符の予約はできてなかったが、とりあえず普通切符で乗り、適当な寝台で横になる。クーラーはない方にした。車掌はなかなか来ないで、来るのは物乞いの人とか、チャイ売り。駅に着くたびに「チャーイ!」とのでかい声が何度もする。そしてコルカタに到着。朝である。1時間後に次の目的地であるタゴール国際大学があるシャンテイニケトン行きの特急が出るようだ。大学訪問後またコルカタに戻る予定なので、大きな荷物をクロークに預けることにする。駅内の広場みたいなところに座って荷物を整理していると、靴磨きの少年が来る。6歳くらいだろうか。僕は子供に靴を磨かせるなんて自分が偉そうで嫌だったし、昔、銀座かどこかでスーツのオジサンがイスに座って偉そうに老女に靴を磨かせている姿がとても嫌な印象として頭にあったので断った。「革靴じゃないし。今小銭がないよ」。しかし少年はしつこいしすごい愛嬌がある。磨かせてくれと勝手に磨こうとする。何度か断ったが、離れようとしない。小銭と小額の日本円を発見し、靴を脱いで遂にお願いする。もともと靴磨きが目的というより少年の愛嬌のある笑顔の売り込みに負けた形だ。一通り磨いてくれ、「もういいよ」と言うと、「まだ。最後の仕上げ工程がある」と丁寧に仕上げてくれた。(なんか靴磨きに偉い誇りを持った少年だな。考えてみれば朝7時前だぞ。どこから来たのだろう。この少年も学問をすれば立派な青年になるのになぁ) 約束の小銭と、日本円をあげた。換算ではよっぽど日本円の方が高いが、価値はわからないだろうなぁ。「これは日本のお金だから、大きくなったら日本においでね」と伝えた。

年が同じ年だったのでまたまた意気投合してしまった。彼はジャッキーといい、フランスの銀行マンだ。長期休暇をとりインドを1ヶ月以上旅行中とのこと。午後に行動したフランス青年といい1ヶ月もいいなあ。こっちは有給で5泊6日がぜいぜいなのに。。。 実は僕は普通の2等チケットしか持っていないことを知ると「だったら僕の寝台においでよ」。何度も「心配ないからおいでよ」と言ってくれた。話していて好青年だったので彼に甘えることにした。間もなく電車が来て乗り込むと車掌が空いてる寝台を紹介してくれた。しかもジャッキーのとなりだ。エアコン付寝台で570ルピーくらいと高かったがもちろん購入。
エアコンははっきりいって効き過ぎて寒かった。冬のソナタじゃあるまいし(!?)。寒すぎて何度か起きてしまった。夜中の3時という中途半端な時間にガヤに着いた。ジャッキーはホテルをとってあるから一緒にとまらないかと言ってきた。さすがにさっきあった人間といきなり同じホテルもどうかと思い、わるいし自分でホテル見つける旨伝えたが、だったら別々の部屋に泊まろうとのことでジャッキーの誘いもあり同じホテルに。なんだかんだで同じ部屋の方が安いし、ジャッキーとも意気投合していたので同じ部屋に泊まることにwww。150ルピー実に400円である。しかし、このホテルはクーラーがないため、窓を開けると蚊が入ってくる。僕は用を足したくなり横で寝ているジャッキーを起こさないようにトイレに行きインドではじめて大きなほうをした。インドはテッシュペーパーがなく左手を使い水でお尻拭き、その後手を洗う習慣がある。インド旅行の前に会社の後輩の体験を聞いた時「慣れるとけっこう気持ちいんですよ」と言っていたが、最終的にこれだけはインド文化の業にしたがう事ができなかった。用を足してテッシュで拭き水を流そうとすると、水が流れない!そこでとなりに組んであった大きなバケツの水をサブーっと流す。ジャッキーうるさくてごめんね。でも流さないよりマシでしょww。バケツに水を入れようとすると蛇口の水道も出ない。そういえばチェックインしたときジャッキーが風呂を点検し水道壊れてると教えてくれたが、どうせ朝まで寝るだけのホテルだし軽く聞き流したが、まさかまったく水が出ないとはおもわなかった。さっきのおけに組んだ水で終わりである。やばい一人でザブーっと使いきってしまった。ごめんジャッキー。その後、寝るのを試みたが、二人とも蚊がかゆくて眠れない。8時出発予定を早めて、明るくなったら出ようと話した。朝方になるとベランダがとなりの部屋とつながっており大きな窓から人がのぞいてきた。なんかアブねえなあ。こっちが起きてなかったら窓から入られちゃうじゃん等と思いながらチェックアウトの準備をする。ジャッキーとはメールアドレスなどを交換する。ガヤからの目的地もブッタガヤと同じだったので、オートリクシャで交渉。歩き方の参考価格よりジャッキーは安く交渉した。日本人がいかにぼられていることか。数人で乗りあう乗り合いリキシャーだ。ガヤからブッタガヤまでは自然もきれいで気持ちよかった。

しかし、途中の街中ですごい格差社会の光景を間に当たりにした。月曜の朝だったのだが、制服にネクタイをつけた金持ちそうな男の子が、使用人に人力車をひかせ学校に向かう、すぐ横でみすぼらしいカッコウの女の子がゴミをあさっていた。格差社会の縮図ともいえる1コマである。僕はいろんな事を思い馳せながらブッタガヤまでの自然をみていた。ブッタガヤに着くとジャッキーは予約したホテルがあるからと、いったん別れることにした。
>> ブッタガヤでは大菩提寺に行く。途中案内人を買ってでる人がいたが商売色ムンムンなのでお断りする。今度は気の良い若い(学生だという)青年が案内したいとつきまとってきた。そこには木が植えられていた。「菩提樹の木」や「金剛宝座」を近くで確認した。途中、仏教の修行層にもあった。また庭の掃除のオジイさんにもあった。「君もこれを植えないか」とお花に育つという根のついた新しい草をくれた。そして、埋める場所を指定してくれた。そして、手で穴を掘り、一部の品とともに、そこに新しい草を埋めた。オジさんにお礼を言いそこを後にした。外ではラン君が待っていてくれた。もう行ってしまったと思っていたので少しビックりした。まだお礼もしてなかったし、気分も清清しく、食事でもおごるよと食堂でパンやチャイやコーラを飲んだ。僕は次は霊鷲山に行くからもうお別れだねというと、「アレキサンダー大王が作った建物もあるし、それも見てほしい」とのこと。霊鷲山にはここから3時間くらいかかるが、朝が早かっただけにまだ少し時間のあることを思いついて行くことにした。マハラジャの建造物などがあった。仏の大きな足の石などもあった。さらにラン君は僕の学校があると川沿いに進んで行くと小さな小屋に案内される。そこには大人の男が4人くらいいた。つづく

すると、後ろから爽やかでハンサムな若い白人男性の、僕と同じ一人旅行者が話しかけてきた。「目的地はどこで、どうやって行くの?」「ガンジス川のガート(ボートも出る沐浴場)で、オートリキシャを考えている」と話すと意気投合、彼も同じ目的地とのことで英語のガイドブックの地図を見せてきた。お互いの考えが一致して「一諸に乗って割カンにしようとのことになった。」。ただオートリキシャは近くにいないし、インド人に聞くと「ここの空港近くはオートリキシャはいないよ」と言われ、タクシーで行くことにした。ここで、僕は携帯電話のない事に気づく。どうも空港の荷物検査の時か、または機内で落としてしまったようだ。白人青年に事情を話して、空港にもどり係りの人に告げると機内の掃除の人に連絡を取ってくれたりしたが、「ない」とのこと。自分で機内に行きたかったが白人青年は待ってくれるとのことで、あまり待たしても申し訳ないと携帯はいったんあきらめ、デリーに戻ったときにでも空港会社に聞いてみようと思った。あの携帯は簡単な和英辞典にもなるし、寝起きのアラームにもなるし、数字の確実な交渉でもけっこう使えたので少しショックだった。タクシーの中では45分くらい白人青年といろいろ話す。まだ学生で1ヶ月くらいインドを旅していること。名前。年齢。フランスから来たこと。自分も学生時代フランスに行ったこと。将来の仕事のこと。家族のこと。彼のインドでの出来事、腹を下し5kもやせたとの話しや今後の滞在予定などなど。ただそこまで自分には英語力がなかったので、余計に単語検索の簡単にできる携帯を落としたのは痛かった。最初から目的地付近までしか乗用車では入れないということでのタクシーとの約束だったので近くで降りる。そこから目的地まで歩こうとしたが、オートリキシャーやらサイクルリクシャが話しかけてくる。彼と相談し、交渉してみた。さすが英語が巧みで1ヶ月旅行してる分彼は交渉力があるように見えた。二人で20ルピー(10ルピーずつ)ということで同意したが、これがとんでもないオートリキシャで目的と反対方向に向かいはじめ、ガソリンを入れたり、でいっこうに着く気配がない。ひよこ当初5分くらいで着くものだと思っていたが、着いたのは目的地のガートを離れた違うガート。ホテルを案内したかったようだが、もうこの運転手からは離れた。それでもガンジス川を見たときはとても感動した。夕方近くになっていた。川にはボートがあり、インドのオヤジが「目的地までボートで乗せていってやるよ」とのことだったが、交渉は決裂し、僕らはバラナシの街中を歩いて目的のガートまで行くことにした。フランス青年の荷物はやたらでかく頭に乗っけてたがとても重そう。小さな小路を歩いて行くと、少年が道案内をおもしろがってかって出てくれた。最初は楽しく無邪気に少年と話していたが、少年も行く途中の店の若い男たちと何か話している様子で、何か「商売」のにおいを感じた。そろそろ目的地に着くころだと思うと少年は「もっと向こうだよ」と言う。フランス青年はさらに進もうとしたが、僕は念のため果物を売ってた近くのおばあさんに聞いてみた。すると「こっちだよ」と少年と違う方向を指す。フランス青年はどうするか聞いてきたので、ばあさんの言う方に行こうというと少年と急に出てきた大人の男が「そっちは違う」と騒いだが、まさにそこが僕とフランス青年が何度も口にしてきた目的地の「ダシャーシュワメードガート」であった。僕とフランス青年はガート前でさまざまなホテルやボートなどの話しを受けたが、彼は既にこの近くにホテルを予約してるし、僕はガンジス川での行動目的を果たし今夜にでも、次の目的地に向かわなければいけなかったので、彼とはメールアドレスを交換した後にがっちりと握手を交わし別れることにした。その握手は、まるで映画のワンシーンのような、大勢の人が見守る、オレンジ色の夕日が美しいガンジス川の前のガートでの、忘れられない1コマとして僕の記憶に鮮明に残っている。
> さて、フランス青年と別れ再び1人になった僕は、暗くならないうちに早速ボートに乗ることにした。日の出ののぼる朝一番が川につかる沐浴風景もみれておススメらしいのだが、今はボートがやってるだけでもありがたい。ここは観光のメッカのポイント地点だから悪い人も多いとデリーから聞かされてきた。200ルピーだ、なんだとふっかけられた。最終的に70ルピーで小型ボートに乗り火葬場などを見させていただくことになった。小型ボートには若いカップルとおぼしき二人の日本人男女が座っていた。こちらは一人身。せっかくの二人になんか気まずいと思い、「他のボートにしますね」というとけっこう強く「いてください。私達付き合ってる訳でもなんでもありませんから」との女性の返事。男の方はその女性の言葉に少し驚いた感じひよこ。再度移ろうと思ったが、引きとめも真剣だったので一緒のボートで見ることにした。話しを聞くと、インド旅行中コルカタのボランティア施設で出会い、同じ目的地のここまで一緒に旅をしており、明日にはそれぞれ別れる予定だという。確かにカップルではないらしい。二人はボートから写真をパシパシ。10分ほど行くと、人間の火葬場がある。ガイドブックにもあるがここはカメラ撮影禁止の場所。知らなかったのか女性が撮ってしまいボートの人に少し怒られたがトラブルにはならないようにする。ボートの人が「ここで降りてみる?上から火葬場を見れるよ」とのこと。2人にも話し、「行ってみよう」とのことで僕が先頭で そこで降りて、火葬の建物を登った。上からは人間の死体を焼く現場が見えた。案内人「もっと近くにいってみるかい?」2人に話すと、「せっかくだし行ってみよう」とのことになり火葬現場へ。煙が目に痛い。すると衝撃が。白い布に包まれていたはずの人間の死体から生足が見え、焼かれているのをもろに見てしまった。からだの上の方には既に焼かれた頭蓋骨もみえる。僕は少し声を上げたが、二人は無関心なのかまたは絶句して唖然としてしまったのが、反応があまりなかった。火葬場を見学後、暗くなってきたのでボートで戻ることにした。川の流れが強くなってきたうえ逆流だったのでボートを漕いでくれたインド人二人は少し大変そうだった。ボートを降りると日本人二人と食事でもしようという雰囲気になったが、次の目的地ブッタガヤに向かうべく僕はその場を離れた。バラナシの街はにぎやかで楽しい雰囲気である。それでも乞食などはやはりいる。乞食や物乞いへのお金などの施しに関しては社会システムの話しも出てきて賛否両論あり、ここで語るとさらに長文になるので割愛するが、僕は施すときは施した。もちろんすべてとはいかないが。色々考えさせられた。ここでは小さな女の子が菓子を買ってくれとしつこいのである。ムシすることはできなかった。サイクルリキシャに乗って駅に向かうと、後ろからデモ団体が声を高らかに道路を歩いてきた。それぞれ火を掲げヒンドゥー語で何やら叫んでいる。中学生くらいの若者まで楽しそうにその集団の最後尾につらなっている。途中運転手が変わり、駅のロータリーにつくと人がごったがえしている。座り込んでトランプをしてる集団や、ハダカで寝てる老婆までいる。(別に見たくなくても目に入ってくる)ここで、次の目的地のガヤまでの時間を調べようとしたが、外人専用窓口は閉まっていて、さんざん並んで夜行車寝台予約の窓口に並んだが満席とのこと。あれれ。もう夜だしな。近くのインド人にもう一つの大きな駅に行こうか相談したら、やたらホテルを紹介してきた。う~ん。ガヤまでは時間を活かすために夜行でいきたいしなあ。そこで普通席のガヤまでの切符を買い、とりあえず夜行電車に乗り込むべくホームに行ったが、電車は2時間ほど遅れるとのこと。これもインドでは普通らしい。僕は家族に電話することにした(はじめてで最後)。姉から借りてきた電子辞書は壊れたみたいで画面が見えなくなったとあやまると横のジョグダイヤルみたいのを回せば直ると教えられ、電子辞書が復活。ホームに行くとパプアニューギニアから来たと言う中年男性と出会った。人のよさそうな人で国でリゾートホテルを経営していると名刺までくれたが、話しを聞いていくと、インドを夜行バスで移動中にパスポートから貴重品から何まで盗られたとのこと。警察の盗難証明書とともに、カッターで引きちぎられたカバンのポケットを見せられた。僕は、今から一人で席の予約もなしに夜行に乗るけど大丈夫なのだろうか?ひとごととは思えなかった。電車はさらに遅れてるらしく、時刻を聞いたり、ミネラルウォーターを買いにロータリーにもどった。インドは改札出入りが自由になっている。さらに分厚いインド全域鉄道時刻表を購入。何故か外人用の英語版は同じインド人用の時刻表雑誌より4倍くらい高い。(最終的にこの時刻表はけっこう複雑で一度も使わずに枕になったw)。しばらくしてホームに行くと先ほどの中年は見えず、今度は階段に座った若いアジア男性が英語で話しかけてきた。「どこまで行くの?」「ガヤだよ」「あっ同じだよ。電車来ないね?(ウンザリのポーズ)」「ハハハ。もう2時間半まちだね」「君は日本人?」「そうだよ。あなたどこから来たの?韓国からですか?」「いやフランスだよ」えっ。顔はかっこいいけどどう見てみもアジア人だよな。聞くと中国人とフランス人のハーフとのこと。日本人にも間違えられるらしい。年が同じ年だったのでまたまた意気投合してしまった。 つづく
フロントの人に「かぎは今もってない。朝食のボーイさんが知ってると思います。」というとフロントマンはそんな訳ないといいながらも従業員に「朝食を運んだ人を呼んでくれ」とのこと、1分もしないうちに階段から僕の部屋のカギを手に持った朝食青年が微笑しながら降りてきた。案の定である。なんでやねん!。ただ怒りよりもあってよかったという安堵が先に起こり、ここで言い争ってる時間もなかったのであいさつするとホテルを後にした。朝6時半である。外では 民家の庭にハダカの男が寝てたり木に揺りかごみたいのをつるし気持ちよさそうに寝てる人がいた。さっそくオートリクシャオヤジと交渉。目的地はマハトマガンジーの碑がある公園である。交渉では昨夜のオトボケオヤジの経験があったので、あとでもめない為に携帯電話を出し、数字を押して画面をみせて交渉。最後に「ルピー」というのもポイントで、めったにいないと思うがドルと言いはる人の対策をたてた。地図を見ても遠かったので50ルピーで成立。もめもなくこれは使えると思ったが、あとで考えると、まだカラー携帯が普及されてないインドで日本の最新機種を見せてる時点で、交渉としては負けであると思った(金を持つ日本人としか見られないから)。マハトマガンジーの公園に行くと中央に記念の碑の囲いがあり、ちょうど火を灯していた。近づいて行き囲いに入るとすごい形相で「靴を脱げ」と怒られる(この後もインドには靴を脱がなければいけない神聖な場所がいくつかあった)。碑の前で合掌し、その後、同じ広い公園の敷地内にあるラジブガンジーの記念碑、インディアガンジの記念碑の前に行き祈念する。その後、オートリクシャ20ルピーで、オールドデリーのレッドフォート(赤い城)に向かう。だが8時半まで開かないとのこと。「歩き方」には日の出からと書いてあるのに。近くにいたサイクルリクシャの年齢のあるオヤジさんが すぐ近くのジャマーマスジットならやってるから俺の3輪自転車の後ろに乗れとのこと。当初行く予定はなかったが、アジアでも有名な巨大モスクとのことで歩き方にも書いてあったことを思い出し、オヤジさん「行ってもどればちょうど8時半ごろだよ」というのでサイクルリクシャでいくらか聞くと 「行って帰っての往復であわせて15ルピー。それ以外は一切なし」。ではお願いしますということで、3輪自転車の後ろに乗る。オールドデリーの街の雰囲気はニューデリーとはことなり、喧騒した感じで人と店でごったがえし民衆の激しい息遣いを感じさせた。僕は旅行においては、その方が魅力を感じる性格でもあり、自転車でオヤジさんの案内に耳を傾けながら街の様子を胸を高鳴らせ見学した。ジャマーマスジットに着くと自転車のオヤジさんは「待ってるから気にせず見て来い」とのこと。僕は感謝しながら、10分~15分くらいでもどるからと告げ、見学に。係りの男に靴を脱げといわれ、カメラは持っていないか聞かれ、もともと携帯しか持ってなかったし撮るつもりもなかったので持ってないと答えて、モスクを見学。モスクの上からオールドデリーを見渡すと、無邪気な子供が手をふっており、街の概観もわかるのでモスクではなくこちらを写真におさめたくなった。携帯を出し、周りをみながら誰もいないのを確認し2、3枚、ついでに調子にのり柱に隠れてモスクまで1枚撮ってもどろうとすると、遠くから「ハロー!!!」との大きな声!見るとさっきの男だ。「何?」(ちょっとヤバイかな。。。)。男「お前はバカか!!」 僕「どうした?」 「カメラを撮ったら500ルピーだ!こっちに来い」 うっヤバイ。いやあちょっと撮ろうとしただけだよなんてウソが通じる様子はないし、「わかった削除するから許してくれ」と言うと「駄目だ。とにかくこっちへ来い。と入り口へ。靴を脱いだところの壁に「ビデオカメラ300ルピー。カメラ200ルピー。」と書いてあった。彼はカバンの中にビデオもあるのを俺はみたという。いやビデオは持ってないといい、なお100ルピーに負けてと話してみた。ダメだという。しかも後で見たら「歩き方」にもカメラ撮影は150ルピーと載っていた(最近高くなったのだろう)。逃げようがない。
ここは最初に申請しなかった自分に非があると認めインドの価値では高い200ルピーを払うことにした。(200ルピーは550円程度なので今の日本人からしたら安い。しかし、都市、田舎の格差もはげしく一概にはいえないが2006年において200ルピーのインド人の「価値」は日本人の少なくても7000円~8000円の、ド田舎など場合によっては2万円ほどの「生活価値」にあると思う)。モスクの下ではサイクルリキシャのオヤジさんが待っていてくれた。レッドフォートにもどると「まだ八時半でないから他にも案内してあげる」とのこと。僕は今度は足で歩いてみようと思い、感謝しお金を払おうとすると往復で30ルピーとのこと。やっぱりきたか。もうあれほど確認したのに。このオヤジは快活で案内と笑顔もよかったので財布の小銭入れにあった数ルピーを約束の15ルピーに追加し渡した。30ルピーも払いたくないというより最初の約束を基本的には優先するべきと考えたのである。オヤジさんは何か言ってきたが、僕は手を振ると街の方向に歩きはじめた。さきほど乗った自転車から、近くにやたらとうるさい音の聞こえる建物があることに気づいていて、そこに向かった。中に入ってみるとヒンドゥー教の祈りのようだった。タンバリンとかおもいっきり鳴らしてた。そりゃうるさいわい!。出ると貧しい身なりの人が大勢いました。少し歩き、8時半レッドフォートに。外人は100ルピーとのこと。インド人は20ルピーしないようであった。ちょうど一番大きな通貨である500ルピー紙幣しか持っていなかったため、お釣りがないといわれる。ちょっと困っているともう一方の受付にいた女性が、機転を利かし帰ってくるまでにはお釣りが用意できると言ってくれた。それまでに他の外人からの入場料が集まるということだろう。それを信じて入場。入場時も空港のように厳重に荷物チェックがあったが(ちなみに荷物検査機のローラーにPETボトルまでおいたら笑いのネタにされてしまった。)建物自体はそれほどたいしたこともなく少しひょうし抜けしてしまい、早足で歩いてすぐもどり、お釣りをもらうと、オートリクシャーとの交渉開始。次の目的地は「自分の中でデリーのメイン」と2日前に決めたガンジースミムリティ博物館である。交渉中も、子供のうちわ売り子や他のオートリクシャなどがよってきた。さすが観光スポットである。交渉で25分40ルピー(だいたい80ルピーくらいからの交渉)で成立。ガンジースミムリティ博物館に着くとリクシャオヤジは待っててやると言ってきたが、時間もかかると思い丁寧にお断りする。まず、ガンジーが最後に銃で撃たれた中庭に行く。
もちろん靴は脱ぐ。朝もまだ早い方で誰もいなかった。中庭にはマハトマ・ガーンディーがいつも座って、集まった民衆を相手に話しかけていたという石のベンチがまつられていた。若い僕はいけないと思いながらも、そのまつられているベンチに座ろうとしたその時である。「コラ!座るな!」すごい声がする。あれどこにいたの。みられたか。慌てて座ろうとするのをやめ中庭外の木陰を見ると
オヤジさんがホウキを持ちすごい形相でみてる。「すいません!」てなことであきらめ(当たり前か)
、ガンジーが凶弾に倒れた場所のたててある碑の前で祈念する。衝撃的なのは、足跡が印されてあり、それが質素なベットが置かれた寝室から続いてあるのだ。つまり、撃たれた日ガンジはベットから中庭まで歩き、撃たれた場所で足跡が止まってあり碑が立っているのだ。僕はその足跡にそって見学した。その後、10時の博物館オープンとともに入場した。ここでは学生さん達が無料でいろんな遊び的な体験を通して糸引きや塩の説明をしてくれた。3人で手をつなぐと電気がつき手を離すと電気が消える背の高い柱などもあった。楽しかった。その後、記念館の裏手に回ると、今度は真面目に見学できる歴史ミニチュアやガンジーのベッドなどを見学した。
博物館をあとにすると、ガンジス川を見にバラナシに行くべく国内飛行場に向かうことにした。デリーからバラナシは東京から岡山くらいの距離である。時間のない旅行なのでここは迷わず飛行機を選択した。博物館から飛行場へはタクシーで行くことにした。空港近くの道路のほこりのすごかったのを思い出したからである。タクシーはオートリクシャより倍は高く180ルピー40分。空港でチェックインをすませて、出発ロビーで待つとバンダナとか巻いて髭はやした日本人若者二人がうるさくしゃべっていた。飛行機へ移動するバスでは一人若い日本人女性がいた。しかもインドでその露出はよくないだろうという肩の出た白いタンクトップのかっこう。ちなみにインドでは会う人の7~8割は何故か男で(コルカタだけは違ったが)、女性は基本的に家にいることが多いのだと思う。またサリーみたいのを着て肌を露出しない文化である。
余談だが、今回のインド一人旅は独身だからこそできたというのもある。全員ではないが基本的に女性はゆっくりとおいしいものをなるべく安全に、できれば優雅に楽しむというスタンスの人が多いと思う。ヨーロッパや他の国ではその方が楽しい旅行ができると僕も思うが、今回のインドでの強行スケジュールは少し事情が違う。実質4日程度で4つ以上の都市を回りバイクや馬などいろんな乗り物を乗りこなし、あちこち見て回ったのだが、今回はおいしいものを食べるということに価値を置かずに、後で具体化するが行く場所やインド旅行での出会いなどに価値を置いていた。会社の仲の良い人と男2人旅も考えたが、、もしかしたら最後のチャンスかもしれないと今回だけは男一人旅を選んだ。そういう意味で今、いける時にいっといたのはよかったと思っている。
さて、バラナシ行きの飛行機の中でバラナシでの行動予定をたてていると、到着予定より30分ほど早く着陸。下で空港バスが待っておりバラナシ行きの航空券をみせると「ここじゃないぞ」と言われる。バラナシに着く前に他の空港を経由したようだ。(日本だと東京から岡山に行く前の兵庫みたいなとこかな)。少しはずかしそうに機内にもどり新聞をとって座ってると、今度はさきほどのバンダナ日本人も勘違いして飛行機を降りてしまったようで「あぶねー」とか騒ぎながら入ってきた。(おいおいそんなにさわぐなよ。)ちなみに日本人女性は騙されなかったらしい。(ツワモノだな。)
予定時間すぎにバラナシに到着。空港のトイレに行くとトイレの中で働いてる人がいて、トイレを出ようとすると機敏にドアとか開けてくれた。(この人はこれで一生すごすのだろうか)などと考えながら、今度は成田にこりて荷物を預けていたので、荷物がでてくるローラーの前へ。ここではまた他の日本人にあった。どうやって市街に出るか聞いてみると「ツアーですから。」とのこと。すると、後ろから爽やかでハンサムな若い白人男性の、僕と同じ一人旅行者が話しかけてきた。「どこまで行きますか?」 
つづく
第1章から今月中終了をメドに不定期にお送りします。それでははじまりはじまり~
>> 準備:持ち物は最小限に抑えることにした。またスーツケースは運びにくいし邪魔だと判断し、バックで行くことにしました。持ち物は、①出発1週間前に買った1050円の大きなカバン②腰にベルトを通して使える小さな貴重品入れ③寮にあった中くらいの軽いリュック④最小限の着替え⑤洗面用具と正露丸(皆が絶対お腹こわすというので)⑥歩き方(悔しいが役に立つので)と必要書類数枚⑦ビザ付パスポート 以上である。さて出発、16日am11時前に成田空港に着き、両替所に行くとインドの通貨単位であるルピーは扱ってないとのことで5000円分を強いドルに交換(あとで少し痛い目にあったが。。。)。で、航空券引き換え書を航空券に引き換えると荷物はどうするか聞かれたが、着後探す時間がもったいないと思ったのと、もともとそれほど重くなかったので機内に持っていくことにしましたw。しかしこれは少し裏目に出た。さすがは成田。出発ゲート前で厳重にカバンを調べられ歯磨き粉とムースは持っていけないとの指摘。クリーム系の機内持ち込みが駄目なんだとか。何故だろうと思い少し交渉したが、とりあえず捨てることにした。荷物は余計軽くなった。12時発の飛行機に乗ると途中バンコクに20分くらい止まる。その間座ってるこちらにおかまいなしに掃除係りが掃除機などでウインウイン掃除し、新しい客を迎える。イギリスの老夫婦が乗ってきて老夫婦同士が隣の席ではなかったようで、僕に席を替わってくれないかという。快く変わってあげると、その後老婦人はいろんな話しをしてきた。医者の息子さんが僕と同じくらいの年齢だとか、夫は定年したとか。。。機内食は美味しかった。時差があるのでインド時間19:40デリー着。荷物を座席上の棚から下し、入国審査をすませ、まずは両替所に。少ないかなとも思ったがまずは日本円12000円を両替。(最終的にこれで日本円両替は終わる)。ここで気になる方も多いと思うので旅行にかかったお金を説明すると、85000円の往復航空券に1泊目のみ送迎付ホテルを予約したので7000円。インド国内での飛行機代7000円×2回分。燃油代13000円。航空使用料や保険で6000円くらい。ここまでが旅行会社に払ったお金約125000円(新宿の旅行会社の対応はとっても◎でしたww)で、ビザは1500円くらい。持っていったのは念のため5万くらいだが使ったのは最初に成田とデリー空港で両替した17000円のみであった。だから合計14万円強である。ちなみにインドの通過単位ルピーは1ルピーが約2.6円で両替された。で、空港を出ると、すごい目をギンギンさせた人達がホテルの看板やお出迎えの紙を持って待ち構えていた。ここで変なタクシーにつかまりとんでもないことになったという経験をいくつか聞いていたので、1日目のみはホテルを予約しており、出迎えてくれた人とお互いのフィーリングでパッと出会うことができた。数人での小型バスをイメージしていたが、客は僕一人。送迎乗用車。運転手と出迎えてくれた案内人が一人。少し不安もあったが案内人は悪い人ではなかった。日本語も堪能(日本語がうまい人には要注意が鉄則とのことではある)で40分くらい話していると中心市街のニューデリーから少しだけ離れたホテルに着く。たくさんのインド人店員の前でチェックインを済ませると笑顔のボーイさんが荷物をムリやり運んでくれる。自分で持とうとしたが「僕の唯一の仕事だ」とばかりに運んでくれる。エレベーターやクーラー、TVもあり部屋は広くきれいだった。(けっきょく今回の旅行で一番よいホテルであったのだが)。さて、荷物を整理すると出かけることにした。なにしろ明日の昼にはガンジス川に行くため国内空港に行かなくてはならないので時間がない。本来はインドはゆっくり行くべきなのだが、飛行機入れて5泊(フルで動けるのは4日もない状況)という時間がないのにハードスケジュールを立てたので時間がもったいないのである。近くの店でカバンに付けるカギとミネラルウォーターを購入し、少し付近を歩いてると牛が我が物顔で道路を家族(?)4頭くらいで歩いてる。さすがインド。町の中心のニューデリーに行こうとまずはサイクルリキシャの人と交渉。行く様子はあるがなんだかチャリでは少し遠いらしいことがわかる。そこで、オートリキシャ(タイでいうトゥクトゥク、屋根のある原付エンジン3輪車みたいな車)のオヤジと交渉。30ルピーで交渉成立。空気はとても汚く、汚れ
>> た町を走り15分でニューデリー駅に。50ルピー渡すと。オヤジは
>>>> 一瞬考え「130ルピーといっただろ」とぬかしてきた。コラコラ。いきなりかよ。当然こちらは30ルピーと言い早く20ルピーくれというと、「いやお前がもう80ルピーくれ」と のこと。おつりの20ルピーもないと
>>>> う。(ちなみにおつりはないというのは彼らのお得意手段だった)こいつめ、と思い50ルピーを一度取り戻し、近くの路上販売で 食べたくもないけどパンみたいな器にカレーの入った食べ
>>>> 物を10ルピーで買いオヤジに30ルピー渡すと、その場を去った。車のオヤジを避けるため、ごったがえす道の反対車線に歩いて渡り、最初の難を乗り切る。人がすごい。声もかけられる。目的はニューデリーのメイン通りのひとつのガンジー通りを歩くことだったので、人に通りを教えてもらい歩く。既に夜だったので閉まっている店も多かった。メイン通りから少しそれた小路を歩いてみるとモメゴトが起きてた。さらに進むと小路は民家の間にあるトイレにつきあたり、戻ろうとしたが、民家の女性に聞いたらトイレを抜けたら大通りに出られるというのでつっきた。どうなってるんだ。ここは。てな感じであるwww。少し歩き町の様子をつかむと、またミネラルウォーターを買い、明日も早いので帰ることにした。リキシャー30ルピーと記憶。 次の日17日5時45分に起床。早起きの苦手なはずの僕とは思えないくらいスクッと起きる。朝食は部屋で食べれるとのことだったので電話で頼み、風呂に入り、風呂からあがると、ちょうど朝食を青年がもってきてれる。トーストやチャイなどである。さて、今日は忙しいぞとチェックアウトをしようとすると部屋のカギがない!部屋をよく調べ直したがない。なんで?!?昨夜まであったし、中からも別のカギがかけられる仕組みなので夜中に持っていかれたとも考えられない。で考えられるとしたら悪いけどさ きほどの朝食青年ということになる。でもなんで?とりあえず行かなければいけ
>>>> ないのでフロントに行く。(もしかしたらフロントにあるかも。)フロントでチェックアウトを希望すると当然のように「ではカギをちょうだい」の返事。 少し冷や汗。 づづく
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