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生まれてから四半世紀を生き抜いたと言うのに、まだ何一つやり遂げたことなんてない。人生に生きた証を残した訳でもない。傷跡の一つすら残せていない。このまま人生を悠々と過ごし、最期の日を迎えたなら、僕はきっと薄れ行く記憶の中で『後悔』だけを残すのだろう。



同級生にはプロ野球選手になって活躍してる人がいて、歌手になった人がいて、起業家になった人もいて。



小さすぎる自分自身の価値に、愚かさに、尊さに涙が出る。



人生とは一枚の大きなキャンバスに絵を描く事だと思う。人は皆、生まれた瞬間に一枚の大きなキャンバスを与えられる。人間とはその真っ白なキャンバスに各々に絵を描いて行く、絵描きなのだ。その絵を人生の最期の瞬間まで描き続けるだけの単純作業の繰り返しなのだ。



生涯、評価されることなく息絶える者もいるだろう。多くの人に喝采を浴びて人生の花道を飾る者もいるだろう。派手な人生でなくていい。注目を浴びなくていい。しかし、誰か一人だけでいい。素敵な人生だったと言ってくれる人がいてくれさえすれば、自分の存在価値が、生きた証が認められる。そんな気がする。



そう思ってもらえるその最期の瞬間まで、僕は書き続ける。人生の大きなキャンバスに思いを込めて。

最大余震は本震の26日後と言うジンクスがあるようですが、今日は27日後。


やっぱり、ジンクスってあるんですね。

高校の修学旅行は広島の原爆ドームに行った。原爆によって被爆した人々の生々しい写真を何百枚も観て息苦しくなったことを鮮明に覚えている。目を背けたくなる様な写真ばかりだった。しかし、それは現実だったのだ。幻想ではなく、現実に起きた出来事だったのだ。

僕は日本人として、日本に住む者として、日本に生きる者として、その事実から背けていけないと思った。胸が締め付けられた。胃がキリキリと痛くなった。気分が悪くなった。しかし、その現実を後世に伝える為に目を背けてはいけないと思った。

2011年3月11日 14時46分。

この日の出来事もまた、後世に語り継がれることとなる。この瞬間、誰もが死を覚悟したに違いない。想像を絶する揺れを感じ、一瞬にして人々を混乱させた。

これだけの大きな被害を出したと言うのに、これだけ多くの犠牲者が出たと言うのに、三週間も経てばその出来事の恐怖も薄れていく。

先日、宮城に住む知り合いから言われた。

゛現地はテレビで観る様な生温かい場所ではない゛と。

そしてまた、その言葉の意味を僕は身をもって感じた。そこに広がる世界は地獄だとさえ思った。何も出来なかった。しばらくその場所から動けなかった。気付いた時には手が震えていた。全身の力が抜け、涙が流れていた。全て自分の意志ではなく、無意識だった。

被災地はまだまだ震災当時のままの手付かずの場所が多く、近くの体育館は死体安置所になっており、今なお何百体もの遺体が引き取り手を待っている状態だった。

同じ日本に住んでいるのに、一方で今なお災害に苦しみ、日々死と向き合って生きているのに、一方ではお笑い番組を観て腹を抱えて笑っている。

゛生と死゛

生きて行く上で最も重要なテーマだ。ニューヨークタイムズには被災地の死体安置所の写真が掲載された。

果たしてこの現実を知らない人は、このまま゛死゛から背けて生活していいのだろうか。被災地の本当の現実や死に対する恐怖を感じないでいいのだろうか。同じ国に住み、同じ言葉を話し、同じ肌の色をしている人間の生き様を、歴史を、見過ごしていいのだろうか。

家屋の下地になった人もいる、津波にのみ込まれた人もいる、彼らは3月11日、14時46分までは何時もと変わらない生活をして、何時もと変わらない平凡な一日を送るに違いなかった。

しかし・・・。

現実は違っていた。

よく歴史の生き証人と言う言葉を耳にする。それは戦争だけの、教科書だけの言葉だと思っていた。しかし、それは違っていたのだ。今日本に生きている全ての人が歴史の生き証人とならなければいけないのだ。それが生き延びた人々の使命であり、息絶えた者への誠意だと思う。

被災地はまさに地獄だった。しかし、少しずつ光が差し込み始めてきている。子どもたちの笑顔が唯一の救いであった。この子どもたちに希望を与えたいと思った。この子どもたちに勇気を与えたいと思った。そして一番に、この子どもたちを幸せにさせたいと思った。

この地に住み、この地で育ち、この地を築く子どもたちを温かく見守り、救いの手を差し伸べたいと思った。

強く生きる彼らを観て、生かさせているこの身体に、この人生に、全てに感謝した。

青空の下、僕の人生観が全く変わった一日だった。