今回は日本の合戦の桶狭間の戦いについてです
1560年(永禄3年)駿河遠江三河を領する大大名
今川義元が25000の兵で上洛を目的に隣国、尾張国を侵攻したというところから始まるというのが今までの定説だったのですが諸説あり。
織田信長が尾張南部の今川方の鳴海城を囲ったため援軍として出た説や尾張国全土を制圧することを目的した説など色々あります。
とはいえ上洛するにしても尾張の次は美濃、近江を
越えなければならない為なかなか厳しいものだと思います。
この当時は美濃には斎藤義龍、近江には六角義賢
そして京には日本の副王とも呼ばれ全盛期を築いていた三好長慶がいるため上洛を目的とするには少し兵が少ないです。
参考までに1568年に足利義昭を建てて上洛した
織田軍は60000とも呼ばれる兵を集め六角、三好
といった大名を撃破し上洛に成功しています。
ですので上洛を目的としてはおらず鳴海城援軍からの尾張侵攻というのが最近の定説になって来ているのかと思います。
さてここからは桶狭間合戦についてですが
まずは尾張に侵攻した今川軍は兵糧を尾張南部の大高城に入れる為、回りにある織田方の砦を攻撃させます。
その先鋒を任されたのが三河国今川一門の松平衆
この作戦の大将は松平元康、後の徳川家康公です。
この作戦は成功し無事大高城に兵糧を入れると同時に総大将今川義元の入城を待つためここで待機します。
この時期に尾張清洲城にいた織田信長は大高城落城の知らせを聞き、出陣に至ったとされます。
夜のうちに清洲城を飛び出し熱田神宮で兵の集合を待ち揃うと再度出陣したとされています。
この時今川義元は5000の兵を従え大高城に進軍していたが突然の雨により視界が遮られた為桶狭間山の麓に陣取り雨が止むのを待ったとされています。
この時近くにいた信長は斥候の知らせを聞き桶狭間に進軍し、今川軍に奇襲を行ったとされています。
この時織田軍は3000とされ信長の乳母兄弟の池田恒興、側近の佐々成政、信長の小姓として有名な森蘭丸の父森可成、この時は信長に謹慎を申しつけられていた勝手に来た前田利家などの武将が従軍しており、足軽には木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が参加していたとされています。
この奇襲は想定外のようで今川勢は数の差をすぐに崩され総崩れになりました。
しかし義元も海道一の弓取りと評された戦上手ですので一度は逃げることに成功するもすぐに追いつかれ信長の家臣毛利良勝の手で討たれたとされています。
この義元の死は非常に大きく今川軍は撤退、大高城に待機していた松平元康は義元の訃報を信じなかったものの叔父の水野信元に説得され三河に退却したとされています。
これの後信長は大高城を奪還鳴海城の隣にあった沓掛城を落城させるも最後に残した鳴海城城主岡部元信に苦戦を強いられますが義元の首を条件に開城、
これにより父信秀の時代からの宿願であった尾張統一を成し遂げ、敵対していた斎藤義龍との攻勢に力を注ぐのでした。
今回はこれまで
色々抜けてるところや間違いなどがあればご指摘の方お願いします。
