昨日は「國體と国家」について取り上げましたが、本日もその話の続きを綴ってまいります。
國體(こくたい)とは、天皇即日本であり日本即天皇であると昨日申し上げましたが、これぞ、わが国においては常に根幹にあるものです。
では一体どうして天皇即日本・日本即天皇であらねばならないのか?そのことについて少し掘り下げながら論じていきましょう。
まず、古事記(ふることふみ)の上巻 神代七代~ の冒頭から。
天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかあまはら)に成りませる神の名は、天之御中主(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日(たかみむすびのかみ)、次に神産巣日(かみむすびのかみ)。此の三柱(みはしら)の神は、並びに独神(ひとりがみ)と成り坐まして、身を隠したまひき。
「神」は何かをお創り(お造り)になったのではなく、「成りませる命」そのもの。
創造主としての神であれば、私たち人間や動物たち、あるいはこの地球も宇宙もすべて、
全知全能の神があってこそ創られたもの、となります。
つまりそれは主従の関係、あるいは契約の関係ということになります。ところが古事記では、
神がこの天地や生物、人間などを創ったとは一切言っておらず、神そのものさえ、
「成りませる命」としてご登場なさる。
こういうことは鶏が先か、卵が先か?の論点に似ているかもしれない。この世にある全てのものが自然発生的に「成りませる命」として生まれ、育まれたのだと考え至ったのが古代の日本民族でありました。その思考を元にして綴られた古事記には、その冒頭から「成りませる命」について説いてくれています。
また、最初に成りませる三柱の神様は、身を隠したまひき・・
これが今でも日本神道における「神」の真意となっています。「神」は特定の形(かたち)を持たぬ故に偶像神とはなり得ず、常にそのお姿は隠身(かくりみ)なのです。とはいえ「消えた(消滅した)」のではなく、自然の中に生きていらっしゃいます。
また、神様は何か特定の教えや戒律を人々に下すことはしないし、支配もしなければ何かを求めることもなさいません。ただ生きていらっしゃるという厳然たる事実を私たちが今日歩いている「道」に繋いでいるのみです。それが「随神(かんながら)の道」ということになります。
天と地。この二つの初めのとき、というのは遙か気の遠くなるような大昔の出来事でありますが、その自然発生的な現象があったことを単に宗教の枠に閉じ込めることなく、淡々とごく自然に認めてしまうのが日本民族の潔さ、賢さであったと理解できます。
その日本民族が古より大切に繋いできた「随神(かんながら)の道」に、わが国の國體(こくたい)は大いに関係してきます。古事記にあるように、三柱の神様からはじまった「なりませる命」は、その後、脈々と命から命へと受け継がれ、現代に生きる私たちに通じているのです。つまりこのことは私たち一人一人が「なりませる命」であり、「神」であることを示しています。
日本神道における八百万の神(やおよろずのかみ)とは、私たちのことであり、すべて自然発生的に生まれた命を含むのであります。ですからイエス・キリストもお釈迦様も、阿弥陀さんやお地蔵さんも全部、八百万の神となり、そこに垣根はありません。その大らかさ、清らかさと潔さが日本民族の本質であったわけです。
その日本民族は、畏くも家長に天皇を頂いている民族であります。
家長とは、支配者ではありません。権力者でもない。その御地位は貴きものなれど、本質は慈しみの心溢れる父親のようなものであります。わが国は建国してできた国家に留まらず、それより前に肇國(ちょうこく)、つまり国をはじめるにあたり皆で家族として助け合っていこう!互いに睦み合っていこう!と、まるで親子兄弟姉妹のような感覚で歩んできたのだろうと思います。その家長、お父さんが天皇陛下であることの幸せ、これを思うと涙が出ます。
少し長くなりました。
また次回も心を込めて綴ってまいりますm(_ _)m
すめらぎいやさか