在特会はじめ、日本にもレイシスト集団がいる。


「にも」といったのは、そもそもレイシスト自体はいつの時代、どこの国にもいるものであって、根絶は困難なものだからだ。差別に厳しい欧米社会ですら、いまだに対応に苦慮している。


だからこそ、彼らはマイノリティを明らかな弱者として、法律を整備することで保護している。また、もしレイシスト的心性を発露しようものなら社会的制裁も厳しい。


実際、人の心というのは難しいもので、自分が差別主義者ではなく、かつそのようにふるまっている人が、実際は心の中では「黒人を抹殺すべき」と思っている人を、われわれは差別主義者としては認識することができない。


だからこその法整備なのだろう。レイシストの根絶はできなくても、その発露はある程度防げる、もしくは事後的にでも厳しい対応をできるだろうという発想なのかもしれない。


直近で有名な出来事といえば、アメリカプロバスケットボールのオーナーの「黒人を連れてくるな」発言だろうか。選手、ファン、協会から猛反発を受け、彼は追放(?)されている。
これはもう、印象論だが、日本でこのような発言があっても、記者会見の謝罪程度で済まされるのではないか。という気がする。それほど日本社会の差別に対する意識は低い。そして法整備もできていない。


この差別にたいする対応の違いはなにも、法整備など社会制度の違いだけではあるまい。


結論から言うと日本人は昔から、そして現在でも


「日本は単一民族国家である」という神話の中に生きている。


というところにあるのではないか。


われわれ日本人は「単一民族」ゆえに、民族的マイノリティに配慮する必要がなく、


われわれ日本人は「単一民族」ゆえに、「空気を読む」ことで「なんとなく」相手の気持ちを察しつつ、「なんとなく」連帯しているというぬるま湯に浸かってきた


逆に、その平穏な「空気」を乱すこと(もの)に、極端な恐怖心を持っていたのかもしれない。


そういった「空気」のなかで生活する中で、われわれはむしろ「人の気持ちを考える」ということを本当の意味でしてこなかったのではないか。
同時に、本当の意味で「人それぞれ」ということはどういうことなのか、ということを理解できていなかったのではないか。


ということを考えさせられるものである。


とりあえず、この「単一民族国家」という神話からそろそろ抜け出した方がいいのではないだろうか。
IQの低さと人種差別的傾向には相関があるという研究があるようだ。


その真偽についても、研究内容についてもそのものを確認してないのであれなのだが、そこまで方向性を外しているものでもないと思う。


ところでIQの高低は偏差値とは関係がないとはいうが、やはりそこもある程度の相関があるように思う。というより感じる。


実際、この手の研究は重要であるように思う。とくに社会階層の研究にもなりそうである。


民主主義社会では、(ヨーロッパとアメリカでも違いがあるけれども)その基本は自由と平等が志向されているのだけれども、この平等の部分は、結果平等の世界ではなく機会均等の世界なのである。


機会均等ということはその結果に対する格差は民主主義は担保しない。よって民主主義は格差を否定しないのであるが、この格差は身分的な格差をも含んでいる。


少なくともアメリカでそだった民主主義の根本理念はそうである。


この身分的格差は、財産でも、家門でも決まらない。この格差は「教養」で決まる。


民主主義社会における「市民」は、この教養の有無によって決まるという考えである。教養のない人間は、社会の一員とは認められず、公共の場に出てこられることを相当に嫌う。


ところが日本ではこの根本理念は受け継がれずに、表面的にだけ民主主義と教養を受け継いでしまった。だからこそ日本的に変質した民主主義は、レイシズムを否定しきれないのである。


なぜ教養とレイシズムがかかわってくるかというと、教養は要するに多様性を認めることだからである。つまり教養のない人間は、多様性を認められず排外的になる、という判断を受けるのである。


確かにこれにIQがどのようにかかわってくるかという話をしなければならないのだけれど、そしてこれは完全な推測なのだけれども、おそらく相関があるのだろうと感じている。

英語から日本語に翻訳される時、たまに珍妙な訳語になってしまうものがある。





その一つに「イギリス」がある。





日本で「イギリス」というと、いわゆる連合王国を指しているようである。





ところで「イギリス」はイングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランドの一部の連合体であって英語ではGreat Britain and Northern Ireland と表される。Great Britain は「イギリス」を形作るブリテン本島の事でイングランド、ウェールズ、スコットランドが含まれる。



もともとはそれぞれ王国であって現在でもそれぞれの議会を持っている。この議会はかなり自立的でスコットランドなどでは分離独立の動きが古くから活発である。





サッカーの国際大会などではそれぞれ独立して参加している。このことに対する説明として「サッカー発祥の地だから」という説明がなされることがあるが、何の事は無い、そもそも彼ら自身が別々の国であるという意識が強いからである。





英語では「イギリス」人や「イギリス」のという時にBritain やBritish が用いられるが、あまり使われないし、「イギリス」人自身が使うことを好まない。彼らはあくまでイングランド人でありスコットランド人であり、ウェールズ人なのである。





同様にEnglish も勘違いされやすい単語である。English が「英語」と訳される時はさほど問題ないが、時たま「イギリス」という訳を見ることがある。もしこれをUK意味で使っているなら明らかな間違いである。English はあくまで「イングランドの」という意味であるから。





この勘違いの原因がどこから来たのかを考えて見るに、UKの訳を作る時にしEnglish を元のしてしまったことにあろう。イギリスという訳語は、その音からもわかるように明らかにEnglish に由来する。





なぜこのような事態になったのだろうか。





イングランドはやはりUKの中でも大きな王国で、影響力強かったからだろうか。それとも英語=English からつくったからだろうか。





それにしても、もはや実情に合わまい訳語がそのまま残され、そして修正不可能なほど人口に膾炙してしまったのは残念なことである。





イギリスという訳語のせいで、日本人の「イギリス」に対する誤解が生まれていると思うのだが、どうだろうか。

追記:

イギリスという言葉は、すでにポルトガルから入っていたようである。ポルトガル語のInglezに由来するようである。

しかし、それでもなお、(ポルトガル語辞典がないので正確ではないが)Inglezもおそらくイングランドの地を指す言葉であろうから、現在のUKを表す訳語としては不十分だと思う。

ちなみに中国ではUKを英国。イングランドを英格蘭と表記するらしい。(うろ覚え)
ネトウヨのあの「ネットで真実を知った」という一種の優越感を感じているように見えることを鑑みるに、彼らの中に知識的な優越性を得たいという自尊心が垣間見れる


ネトウヨといってもそれがよくみられるのは、在特会のようなヘビーな人々ではなく、どちらかというと竹田研究会(慶応大学出身のあの人の研究会という名のサークル)などに嬉々として参加したり、百田直樹に心酔していたりする人々である。


その意味では在特会界隈を中心としたネトウヨという一般のイメージともかい離がみられるグループであるが、彼らの思考を見てみる限りほぼネトウヨというくくりで言っても問題はあるまい。


そんな彼らは、研究会や書籍をよく読んでいるようである。その内容はともかく、知的好奇心の強さはうかがい知れる。しかし、いかんせん思考力が足りないのか、いわゆる陰謀論的な論にはまってしまう。


むしろ、竹田研究会やその他、陰謀論系ブログなどは、彼らのその自尊心に訴えかけることに成功しているのかもしれない。


ところで、重度のネトウヨである在特会等の人々はどうかというと、彼らも別の意味で自尊心の塊であるように思える。


ただしその自尊心は、おそらく病的に肥大しているようだ。


彼らの攻撃性はおそらく「自分」自身がもはや制御不能なほど「自分」のなかで肥大したのではないだろうか。


幼児的な全能感にささえられたそれは、「自分」が傷つくことを一切拒絶する。外界からのあらゆる「自分」の意に沿わぬものを拒絶する。


自分の中の絶対性を認めてくれたのがネットだったのかもしれない。ネットでは基本的には自分の見たいものしか見ないで済む。また、基本的に同じような属性をもった人間としかかかわらないという選択ができるので、自分を傷つけるものもいない。


そうした閉鎖的なコミュニティの中で「自分」を肥大させていくのである。


結局は彼らは子供なのである。子供の心性のまま体だけ大人になったのだ。


その延長線上に、ネトウヨの界隈での在特会の宗教化がある。自分たちを守るために「日本」という属性に「自己」を同化し、「自分」を信奉するのである。


途中で話は切れた感があるが重度のネトウヨになるにつれて段階的にこのようになってくるのではないか。しかし自尊心だけの問題ではもちろんないし、ネトウヨの範疇にどのような人が入るのか、ネトウヨの中の「レベル」をどのように分けるのかなどつめられるべき点は多くある。




さて、最初にブログの目的を述べておく。

これは、拙ツイッターにおいて、いわゆるネトウヨと呼ばれるところのバカとのやり取りから派生して、私自身が考えたことを140字という制限から脱した状態において、記録できるようにするものである。

このブログ自体にさしたる目的はなく、しいて言えば私の思考実験のまとめの場だと考えるのが妥当であろうが、そのほか射程は広めに見積もっているつもりである。


基本的なコンテンツは私の思考実験の過程となるが、この場でそれを検証することも、対論することも意図してはいない。ゆえに、そのコンテンツをもって議論の土台となすことは概ねない。


更新頻度はその都度ということになる


さて、最後にツイッターをやっていてわかったことを書いてみよう。


それは、世間は私が思っているよりも愚かで、そして、私は自分で考えていた以上に賢いということである。そして私の近い者たちは頭の良い連中だったということである。


少なくとも、「知らないことがたくさんあり、世の中は複雑である」ということを知っている点において、私はたぶん、少なく見積もっても平均よりは頭がよく、物事を「分かって」いるらしい。


インターネットによってあらゆる人が、言論活動を行えるようになったが、果たしてそれは「良いこと」だったのかを、もう一度考えてみる必要があろう。世の中には(私が積極的にそういったコンテンツを見ようとしていることを差し引いても)言論活動を行うに足る「頭」を持っている人間と、そうでない人間がやはりはっきりいて、そして、後者ほどなぜか自信満々なのである。


ところで、インターネットの発達によって、視野が広がるという類の言説があるが、それは本当だろうか。


これについては視野を広げようとしている人間にとってはそうであるが、ほとんどの一般人にとっては大した効果はない、と、ネトウヨを見ていて思うのである。


人は見たいものしかみないといえば、身もふたもないが、ネットが普及したところでそれが人間の興味の幅を直接的に広げるわけでもなく、リアルだろうがネットの世界だろうが、見たいものしか見ないのである。


かくして、ネットは、ある人にとっては大したツールにはなりえないのだ。