和同開珎銭の初鋳を和銅元年として譲らない学者の言い分の不可解


 最初に踏まえるべき事実を紹介しておきます。流通銭というのは現役貨幣として使われた事実が確かめられている場合をいいます。まじない銭というのは貨幣としてではなく興福寺の芯礎の穴に埋納されたように、仏事関係の祭祀に用いられる場合や贈物として用いられる場合を指していいます。贈賄・収賄というと流通貨幣になってしまいますが、いわゆる純然たる貴重品としての扱いです。当座、現金以外の使い道という程度に考えてください。

 大阪大学(だったと記憶しますが)の先生の主張は富本銭を頭から厭勝銭(えんしょうせん)すなわち「まじない銭」と決めつけるもので、前回述べた『日本書紀』天武十二年(文部省年表では天武十一年・六八三年)四月条に銀と銀銭・銅銭に関する二つの記述、

「詔して曰く、今より以後、必ず銅銭を用いよ、銀銭を用いることなかれ」

「詔して曰く、銀を用いること止むることなかれ」

 これに富本銭を当て嵌めて、和銅元年初鋳造説を補強しているわけですが、資料主義を物差しにすると、次の不条理が生じてきてしまいます。

 平成十二年に出土した富本銭は銅銭のみで、最初に発見された江戸時代からこの方、銀銭は発見されていない事実との整合性をどうやって説明するのか、という大問題が放置されたままになっている。

 以上のことから『日本書紀』天武十二年四月条にいう銀銭と銅銭に富本銭を当て嵌めることがいかに無謀であるか、簡単に判断がつくはずなのです。

さて。

問題は富本銭が流通銭だったのか、厭勝銭だったのか、あるいはまったく別の目的を持つ銅銭だったのか、という疑問です。

ここから先はかなり推測、仮説が中心になってくるので、公判廷はいったん閉廷して、非公式の議論の場としたいと思います。

ここでも長井健史検察官の論述書を参考にしたいと思います。

          

中国西安市何家村で発見された五枚の和同銀銭は何を語るか

 白雉四(六五三)年に第二次、同五年に第三次遣唐使と連続したのち、第四次遣唐使(六五九年)、第五次遣唐使(六六五年)、第六次遣唐使(六六九年)は六年おき、四年おきであり、それ以降、第七次遣唐使派遣(七〇二年)まで三十二年間の空白がある。この三十二年間の空白は何のためだったのだろうか。

 第一次遣唐使は、本来、第四次遣隋使として派遣されるはずのものだ。その証拠に大使は第三次と同じ犬上田鍬である。主が変わらないで相手が隋から唐に変わっただけのことである。目的も遣隋使と変わらなかったと思われる。第一次遣唐使から第二次遣唐使派遣まで、やはり二十二年間の空白、これにも注目する必要がある。

 仏教文化の導入は改めて騒ぎ立てるほどのものではなくなっていた。仏教文化導入の次の目的は唐の都市計画と律令制度の導入ではなかったか。唐の都長安の荘重な宮城、皇城、整然とした町並みをみて、日本にも同様な都を造り、唐のように律令制度をもって国を治めたいという願望が芽生えたためと思われる。空白の二十二年間がその準備期間だったと考えると、その後の大和朝廷の動きに符合する。では、次の三十二年間の空白は何のためだったのか。

 唐の長安に負けない都を造るとなると莫大な費用がかかる。物品経済ではまかないきれない額である。したがって、貨幣制度を設ける必要があり、唐と肩を並べるためにも自前で銭銘を有する銭貨を持たねばならなかった。それを携えずに遣唐使を派遣することは意味のないことだったに違いない。三十二年の空白期をおいて第七次遣唐使が派遣されたのは、文武朝三年十二月二十日に鋳銭司長官が任命されて三年目のことだ。

 中国西安市何家村で昭和四十五年に発見された五枚の和同銀銭の存在が第七次以降の遣唐使の一つの役割を物語る。何家村は唐の時代に高宗の孫に当たる李守礼の王府があった場所だ。五枚の銀銭はそれぞれ形状が異なるから海を渡った時期の違いを思わせるし、鋳造した時期も場所も異なるのかも知れない。いずれにせよ、遣唐使が持って行ったことは確かだから「古和同」説に軍配があがる。

 時空の旅人となって古代へ行けるとしたら、今、私がいちばん行きたいのは天武朝七(六七九)年である。同年五月、天武天皇は皇后と川島皇子、芝基皇子、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子を集めて、各自の胸をただした。

「朕は、今日、汝らとここで誓いを立て、千年の後まで争いのない世の中を築きたいと思うがどうか」

 大海人皇子であった天武天皇自身が、古代最大の大乱、クーデターといわれた壬申の乱を起こしてから七年後のことである。皇位継承者だった大海人皇子は、兄の天智天皇がわが子の大友皇子に皇位を継がせるため自分に殺意を抱いていることを知って、出家して吉野に逃れ、天皇の死に乗じてクーデターを起こした。すなわち叔父と甥の争いである。このため畿内一円が戦場と化し未曾有の大乱となった。そのときの苦い経験がいわせたのだろう。

「われら兄弟、長幼合わせて十余名の王は、それぞれに母は異なっても互いに助け、天皇の御言葉に従うことを誓います」

 皇子たちは口を揃えて誓い合った。後世にいう「吉野の誓い」である。これこそ「和同」の精神そのものではないか。この時代に伝わったと思われる中国の文献にも「和同」の語が頻繁に現れる。和同は天武治世下の時代を象徴する言葉だったのだ。

 和同開珎の銭銘はここからきているはずだ。

          

 長井検察官の論述は、ここでいったん区切りがつけられました。次なる段階を意識してのことだと思いますが、そこで、秦野裁判長がいいました。

「本来なら推測は採用しないのだが、歴史法廷が認めるところのデフォルメ仮説に当たるから、富本銭の銭銘とのからみからいってもパターンと見なさないわけにはいかんだろう。和同開珎の銭銘の由来に関するかぎり、このケースでは採用してよいと思う」

 すると、長井検察官が補足していいました。

「仮説、推測がもとですから、パターン比較の例を丹念に積み重ねる必要があります。すなわち、中国西安市何家村で昭和四十五年に発見された五枚の和同銀銭、これを第七次以降の遣唐使が持参したのは間違いないわけですから、それをパターンに見立てると、『しからば、遣隋使が持参した銭貨は何か』という疑問が意味を持つことになります

「しかし、結局、状況証拠しか示せないわけだろ」

「残念ながら」

「だから、後々のために考え方の道しるべを語っておく、という程度に考えて議論すればよいわけだ」

「そうするほかないと思いますし、それをやるだけでも日本史の世界では画期的な試みになるのではないでしょうか」

「じゃあ、そういう前提で長井検察官の論述に耳を傾けよう」

 こうして長井検察官の論述が再び始まりました。

          

 富本銭は遣隋使に持参させるための外交上の見せ金?

平成十二年に富本銭発見の記事を見たとき、私は真っ先に次の疑問点に気がついた。和同開珎銭も、富本銭も、流通とまじないの観点からしか考証されていないのだが、遣隋使、遣唐使が持参する外交の道具という観点を加味する必要があるのではないだろうか。遣隋使が持参したのが富本銭、遣唐使が持参したのが和同開珎銭という見立てだ。すなわち、遣隋使の目的は大和朝廷が隋と対等な外交関係を築くことで有力豪族を心から従わせることだったとは考えられないか。

 いきなりでもうしわけないが、いわゆる「東の方十二道」は大和朝廷の富庫たるべく期待される土地であった。ずっと後になって相模国に政権を樹立した平将門の反乱は大和朝廷の経済基盤と軍事力の供給源が遠隔地の東国にあったために起きたもので、権力が直接及ばない間接支配のむずかしさを物語る。それに先立つ日本武尊の時代の東国は開発途上であったため収穫が少なく直接的な収奪構造で間に合ったのだが、聖徳太子の時代には後漢の「富民之本在於食貨」すなわち富庫を持つ者が支配権を得るという思想が大陸からすでに移入されており、天皇親政を確立するためにも東国開発を一段と進める必要があった。そうした聖徳太子の意図が知れれば蘇我馬子との間に亀裂が生じてしまう。

その一方で、聖徳太子は蘇我馬子と手を携えて仏教を広め、神卜に頼る裁決を学問に基づく理知の裁決、慈悲の政治に移行させようとしていた。そうなると、今度は廃仏派物部守屋が立ちはだかる。「和をもって貴しとなす」を政治理念にする聖徳太子としてはいずれの勢力とも争うことなしに、理知の裁決と慈悲の政治を成し遂げたいはず。もちろん、大いなる矛盾であることを承知の上で。ただし、大和では不可能でも東国ならいずれの勢力にも妨げられることなく目的を遂げられる。だから、まず東国。東国で朝廷の基盤を固めてから大和に手をつける手順に問題はないのだが、さて、大和に手をつければ、蘇我氏の臣(おみ)連合、連(むらじ)を束ねる物部氏と争うことになりかねない。争いを極力小さくしながら目的を遂げるとしたら、聖徳太子の目は西国のさらに西に向けられるはずである。

大和朝廷が懸案としてきた任那(みまな)再興を果たせば天皇の威信は国内でも高まり、親政の心理的基盤が強化される。しかし、聖徳太子は百済、新羅、高句麗を相手にするより隋と対等な関係を結ぶほうが、軍事的手段を必要としないすぐれた方策であると考えた。仏教を広めるねらいはもう一つ、そこにあったものと思う。ただし、仏教だけでは対等になれない。渡来人学僧から得た知識によれば、隋国の都は整然と区画されていて、官僚の位階、儀礼、法令、すべてに様式がきちんと定まっているという。だから、冠位十二階、十七条憲法の制定が必要だったのだが、聖徳太子が遣隋使の派遣に踏み切った原因はそれだけではなかったろう。

 ここで富本銭が意味を持つ。

調の取立ても銅銭で行われ、交易もまたしかり、すべてが銅銭で決済されるという事実を隋に伝えるためには、わが国も銅銭をつくる必要があった。遣隋使の段階では実用とまではいかないまでも、少なくとも使いの者に持参させ、わが国も銅銭を用いているかのように見せかけるだけでよい。

 ところで。

富本七曜銭と呼ばれてきた富本銭の形状は「富本」の文字に挟まれた方孔の左右に七曜星を意味する点が鼈甲形に七つずつ浮き彫りになっている。その「七曜」は中国古代に広まった五行思想にいうところの木、火、土、金、水に月と太陽の陰陽を加え、すなわち七曜星が天地の象徴であり天皇を意味するものだから、遣隋使に持参させた「書」の文言を補強するのに打ってつけである。

「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや……」

これほどの符合があろうか。

富本銭の形状からデザインの見本になったと思われるのが、後漢から隋代にかけて流通した五銖銭である。和同開珎銭のモデルになったといわれる開通元宝銭は唐代に鋳造されたものだから対象外。五銖銭を富本銭のモデルと特定する難点を強いて指摘するなら、見本が貨幣単位を表す五銖の文字を方孔の左右に持つのに、富本銭は「富本」の文字を天地に配しており、その点に違いがあることであろう。しかし、天地を象徴する七曜星が天皇を意味すると解釈すれば富本の文字より尊重されてしかるべきで、天地より左右に配するのが自然である。貨幣単位を刻印する部位に七曜星を置くのは流通目的ではないからであろうし、結果として、五銖銭モデル説と外交目的説を同時に裏づける。

前述のような根拠から、富本七曜銭鋳造の当座の目的は通貨ではなく、ましてやまじないのための厭勝銭でもなく、遣隋使に持参させるいわゆる外交手段の「見せ金」だったとすると、出土例、量ともに少ないのは当然であろう。

          

 長井検察官が論述を終えると、秦野裁判長が感動の面持ちでいいました。

「これこそプロファイリングの極致だな。『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや』という書の文言は、聖徳太子らしからぬ不遜の文章として長いこと疑問が晴れなかったんだがよ、朝廷親政を曽我氏、物部氏という二大豪族との関係に皹をいれないでやるには、隋国を下風に見る姿勢を示すことで承服させるにかぎる、そういうワンセットの考え方をすれば、むしろ不遜なくらいでなければならなくなるわけだ。やったぞという感じだな。と、なると、古代貨幣史の考証は半ば目的を遂げたようなもので、和同開珎銭はやはり天武天皇の『吉野の誓い』すなわち和同の精神に命名の由来があるとみなすのが妥当だろう。聖徳太子のモットーでもある」

 流通目的でもなく、埋銭目的でもなく、外交目的とは……。

 この結論に驚かれた方は多いのではないでしょうか。

 古代史と中世・近世史の違いはあっても、考証の勘どころは同じです。

 和同開珎がわが国最初の貨幣で和銅元年に最初に鋳造された、と私たち団塊世代は学校で教わりました。もし、非公開の法廷の結論が正しいとなると、教科書の古代貨幣史に関する記述の書き換えは避けられなくなるでしょう


(つづく)





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