英雄が家来の場合、下剋上をやれなかったら生き残れない


 太田道灌の教訓などとお堅い言い方をしてしまいましたが、長井検事の論述を借りて説明すると次のようなことです。ただし、太田道灌の教訓について言及する前に南北朝時代の鎌倉府で管領の職にあった上杉憲実のことから説明することをお許しください。

          

 自転するばかりで公転しない善人政治家は世の中に有害である

前置きは省いて、鎌倉府管領上杉憲実について言及する。永享八(一四三八)年、室町幕府の管轄下にある信濃国守護小笠原政康と豪族村上頼清の間に領地をめぐる争いが起きたとき、村上氏は幕府に訴えるべきところを鎌倉公方の持氏に応援を求めてしまった。持氏は村上氏に応援の兵を出すことを応諾し、場合によっては室町幕府へ一気に攻め込むつもりで準備にかかった。憲実はそれを「信濃は鎌倉公方の管轄にあらず」と諌めて阻止した。それで収まったかに見えた。だが、翌年、持氏は村上氏を倒した小笠原氏討伐の兵を出すと宣言した。そのとき、小笠原氏討伐は口実で憲実を討つための兵だという噂が飛び交い、上杉方の兵が憲実の屋敷に集って対抗する姿勢を取った。そこへ持氏が乗り込んで憲実と語らい、周囲の疑いを解いたものの、直後、憲実は藤沢に向かい嫡子憲忠を所領の上野国平井に逃し、そのうえで鎌倉に戻って執事の辞任を申し出た。だが、なぜか持氏は憲実の辞表を受けつけなかった。

さらに翌年の六月、持氏が嫡子賢王丸の元服式にかこつけて憲実殺害を決意したという噂が飛んだため、憲実は賢王丸の元服祝いの席を欠席し、八月になると所領の平井へ帰ってしまった。うるさい男がいなくなって持氏は将軍義教に叛旗を翻すのだが、幕府軍に敗れて剃髪し、鎌倉の永安寺に入って出家した。ところが、人のよい憲実は持氏の助命嘆願を義教に願い出た。憲実がこういう穏健な人物だから反乱の後にしては犠牲者が少なかったといえるのだが、義教は持氏のみは許さず憲実に殺害を命じ、憲実はやむなく永安寺を襲って持氏ならびに賢王丸改め義久親子を自害に追い遣った。こうして憲実はこころならずも関東管領として鎌倉府を牛耳る立場になったわけであるが、なぜか日増しに憂悶を深める一方で、とうとう弟の清方に管領の職を継がせて仏門に入ってしまった。

翌年早々、結城氏朝が持氏の遺児春王丸を奉じて上杉氏討伐の兵を挙げた。すると、幕府は憲実に管領への復帰を呼びかけてきた。憲実は責任を感じて出兵に応じ、二年越しの戦いを経て結城氏朝を討ち、持氏の遺児春王丸・安王丸・永寿王を捕えた。こうして反乱の鎮圧がなると、憲実は再び仏門に戻ってしまった。結局、持氏の遺児三人のうち春王丸と安王丸は京へ護送される途中、美濃国垂井で幕府の命を受けた長尾実景の手で斬殺され、永寿王のみ一命を許されて土岐持頼に預けられた。この永寿王が元服して成氏を名乗って鎌倉公方の地位に復帰するまで、関東管領山内上杉氏が事実上の長官となって十年近く鎌倉府に君臨することになる。すなわち、文安五(一四四九)年一月、永寿王が元服して成氏となったとき、関東管領は清方が病気で亡くなり憲実の嫡男憲忠に代わっていた。

そこへ成氏が鎌倉公方となって戻ったら何が起きるか。

最初からわかり切ったことなのに憲実は成氏と入れ替わるように諸国巡錫に出てしまった。成氏は憲忠と折り合って五年の間は無事に過ぎたのだが、父親を自害に追い遣った憲実の子と同じ空の下で暮らすことに耐えられなくなり、享徳三(一四五四)年十二月二十七日、鎌倉の邸宅を襲って憲忠を殺害、古河へ逃れて古河公方を称えた。

すなわち、関東の政権地図はどうなったかというと、足利成氏が古河公方を称え、幕府が派遣した足利政知は関東の内乱に巻き込まれるのを恐れて箱根山を越えることができず、伊豆に落ち着いて、堀越公方となった。室町幕府はやむを得ず主不在となった鎌倉府の長官に関東管領山内上杉氏を据え、長尾氏を執事に任命した。いよいよ関東が乱れる構図が出来上がったわけである。

        

長井検事は深く溜息をついて、ここで息を入れ、秦野裁判長に語りかけました。

「憲実は関東管領の職を押しつけた弟の清方より二十一年も長生きしただけでなく、僧籍から離脱させてまで関東管領の職につけたわが子憲忠を自分が助けた成氏に殺させ、わが子憲忠より十二年長く生きたわけですが、結局、享徳の乱を招いただけでした。それほど他人を犠牲にしてまで善人、人格者でありつづけた上杉憲実、この人が何か世の中のお役に立ったといえるでしょうか」

「今でもいるじゃないか。不要不急の改憲や集団的自衛権の実現に熱くなって、原発事故の収束、地下水ダム建設により地下水の流入をシャットアウトすること、国債の償還を急ピッチで進めて国家財政を破綻から救う、少子化に連動して若年層が大都会に集中する国民的構造的危機、などなど、やるとしたらこっちが緊急で末期的なんだ」

「改憲も、集団的自衛権の容認も必要ないということですか」

「必要ないとはいっとらん。必要とする時期じゃないというんだ。今、そこにある危機をほったらかしにして、いつくるかわからない危機の対処に熱をあげて政治家といえるのかというとるんだ。改憲の目的も、集団的自衛権も、万一それが必要な時は総理大臣が首をかけて超法規的行動に出れば済むことじゃないか。そんなの法律だの、法治国家だのというレベルの問題じゃない。今の政治家はその程度の判断もつかなくなっとるらしいな」

「あっ。そういう考え方もあるんですか」

「総理になりたかったが、なれないで、臨終のとき悔しまぎれに息子におまえ頼むぞといった親父は、そういう考えは持てなかったがな。昔の政治家も玉石混交だったが、玉のほうがはるかに多かった」

 秦野裁判長は法務大臣も経験しているのですが、独特のお考えをお持ちのようです。

「この日本史法廷では、そんなことはどうでもよいことだが、俺の政権ではまだ大丈夫といってだな、今そこにある危機を先送り、先送りしてきて、一刻の猶予もならなくなりかけているのにだ、政治的信条なんか優先してどうするつもりなんだということだよ」

「政治も見方、考え方を改める必要がありそうですね」

「そうだよ。今そこにある本当の危機は総理の首を飛ばしたくらいではどうにもならんのだからな。賢く、果断でないと……」

「参考になりました」

 長井検事が感心して論述を再開しました。

          

 太田道灌の教訓

《古河公方足利成氏は憲実が仁君であろうとして助けた永寿王である。小さいときは可愛らしかったかもしれないが、長じてからは常に戦乱の火種になりつづけた。

成氏が古河公方となって一年後の康生元(一四五五)年、幕府は信濃国小笠原光康に成氏討伐を発令。扇谷上杉持朝と長尾景仲も上杉憲忠の弟房顕を奉じ武蔵国分倍河原で成氏の軍と戦った。成氏は討伐軍を撃破、景仲は常陸国小栗城へ敗走した。成氏はこれを追って小栗城を攻め、景仲を陸奥国白河へ追い落とすと、反転して武蔵国で立て直した上杉房顕の軍勢と戦い、さらに平塚に兵を進めた。ここで成氏と戦ったのが上杉持朝の将太田資長、すなわち道灌であった。道灌が二十三歳のときのことで、主君の氏朝は河越城を築いて成氏討伐に奔走するわけであるが、河越城の縄張りを道灌が父親の道真と一緒に行っており、すでに築城の才は発揮されつつあったわけである。

道灌は鎌倉府の英勝寺の近くにあった道真の屋敷で生まれ、扇谷あたりを遊び場にして育ち、平素から兵書を読み、毎朝、陣鉦を鳴らしていくさの稽古に余念がなかった。行く先々で地形を読み、築城適地を見る目を養った。

ところが、道灌三十六歳のとき、すなわち応仁元(一四六七)年、上杉持朝が亡くなり、それから六年の間に嫡男顕房が他界、さらには跡を継いだ顕房の子の政真が武蔵国五十子(いかこ)の陣で成氏と戦って敗死するに至ったため、文明五(一四七三)年、持朝の三男定正が扇谷上杉家の当主に収まった。これがどうしようもない暗愚の主君だった。道灌は隠居した父親の跡を継いで扇谷上杉家の家老となり、まだ資長を名乗っていた。

一方、関東管領山内顕定の執事長尾景信が五十子の陣中で死去したため、子の景春が跡を継ぐことになるのだが、景春を執事にすると白井長尾氏が三代つづくことになり、今でさえ扇谷上杉氏の倍以上の所領を持つのにこれ以上強大になっては困ると恐れて、顕定は白井長尾氏の景春を忌避して惣社長尾家の忠景を執事に任命した。これを不服とした景春は従兄弟に当たる太田道灌に挙兵の合力を求めた。道灌は拒絶し、五十子に在陣する山内上杉顕定と主君定正のもとへ出かけて諫言した。

「景春を懐柔するために武蔵国の守護代に任命し、忠景を執事職から一時はずすべきです」

顕定は聞く耳を持たない。ならばと道灌はつづけて訴えた。

「ならぬとおっしゃるなら大事に至らぬうちに景春を討つべきです」

ところが、顕定も、定正も、目の前に降りかかる火の粉を振り払うのが先決で、それどころではなかった。降りかかる火の粉が対峙中の古河公方足利成氏である。上杉憲実が永寿王のときに殺していれば、こんなことにはなっていなかったわけだ。顕定は道灌の諫言に取り合わず、定正も口添えを怠ったために、結果として景春は三年という反乱の準備期間を得てしまった。

そのとき、道灌はどうしたかというと、出家して道灌を号した。江戸城で歌合に興じて、気を紛らわせる毎日を送った。早いうちに手を打てば反乱を未然に防げるのに諫言が受け容れられず、さりとてまだ反乱を起していない景春を討つこともならず、道灌は抗議の意をこめて出家を決意したのだった》

          

 秦野裁判長がいいました。

「道灌の気持ちもわからぬではないが、それでよかったのかな。ほかに何か手段はなかったのかな?」

 長井検事が答えました。

「私がいいたいのは、肝腎なときに武家が出家したら、問題を深刻にするだけだということです」

「しからば、どうしたらよいのかな?」

「返事は、もう少し、待ってください」

 長井検事はわけあり顔で猶予を請い、論述をつづけました。

          

 やらなければやられるという下剋上の逃れがたき宿命

《三年後の文明八(一四七六)年六月、道灌が駿河国今川氏の内紛の鎮定と跡目相続争いの調停に出向いている留守をねらって景春が反乱を起した。翌文明九年正月になると、景春は五十子の陣地を襲って顕定と定正の軍勢を撃破、反乱軍に味方する国人が続出して両上杉氏は危機的状況に陥った。豊島氏が景春方について扇谷上杉氏の河越城と江戸城を分断したため、道灌は早急に調停をまとめる必要に迫られた。道灌は急いで調停を済ませ、三月、直ちに景春討伐軍となって相模国に引き返し、溝呂木城(神奈川県厚木市)と小磯城を速攻で落とし、四月十日には反乱軍きっての猛者矢野兵庫助を武蔵国勝原で破り、三日後、平塚城に進出していた豊島泰明を追い散らして江古田(東京都豊島区)で討ち、石神井、練馬、小沢の各城を落とし、五月十日、景春の本隊を武蔵国用土原に撃破、鉢形城(埼玉県寄居町)に押し戻した。ところが、足利成氏が出陣して景春を応援したため、明けて文明十年、上杉顕定が成氏の和睦の提案に応じてしまった。かくして道灌は定正とともに河越城に戻るほかなくなった。

しかし、戦火は再び盛り返して景春の乱の収束は文明十二年、古河公方成氏と両上杉当主顕定と定正の間で「都鄙合体(とひがったい)」とよばれる和睦が成立するまで三十年近くつづくことになり、争いに終止符が打たれたのは二年後の文明十四年だった。

そこに至るまでの道灌は、定正の名代で景春討伐軍総大将となって東は房総、北は上野国、西は相模国と東奔西走、合戦に明け暮れし、日野城を攻め落として景春が逃げて乱が終るまで三十余たび矛を交えて一度も負けたことがなかったといわれる。一連の合戦で道灌が採用した戦法は足軽戦法という斬新なものだった。従来だとまず弓矢の応酬に始まり、次いで大将が名乗りを挙げて一騎打ちで勝敗を決するのだが、太田道灌は一騎打ちに代えて足軽隊を投入、大将の用兵で勝敗が決するかたちに改めた。以来、道灌の足軽戦法が全国的に広まり、その武名は現代にまで聞こえて隠れないものであるが、その最期は無残なものだった。

「扇谷殿は山内より分国が少なく、軍勢もわずかなれども、太田父子の善政を聞き及び。武功の者の集ること、その数を知らず」

これは『永享記』に記されていることだが、長尾景春の所領の半分しか持たなかった扇谷上杉家が武蔵国から相模国にかけての大部分を席巻してしまったのだから、本来なら定正は道灌に対して論功行賞を真っ先に行わないといけない。それなのに、顕定にいいように振りまわされて、そこまで気をまわさなかった。そのために、道灌は魔が差したか、定正への不満を書いた書状を上杉顕定の家来に送ってしまった。その因果応報を『関東管領記』は次のようにいっている。

「顕定重ねて密かに申し遣わしけるは、太田道灌はこれ自他ともに邪魔なり、早く計って討ちたまえ。この方には長尾父子を誅して騒動を鎮めそうろうべし、と申されしかば、定正、何の分別もなく、長尾父子を討ちそうらわば太田を誅しそうろうべし、このうえは互いに遺恨あるまじという」

口先だけで道灌を計って討てといっても不仲の相手がうんというはずがない。だから、顕定は家臣から入手した道灌の書状を謀反の証拠に用いたのである。そのような書状を悪賢い顕定の家来に送った道灌も迂闊というほかないが、顕定もまたあまりに人を用いる器量がなさすぎる。良禽は木を選ぶというが、持朝という先々代からごく短期間に主人が三人も代替わりしたために、道灌は選択しようがなかった。運命の文明十八(一四八六)年七月二十六日、定正は江戸城から糟屋館に道灌を呼び、風呂に入れて小口から出るところを家臣曽我兵庫に襲わせて一命を絶った。暗愚の主君定正は恩賞をもって報いるべき道灌に死を報い、陰で唆した顕定はその死を喜んだ

          

 逆もまた真なるか

 秦野裁判長が、長井検事を問い詰めました。

「結局、何がいいたい?」

「主君でない者が、その才能を生かすためには、下剋上をやるしかない、下剋上をやれなかったらやられるだけだ、ということです。道灌の教訓に学び、下剋上をやって生き残ったのが北条早雲です」

「昔は応仁の乱をもって戦国時代の始まりとしたのが、今は早雲の伊豆討ち入りをもって戦国時代とする、と、変わったそうじゃないか。こういうピンポイントの変更なら行われるわけだな」

「おっしゃる通りです。それはともかく、道灌の不幸は主持ちの家来であったことと主君にめぐまれなかったこと、さらには下剋上をやれる人ではなかったということに尽きます。ところが、下剋上を大々的にやりながら、いまだベールに隠れて知られていない女性がいるんです」

「女性? 秀吉ではなくて?」

「さあ、そこなんです。秀吉だと矛盾が多すぎますし、光秀は論外。家康は情報が不完全でしたから身の安全を確保するのが精一杯で、初動が遅れました。すると、本能寺事件の首謀者は大政所と秀長しかいないことになります。私は天下取るおっかさんと呼んでいますが」

「そりゃあ、大胆だなあ。しかし、目から鱗が落ちるなあ」

「百姓がいくさの仕方を覚えたからといって所詮は足軽にすぎません。足軽を三十万集めても道灌のような名将を得なければ烏合の衆に終わってしまいます。蓮悟は職業軍人の傑物を相手にしたことがなかったから、朝倉宗滴の一万の軍勢に三十万を全滅させられてしまいました。宗滴は一万の兵を率い闇夜をベールにして九頭竜川を渡河して、いきなり襲いかかって加賀一向一揆の農兵を蹂躙しつくしたわけです。倶利伽羅峠の合戦、河越夜いくさと並ぶ大勝利です。ついでにいってしまうと、桶狭間の合戦はゲリラ豪雨がそれらの合戦における闇夜の代わりというか、それ以上の絶妙の役割を果たしたわけです」

「呆気なく種明かしするものだなあ」

「日本史にナゾなどないという一つの証明です」

「まあ、よかろう。問題は、本能寺事件は大政所と秀長がやったという証拠だな。次回はそっちも種明かしするんだろ」

「早く関ヶ原にたどりつかないと傍聴席に空席が目立ってきましたからね」

「証拠を省くわけいかんから、それはしようがないわな」

 かくして、本日も中途で閉廷です。すみません


(つづく)





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