本日も秦野裁判長の訴訟指揮で公判が始まりました。
「秀秋が次に予測したのが、三成の挙兵だ。三成は秀吉存命の頃から家康を殺そうとしてきたのだから、家康がヘゲモニーを握ったとなると、どんなによくても日陰の身である。それが佐和山城逼塞というかたちで現実になった。虚栄心の強い男だから、そこに甘んじておとなしく保身を図るわけがない。いずれ何か起死回生策を打ち出すだろう。会津討伐は親家康派の大名を集めるためのコマセだから、以上のシチュエーションを考えたら、会津討伐軍にのこのこついて行く必要はない。大谷吉継は秀秋ほどの確信は持てなかったし、三成の息子を同道する約束になっておったから、一応、いくさ仕立てで垂井宿まできた。前田利長と秀秋は確信犯的に初動を遅らせたわけだ。まず、吉継だが、垂井に着陣したところで三成に佐和山城に呼びつけられ、挙兵計画を告げられて一度は拒絶して去った。しかし、どう考えても理解できない」
「三成って、こんなにばかだったのかな、そう思ったでしょうね。なぜなら、挙兵する理由というか、大義名分がないわけですから」
長井検事が解説を加えました。
「バカではないのだろうが、挙兵の理由がないことだけは確かだ。既存の日本史の考証はそこからして狂いが生じている。事実に忠実だと『三成賊軍』になってしまうのだから、裏づけだけでもフェアに確認してほしい。要するに三成が吉継を仲間に誘う場面の描写は後世の史家のつくり話だから『三成の義侠心』などというブラックユーモアで穴埋めがついてしまう。『三成の義侠心』の根拠を出せといっても、だれも示せない。何かいおうものなら『官軍家康』という事実をひっくり返して『家康賊軍』という大前提を証明しなければならなくなるからな。自分たちのバカを棚上げしてこいつらバカだからわからないだろうと頬かむりしてメインストリートを素通りしてきたわけだ」
「相変わらず辛らつなお言葉ですね」
「人を見下した姿勢で『冒涜呼ばわり』したり、バカにするよりましだろう」
「確かに。いえてます」
長井検事が苦笑して同意しました。
「そこで、表題の『姫路城はオッケーだったのに、秀秋が伏見城から追い出された理由』に審理を進めさせていただきますが、伏見城には最初から鳥居元忠が入ったわけではなくて、木下家定が城代で、子の勝俊が親父に代わって入っていました。鳥居元忠が入って居座るには、勝俊を追い出さないといけないんですね」
「それが事実としたら当然だが、本当かね」
「元忠は家康が竹千代といって今川義元の人質だったときから近侍して、生涯お側去らずの家臣ですから、それが伏見城に入るということは二重の意味で重大なんですね。家康からいい出せることではありませんから、元忠の発案とみなすのが自然です」
「家臣というより親友以上の分身なんだな」
「そうなんです。鳥居元忠が残ったというより、家康が残ったと考えたほうがわかりやすいので、そういうかたちで検証を進めます」
「よろしい」
「三成の画策に『官軍』のお墨付きを与えないようにするには、大坂城と佐和山城の行き来を遮断しなければなりません。家康ならそう考えるでしょう。三成がそのつもりで画策するとしたら、真っ先に伏見城が攻撃目標になります。ここで食い止められたらしめたもの。しかし、裁判長のお言葉ではありませんが、三成の側からしたら、そうはイカキンですよ。ですから、元忠は捨て身で目的完遂を決意したわけです。これはおれにしかわからないし、やれることではないという強烈な自負があったでしょう。後になって元忠の自負心に勇猛心を掻き立てられて、なんだ、まだ目的は完遂されていないじゃないかと気づいた男が最低でも一人存在します」
「まさか、秀秋というわけじゃあるまいな」
「それではお手盛りの見本になってしまいますよ」
長井検事が笑って答えました。
「秀秋である可能性は否定しませんが、裏づけがありません。京極高次が居城の大津城を『第二の伏見城』として大坂城と佐和山城を分断するという目的の総仕上げをいたしました」
「おっ」
秦野裁判長が瞳を輝かせました。
「そっちへ行くのかよ。驚いたなあ。そうか、そうか、そうなのかよ。なんだ、まだ目的は完遂されていないじゃないか、そう思わなければ、高次といえども、ああは捨て身にはなれなかったろう。偉いやっちゃ」
「裁判長がそんなふうに一方にばかり感心してはまずいのではないでしょうか」
長井検事はフェアであろうとして裁判長に意見したのだと思いますが、秦野裁判長は意にも介しません。
「偉いから偉い、どっち側であろうと事実を正しく評価する。三成の側から評価すべき事実が提示されたら同じように『偉いやっちゃ』と褒める。だが、だれも事実を示さないし、三成が正義感であるという事実も、三成の側が政権として正統であるという根拠を示さない。褒めようがないんだよ。肩入れしようにもしようがない。どうすりゃいいんだ」
「そういうことをいっているときりがなくなりますから、家康と木下一族に目を向けると、どういうことになりますか」
長井検事が秦野裁判長を誘導しにかかりました。
キャスチングボードは常に家康が握っていた
秦野裁判長は長井検事の質問に素直に答えました。
「家康としては政かか人脈というか木下一族は危険な目に遭わせたくなかったわけだよ。過保護なくらいに修羅場から遠ざけている。利用できる相手はことごとく利用しにかかった三成とはえらい違いだな。家康にはいつも余裕があった。さりとて、家康の過保護に甘んじる木下一族かどうかというと、これまた違った。基本的な認識はそういうこっちゃ」
「同感です。おっしゃるように、家康は『政かか人脈』のうちでも木下家定の子の扱いに関してことのほか慎重を期した節があります」
「木下一族には決して手を借りない、危ない目には遭わせない、そういう強い意思が感じられるな。秀秋が姫路城に入る分には安全だからよい。しかし、伏見城は駄目だということだよ。それは結果が示す通りだ」
「家康は木下一族を過保護なくらい修羅場から遠ざけ、三成は利用できる相手はことごとく利用しにかかったという切り口はなかなかいいですね。三成は罪人ですから単独では何もできなかったわけです。そのよい例が家康の水口城下の通過をみすみす傍観したことです」
長井検事はそう前置きしてつぎのように陳述しました。
家康の会津下向の予定はなぜか三成に筒抜けになっていた。石部宿から鈴鹿峠への登り口土山宿まで五里ほど、その中間に名束正家のいる水口城下があった。家康はそこで正家の饗応を受けることになっていた。一方で、三成は隅東権六を家康のもとに使いにやり、嫡男重家を会津討伐軍に参加させる許しを求めた。家康は偽りと知りつつ重家の参陣を許した。
家康が水口城で正家の饗応を受けるという情報をキャッチして、島左近勝猛が三成に訴えた。
「内府は今宵は石部に泊まり、明日は水口ですごすとのことにござります。やるなら今、明晩を期して水口の館に夜討ちをかければ、相手はわずかに三千、寝込みを襲えばわけなく内府の首を挙げられます」
しかし、三成は、
「大蔵少輔(名束正家)とかねて打ち合わせのあることでもあり、彼が機会をとらえて謀を行うであろう。当方から兵を差し向けるには及ばない」
と、煮え切らない。
島左近は地団駄を踏んで悔しがり、結局、独断で兵を率いて水口に駆けつけるのだが、遅かった。なぜ、手遅れになったのかというと、家康の水口滞在は最初からブラフだったためである。
左近が襲撃しようとした当日、家康は水口城下にさしかかると、急に駕籠を乗り換え、野営の準備をする味方を置き去りにして、宵闇に紛れて遁走した。供は走り衆と呼ばれる護衛がわずかに二十人。近くに屯する護衛の旗本さえ出し抜けを食うほど突然の行動だった。
一方、時系列物差しを少し過去に戻すと、家康が石部宿に滞在した晩、名束正家は水口城から二里半もやってきて、水口城下での饗応を願い出た。謀をする者は相手の謀にかかりやすいという。家康はわざと気づかないふりをして、三成が動くかどうか反応を見る機会として利用したわけである。
果たして、三成は動かなかった。
なぜなら、家康だけ殺しても、加藤清正、福島正則ら七将が存在するかぎり、三成の生存は保証されない。むしろ、七将の殺意を確固不動にしかねない。当時の三成はそれくらい追い詰められていた。
電撃的な遁走劇をしたにもかかわらず、それ以後、東海道を下る家康の行程はひどくのんびりしたものになっていく。三成が家康と福島正則らの合流を待ちうけているとわかったからには、時間を稼ぐためにもゆっくり行く必要が生じたからである。
三成が家康の水口城下通過をみすみす傍観した事実には、それほど重大な意味合いが秘められていた。
長井検事が論述を終えると、秦野裁判長はいいました。
「家康には三成の気持ちも、置かれた立場も、よくわかっていた。なおかつ、それに間違いないかどうか、機会あるごとに反応を確かめている。最初から余裕があるんだな。土山への遁走劇の場合は万一の保険で、本気ではなかった。そのほか、検察官の論述にはまったく同感だ」
早速、長井検事が秦野裁判長に質問しました。
「秀秋の目には、以上のような家康の行動が、どのように見えたのでしょうか」
「何も見えていないのは現代の史家だけだよ。七将に追い詰められて屋敷に逃げ込んできた三成を殺さなかった家康、水口城下を襲えば殺すことができたのに見逃した三成、この厳然たる二つの事実に語らせれば、家康と三成の望みは東西決戦にあるのは明らかだ。この点だけが宿敵の二人の間に見受けられた唯一の一致点だった。優秀な秀秋にこうした二人の本音が読めないはずがない。だから、姫路城はおとなしく兄貴の反対に従ったが、その兄貴が本丸に居座る伏見城には何としても入城したい。これまでの扱いから推して政かか人脈のうちでも木下家定と子らの扱いに関して家康はことのほか慎重を期しているのは明らかだ。しかし、木下一族がそれに甘んじるかといったら、それは違うぞという、木下家定・秀秋父子としてはそのぐらいの心意気を示したいところだ」
「なるほど、確かに」
「ところが、家康の気持ちで動く鳥居元忠にしてみれば、勝俊が居残るのでさえとんでもないことなのに、家定・秀秋父子まで迎えるわけがない。両者のやり取りはわからないが、結果とし家定・秀秋の入城を拒んだばかりか、勝俊まで追い出してしまった。木下父子も自分たちが家康側の人間であるというだけで、家康本人としては十分なのだと理解した。だから、勝俊の退城まですんなり決まってしまった」
「鳥居元忠は家康に伏見城の留守居を頼まれた島津義弘さえ拒みました。少しやりすぎではないでしょうか」
「家康が頼んだとき、鳥居元忠は会津へ同行することになっていた。勝俊を追い出した後に入る者が必要だった。島津義弘なら文句のつけようがない。ところが、急に元忠が入るといいだした。と、なると、義弘を入れる必要はなくなってくる」
「なるほど、なるほど……」
長井検事が感心すると、これでもかという感じで秦野裁判長は言葉に力を込めていいました。
「関ヶ原合戦くらい時系列的錯乱が放置されてきた事案もめずらしい。犯罪捜査ではあり得ない勘違いのオンパレードなんだな。実はわしがこの裁判の裁判長を進んで引き受けた理由はそこにある。たとえば、秀忠の遅れだが、家康が怒ったのは遅参したからではなくて、真田を放置して江戸を無防備にしたことなんだよ。考えてもみろよ。真田を放置したまま関ヶ原に急いで駆けつけるのと、真田を包囲して江戸へ攻勢に出られないようにするのと、どちらが大事か。時系列的に考えれば、秀忠が江戸を発向するのが八月二十五日、三成が東西決戦の場を関ヶ原に決するのは八月二十六日から九月一日まで彼が所在不明になったときなのだから、家康が秀忠に期待するのがどちらかは、時系列さえ間違わずに考えれば間違うわけがないんだ」
「そうなんですよ。関ヶ原が東西決戦の場に決定するのはいつのことだったのかというと、笹尾山の三成の陣城構築と塹壕に残された五門の大砲が物語る通りなんですが、これまでその事実に言及した書籍にはお目にかかったことがありません」
「そのことは、別の機会にとことん詰めておきたい問題だな」
秦野裁判長は前向きに応じて、さらに付け加えました。
「これまでの日本史の最大の問題点は、犯罪捜査法に比べると、方法論が皆無に近いくらい確立されておらんことだ。そんなことではいかんだろうから、犯罪捜査法を当て嵌めるとどういうことになるか、一度、やってみたかった」
「是非、お願いします」
「今日のところは約束するだけでよいだろう。本日は閉廷」
