ご破算で願いましては……。
関ヶ原合戦を一から見直そうということになりました。
ここからは関ヶ原合戦を関ヶ原に限定した虫の眼で見ていくわけですが、東西両軍の決戦場がどういういきさつで関ヶ原に決まったのか、そのことはこれまでの審理でおわかりいただけたと思います。
秦野裁判長が席について開廷を宣言して次のようにいいました。
「いろいろと気づかされることが多くて、いまさらながら未整理のカテゴリーが目白押しの関ヶ原合戦に驚かされるのだが、明治維新は家康を悪者にしたい、徳川幕府は秀秋をなるべく暗愚にしておきたい、かくして秀秋に味方する者もなく、秀秋は本人とは似ても似つかないまったくの別人にデッチ上げられた節がある。だから、関ヶ原合戦を一から見直すとなると、すべての史料を疑ってかからなければならん。信用できるのは事実のみ。ここをしっかり認識してかからんと、また同じことの繰り返しに終わってしまうだろう」
「適正手続きの遵守に尽きるといいたいところですが、適正手続きという考え方が日本史の考証サークルには存在しません。もちろん、資料主義は最低限の約束事で、そんなのは方法論というに値しません」
「さて、そこでだ」
秦野裁判長が強い意気込みを示してつづけました。
「関ヶ原が東西両軍の決戦の場と事前に知っていた人間だが、検察官、調べてくれたかな。事実で説明してくれんかな」
「ここに、まとめてきました」
秦野裁判長の求めに応じて長井検事が論述しました。
関ヶ原が東西両軍の決戦場であることを最初に知る立場にあったのが、そのように仕向けた家康と笹尾山で事前工作を行った三成である。次は三成が行った笹尾山の事前工作を発見した藤堂高虎である。高虎から家康へ報告が届いて、それを秀秋に伝えた黒田長政、そして連絡を受けて松尾山を占拠した小早川秀秋……。
問題は藤川台に九月二日から陣地を構えて動かなかった大谷吉継と十四日夜半ないし十五日未明に吉継の陣地正面に陣取っていた京極高知である。高知のことはわからないが、吉継の場合は誰かが伝えて知っていた事実は否定しようがない。吉継にそれを伝えられる立場にあるのは家康、三成、高虎、長政、秀秋、高知であるが、時系列から判断して長政、秀秋、高知の三人は除外される。残った家康、三成、高虎の三人のうちの誰かとなると戦後になって藤川台に吉継の墓を造った藤堂高虎である公算が大きい。
過去に二人の関係を探ると、藤堂高虎と島左近勝猛は大和大納言(秀長)家の家老であった。秀吉が秀長に養子の仙丸(高吉)を廃嫡して、姉智子の子秀保を養嗣子にするよう迫ったとき、吉継が三成の名代として仲介、秀吉の無理押しは如何ともすることができなかったが、仙丸を高虎の養子にすることで一命を救った。仙丸は二人の恩人高虎と吉継から一字をもらって「高吉」を名乗ったいきさつがある。島勝猛も吉継に四男の清正を託している。こうした過去の関係が傍証となって、関ヶ原が東西両軍の決戦の場となったことを吉継に伝えたのは高虎であるとほぼ断定するに至った。
残す問題は吉継が布陣したのが藤川台だということ……。
吉継に東西両軍の決戦場が関ヶ原に決まったと教えた人間は松尾山に秀秋がくることを知っていて、「直下の藤川台が激戦地となり、見事、死に花を咲かせるにふさわしい」と、このように判断したのだとすると、最早、高虎以外ではあり得なくなる。
あるいはまた、藤川台は大垣城と佐和山城を遮断し、三成を関ヶ原に封じ込める栓の役割を果たし、さらには秀秋の松尾山占拠の妨害を防ぐ意味を持つ。こう考えると、高虎以外に該当する人物はいなくなってしまう。
吉継が隠れ東軍であったことが、ようやく証拠立てられた
以下は第6回日本史エンタメ講座からの引用である。
二木謙一著『関ヶ原合戦』は次のように述べる。
《北陸へ向かった高次は、いまだ着陣しないうちに、前田利長が山口宗永の加賀大聖寺城を攻略して、金沢に軍を返したという報に接した。この時西軍の北陸方面指揮官大谷吉継は、いまや岐阜城を降して赤坂付近に集結しはじめているという東軍に備えるため、美濃方面に転出しようとして、高次にも同行を求めた。
そこで高次は、吉継より一日行程だけ遅れて従い、九月二日の夜、朽木元綱が近江の木之本に宿泊した時には、高次は東野にいた。そして翌三日には元綱との打ち合わせ時間どおりに出発して美濃へ向かった。だが、高次は途中で方向を変え、近江の塩津に出て垂見峠を越え、海津から琵琶湖を渡って、同日のうちに大津へ帰り、密書を井伊直政に送って、西軍を大津で阻止することを告げ、防戦体制をとったのである》
吉継と一緒に軍事行動を取る京極高次は井伊直政、脇坂安治は藤堂高虎が連絡を取り合ったわけであるが、吉継当人には誰が交渉を持ったのだろうか。直政か高虎のどちらかだとしたら、断然、高虎である。高次が吉継より「一日行程だけ遅れて関ヶ原に向かった」という事実に答えが隠されている。直政が吉継と高次を一人で説得したとすると、高次が「一日行程だけ遅れて関ヶ原に向かう」のは不可能なのである。当然のことながら、吉継を先行させるのが絶対必要条件なのだが、直政が吉継を先に関ヶ原に向かわせてから高次を説きにかかったら遅きに失して「一日行程の遅れ」ではすまなくなってしまう。逆に早すぎれば吉継に追い討ちをかけられる。だから、高次説得の担当が直政、吉継は高虎としないと成り立たないことなのである。結局、一日行程の差は吉継次第なのであるから、吉継が関ヶ原へ発向するのを待って一日遅れて離脱すればよいわけだ。
当たり前のことだが、高次が行程一日ずらすということは、高虎の吉継に対する働きかけが不調に終ったことを意味するもので、そこに重大な意義があるわけである。では、交渉の開始はいつかといえば、吉継が北ノ庄城で加賀金沢城の前田利長を牽制しているときであり、家康が利長に再度の出陣を求めた八月十日以後だろう。本書が前提とする吉継・高虎親友説に従えば、交渉の内容は敦賀城に引返して養生専一にして利長の軍勢をすんなり通してもらえないか、という調略と思いやりから発した内容だったと思う。
吉継はそれを明快に拒否した。しかし、三成が大垣へ来会を求めてくる二十四日まで二週間もある。高虎ほどの者が親友のため簡単に引き下がるはずがない。高吉なり高刑なりを派遣して口説き落としにかかったはずである。
それでも吉継の返事は「ノー」だ。
高刑は懸命に説く。
「高虎が心底思って勧めるのに、治部少に何の義理があって」
「覚悟を決したからには問答無用じゃ」
どこまでも噛みあわずに押し問答を繰り返すところへ、三成から西軍本隊に合流するようにとの軍令状が届いた。二十六日あたりと思う。月末近くになって追いかけるように藤堂高吉がきた。状況が変わったからである。
「笹尾山にかくかくしかじかの工作が行われたからには決戦の舞台は関ヶ原、事前に発見したからには西軍に勝ち目はありませぬ。どうか、敦賀城にて養生専一に願わしゅうござります」
恐らくこのような内容のことをいったであろう。
おのれのせいで運命を一変させた(大和大納言家養嗣子仙丸の廃嫡)高吉を迎えて、贖罪のつもりで吉継は初めて本心を語り始めた。
一、敦賀城主としての地位にいささかも未練を持ち合わせない
一、長生きできぬからには武将らしく戦場で死にたい
一、ただし、本多政重だけは何としても助けたい
一、そのためにも西軍に属して宇喜多隊に合流しなければならない
以上の内容が語られたはずである。
こうしたシチュエーションを掘り起こすのがジグソーパズル式考証法の真骨頂なのである。吉継が敦賀城に引き返すのは八月三十一日から九月一日までの間だろうから、高吉に与えられた説得の時間はほとんどない。だから、高吉は即断するほかなかったに違いない。
高吉は笹尾山の土木普請を三成の仕業と見届けたうえできた。吉継を藤川台に布陣させておけばおのずと西軍の配置は決定する。すなわち、宇喜多秀家は天満山あたり、他は天満山と笹尾山の中間に布陣するしかなくなる。間に余分な兵力が入らず大谷陣と宇喜多陣は隣り合う恰好になる。政重と吉継が連絡を取り合うのにこれほど都合のよい配置はない。脇坂らは大谷陣と松尾山の間に布陣させれば連携の邪魔にならない。高吉は脇坂らにそれを指図できる立場にあるのである。
高吉は高次を無事に大津城へ入れるためにも吉継を関ヶ原に向かわせるほかないと思った。
だが、藤川台は関ヶ原で最も激しい戦闘が予想される。それが難点なのだが、だれよりも吉継本人がそれを望むのである。
と、なると、答えは一つしかない。
「藤川台に布陣なされてはいかがでしょうか。そのうえで政重殿にいざとなったら刑部様に合流なさるよういい含めていただければ、それがしなり高刑が必ず政重殿の身の安全を確保します」
高吉は迷わず言明した。
政重の身の安全が確保できたうえに、おのれは存分に戦って武将として華々しく討死を遂げることができる。敦賀城と身の安全を保証されたところでもうじき病人として醜い屍を衆人にさらすほかない。吉継としてはどちらがよいかはあらためて問うまでもないことであった。高吉は吉継のそうした望みを的確に読み取った。吉継は高吉の成長を確かめた思いで目頭を熱くした。
「まこと、かたじけなし。あとはよしなに……」
九月一日、吉継は関ヶ原藤川台を目指して死出の旅に向かった。
京極高次はわざと一日遅らせて東野に移動した。脇坂安治もまた高吉に吉継の陣の天満山側には決して布陣してはならないと厳しくいい含められて、やはり一日遅れて発向した。
こうして舞台はようやく北陸から関ヶ原に移って役者が配置についたのである。
秦野裁判長が長井検事の論述を受けて声を一段と張り上げました。
「大谷吉継は隠れ東軍だったと認めてよかろう」
あまりに唐突だったのか、陪審員は呆気に取られています。
「陪審員諸君に反論があれば、本日にかぎらず、いつにても受け付けます。裁判というても勝ち負けは問題ではありません。考証の精度をレベルアップさせるのが目的なのですから、積極的に反論・反証に務めていただきたい。反論・反証はありませんか」
事実を踏まえた議論になれないせいか、みんな黙ったきり口を開こうともしません。
「急ぐことはありません。本日はこれで閉廷しますから、よく考えて意見をまとめてきてください。閉廷……」
