掘り起こせば、日本史のあらはいくらでも見つけられますが、そんなことは時間に解決させればよいことで、いよいよ結審となった以上、これだけは言及しておかないと家康の名誉にかかわるという大事な点に触れてから、第七回エンタメ講座の幕引きとさせていただきます。
秦野裁判長が入廷して開廷を宣言しました。
「戦国時代の最も大事なことが、いくさのない世の中にするということだった。そういう点では織田信長は途上、大政所と秀長も途上、秀吉・三成などは対象外、家康の代になって、ようやくいくさがなくなった。ところが、それで終わりじゃない。ようやくスタート台にたどりついたばかりだ」
「そういう認識に立たないと戦国時代を読み誤ります」
「そこでだ。張良、蕭何を帷幄にした劉邦が、なにゆえ前漢最大の功労者韓信を逆下剋上して破滅に追いやったか、この難問を解いてもらわないことには結審するわけにはいかんだろうと思う。長井検察官、やってくれるか」
「承知しました」
長井検事が起立して論述を始めました。
既存の考え方だと、項羽と戦って勝った韓信が天下を治めてもおかしくはない。しかし、劉邦は張良を軍師に持ち、粛何に治世の才を見出していた。それゆえに劉邦は韓信を逆下剋上して前漢の全盛時代を現出させた。実に非情の極みである。
日本ではどうかというと、加賀国で百姓が百年間の長きにわたって国主の座を占めた時期があった。加賀一向一揆という集団支配である。これは極端すぎて四分五裂を繰り返し、結局は織田信長に滅ぼされてしまった。
しかし、この歴史が「百姓でも天下を取れる」という考えを世の中に広めた。結果が目的の法則でいうと、これをやってのけたのが、木下仲である。のちの大政所すなわち「天下取るおっかさん」である。
どうしたら百姓女に天下が取れるか。
天下人の器を持つ子を産み、育てればよい。そして、天魔鬼神の生まれ変わりともいうべき織田信長に寄生して、宿木となって、幹に寄生して、時きたるとき、幹を枯らしてしまえばよい。百姓が天下を取って治めるにはそれしかなかった。
しからば、天下人の器を持つ子とはだれか。
破天荒ともいうべき十年以上も前から戦闘要員の練成を行った待ち受け戦「桶狭間合戦」の準備が進むさなか、のこのこと今川家を訪問して松下嘉兵衛に奉公するような状況オンチの藤吉郎であろうはずがない。藤吉郎とは父親を異にする小一郎秀長であろう。売名の徒「秀吉」、経歴詐称の記録『太閤記』などにいつまでも惑わされていてはいけない。もしも、『太閤記』の記録性を生かすなら、主人公を木下仲と小一郎、そしてお寧で置き換えなければならない。
「公儀のことは秀長居に諮り、家内のことはお寧に委ねよ」
すなわち、秀吉は名目的家長であっただけで、実際には戦力とみなされていなかったということだ。
細かい説明は省くが、大政所・小一郎が信長を陰で支え、すなわち宿木となって、幹を枯らす機会を待った。しかし、何もしないで待っても機会が向こうからきてくれるわけがない。そこで、明智光秀を陰で操ったという推測が成り立つ。推測に留まるのは明智光秀の研究を怠ってきたからである。
光秀には主殺しという評価しかないようだが、もっと思想的に根拠を持つ行動だったのではないかという気がする。今回、秀秋を切り口にして関ヶ原合戦を研究したように、いつか「光秀の目で見た本能寺事変」を本講座のテーマに取り上げたいと思っている。
それはさておき、しからば何のための宿木であり、下剋上であったかといえば、信長がわざわざ朝廷に奏請して「天正」と改元し、儒学を修める者には補助金を出すとした「天正の治」を実現させるためであって、覇権が目的ではない。
しからば、なぜ、発案者の信長にやらせないのかというと、叡山焼打ち、長島一向一揆衆焚殺など、犬畜生の戦いに精神を病んだためではないだろうか。信長と韓信を重ねて考えると、劉邦が、項羽と戦いつづけてきた韓信を逆下剋上せざるを得なかった理由がよくわかる。
逆もまた真なりで、木下仲や明智光秀が信長を下剋上した理由も当然とうなずけるだろう。
それはさておき。
本来なら木下仲の大政所と秀長が「天正の治」を継承し、実現に努めるはずが、秀長・大政所の順に相次いで他界したのにつけ込み、秀吉がししゃり出て歴史の流れを停滞させてしまった。滞った流れを再び蘇らせたのが、すなわち関ヶ原合戦なのであり、家康へとようやく主導権が渡っていく。
と、なると、家康のやるべきことは、武士に刀を帯びさせたまま、いかにして抜かせずにおくか、この難問を解決することであった。そのためには世の中のことを考え、人を生かす治世と修養の学問体系を築く必要があり、そのことは近世儒学の祖といわれる藤原惺窩の学識を抜きにしては考えられなかった。家康は藤原惺窩に仕官を働きかけたのだが、彼は弟子の林羅山を推薦して応じなかった。
藤原惺窩がみずからの家康への仕官を断った理由として考えられるのが、彼が秀秋の兄・木下長嘯子と親交があったためである。秀秋は岡山藩に転封されたため宇喜多旧臣の復讐のため非業の死を遂げたとされていたのだから、仕官したくてもできなかった。しかし、必要と考えて林羅山を推薦したのである。
長井検事の論述が終わると、秦野裁判長がいいました。
「秀秋を恨みの坩堝と化した岡山藩に秀秋を転封するなどの策略を弄するのはまったく家康らしからぬ行いではあるが、脅威が大きく、邪魔されたくないことが、これからの世に欠くべからざるものとするなら、劉邦が韓信を破滅に追いやったごとく、秀秋を葬るひつようがあった。秀秋がそれほど俊秀だったということであろう。これにて、結審」
あっけない幕切れですが、五十年後、百年後の日本人に笑われないようにするためにも、もう少し日本史を丁寧に扱う必要があるように思います。
《ごあいさつ》
長い間、おつきあいくださいましてありがとうございました。いずれ、本能寺事変の再検証をしてみたいと思っておりますが、ここしばらくは幕末開国期の事実を展開していくことにします。
