長井検事の論述つづき。
これまでの記述は外圧に対する幕府の対応に的をしぼり、極力、時系列に沿って行ってきたが、これからはそうはいかない。欧米列強の動向は当然として、外交、財政問題、幕藩体制、身分制度、思想問題、科学技術、軍事などの各方面から多重クロス分析を加えていかないと、幕府の復古的迷走と開明的疾走が生み出す歴史上の渦巻きの真相が見えてこない。いきおい疑問点、不明な点を明らかにし、犯罪捜査の手法で多面的に記述せざるを得ない。読者も歴史探偵になったつもりで複雑を極める開国前夜の種々相に目を向けていただきたい。
さて、ところで、対外問題が小康状態を迎えると、家斉の人間性の本性がむき出しになり、将軍の個人的欲望が時代を支配するようになっていく。幕藩体制を維持するための方策に比重を置く政治が、将軍の欲望と大奥の奢侈を支えるだけの政治に一変するわけである。家斉の欲望に迎合して老中首座に就いた水野忠成のため、まず寛政の遺臣が君側から遠ざけられた。
身体強健で西の丸継嗣のときから漁色家であった家斉が将軍在位中に持った側妾の数は四十人――このすべてが時の老中首座水野忠成の計らいではないにせよ、ほとんどが寛政の遺臣が将軍の君側から一掃されてからのものだったから、その侫臣ぶりが察せられよう。
これまでまがりなりにも幕府の屋台骨を支えてきた寛政の遺臣たちを、家斉が忌避し排斥しようとする直接の原因になったのが谷中延命院事件であった。
時の寺社奉行は脇坂淡路守安董、聡明さと実直ぶりから「脇坂第一」といわれたほど学問好きで硬骨漢の外様大名であった。外様大名が幕府評定所の一員でもある寺社奉行に就任するのは極めて異例なことであり、幕政全般にまたがる事件・重要問題に裁決、決定を下す評定所の一員に連なることは譜代大名・旗本以外は政治向きの意見を述べてはならないとする「処士横議禁令」に十分抵触する恐れがあるにもかかわらず、そうした前代未聞の破格人事を断行したのがかつて幕藩体制による秩序回復のため血眼で寛政改革を進めた松平定信だったというのだから、裏に隠された意図があったとみなければならない。
当時、松平定信が最も苦々しく思ったのが将軍家斉の漁色癖であった。一方で地に堕ちた士風を嘆き刷新に奔命しても他方で頂点に立つ将軍が政治は老中に任せきりで房事にうつつをぬかしたのでは示しがつかない。ましてや、谷中延命院重職日道が大奥女中らと密通している節さえうかがえる。密かに探索して日道摘発にまで持っていき一罰百戒としたいのだが、大奥がからむだけに断行すれば報復の処罰は必至だからうかつに手を出せない。
自分が命じないでもそれを勝手にやってくれる硬骨漢、しかも都合がよいことに外様大名……。
果たして脇坂安董は定信が失脚したあとも内偵をつづけ、享和三(一八〇三)年、とうとう日道を摘発し死罪に処した。翌五年、脇坂安董は大奥の讒言により寺社奉行辞任に追い込まれた。
その後も寛政の遺老たちが家斉に節制を口うるさく説き、房事の回数まで制限した。やみがたいほど好きなことを無理やり抑えつけられたら、いつかどこかで爆発するほかない。水は低いところから高いところへは流れないものだ。将軍の家斉を水にたとえるならば、寛政の遺老は間違ったことをやってきたことになるわけで、水野忠成は高みから下る流れに素直に従ったことになる。
将軍は房事に励んでいればよい。御政道はひとつわれらの手で……。
媚態からは汚れた欲しか生まれない。
抽象化すると家斉治世後半の幕閣の構図がそれであった。
かくして放恣に振舞う自由を得た家斉はだれにも妨げられることなく将軍の役得のみを満喫し、四十人を数える側妾の間を夜な夜な渡り歩いた結果、将軍在位五十年のうちに五十五人もの子の父親になった。
「北海の鱈のごとし」
世の人々は呆れて家斉の艶福ぶりをこのように評した。しかし、鱈は一度に沢山の子を生むが、人間の場合は一度に一人だから、累計五十五人もの母親を相手にして孕ませるにはかなり精力を使う。午前中は御座の間に出て座っているのは紛れもなく家斉なのだが、昼間から今夜はだれを相手に選ぼうかと考えているのでは御政道から関心が遠のくのも無理はなく、そこにあるのは将軍の権威だけだった。側近は将軍の権威に磨きをかけることにひたすら努め、朝廷に働きかけて家斉を太政大臣の官位に就けた。人物、経験、実績すべてにおいて家斉などよりはるか雲の上にある徳川氏の氏祖家康でさえ存命中は太政大臣にならなかった。現職将軍としては神君をもしのいで位人臣を極めた家斉がすることといえば、大奥の酒池肉林で精力絶倫を誇るだけ。当然、治世の大権はますます侫臣の手に落ちていく。
御用取次の水野忠篤、小納戸頭取の美濃部茂育(もちなる)、若年寄の林忠英ら「三佞人」と呼ばれた忠成の腹心が表御殿で幅を利かせ、媚態政治、賄賂政治をほしいままにした。のちに老中首座に就任する肥前唐津藩主水野越前守が幕政に参画する足がかりを得ようとして忠成に賄賂を贈り始めたのはこの頃からであった。
「水の出てもとの田沼となりにける」
水野を「水の」と置き換えたのである。忠成の賄賂政治を風刺した川柳が世の嘆きをよく表している。ただし、田沼意次の賄賂は私的に流用されなかった。今度は本物の「袖の下」である。民衆にはそのへんの区別がついていなかった。
無能な人間が袖の下を使って幕府の要職に就いたとしても、田沼時代は意次・石谷清昌という幕政全般に通じた実力者コンビが独裁的に務めを果たしたから、彼らが横から口出しする余地がなく政治は横道にそれなかった。今度は独裁者そのものが最初から道を踏み外していたのだから最悪である。
ところで、鎖国日本は原則として自給自足経済だったが、例外的に不足した品目が二つあった。家康、秀忠、家光と代を重ねながら世の中が安定するにつれて、将軍継嗣を生む大奥の役割が重要視されるようになり、政治の中枢をつかさどる幕府を構成する一部門として政治の組織に組み込まれていった。こうして隠然とした勢力を持つようになった大奥が大量に消費する奢侈品が生糸と砂糖であった。
幕府が鎖国に踏み切った将軍家光の時代、生糸は清国、砂糖は琉球から輸入していた。生糸は享保年間に自給自足されたため以前どれほど輸入されていたかわからないが、幕末の国内生産量五十万斤を超えることはないにしてもかなりの量と額に達したと思う。大奥で消費される衣料贅沢品は江戸時代初期の元和六(一六二〇)年に二代将軍秀忠が東福門院として娘を朝廷に入れる際衣料だけで五千両も使ったという事実、あるいは公鋳銀貨の八割、公鋳金貨の一・三割が絹を含む輸入で国外に流出した事実から類推すれば、どれほど巨額にのぼったか察せられよう。砂糖については生活が華美でぜいたくになった元禄年間あたりから輸入に頼る外国産白砂糖が年間約二五〇斤、琉球、薩摩から買い付ける黒砂糖が約五〇〇斤、金額にして約五万両もが大奥を中心に消費されたという。幕府財政にとって大奥はまさに癌というほかなく、家斉の代に至って奢侈の規模は最大になった。
また、幕末史を考証するうえで念頭に置かなければならない重要な事柄は、大奥を抱えた幕府の財政状態の推移である。徳川家康が秀忠に残した遺産は金で約九十万両、銀が五万貫余、合計約百九十万両。秀忠から家光に渡った遺産は約二百五十万両。家光から家綱に渡った遺産はさらに増えていたといわれる。仮に相続額を三百万両とすると、家綱の時代に起きた振袖火事の復興でほぼ全額を吐き出してしまったという。振袖火事との比較からいっても、これからのち安政二年に江戸を襲った大地震の復興に幕府は莫大な資金を費やしたはずである。では江戸の復興を単独で成し遂げられるほど安政二年当時の財政事情が潤沢だったのかというと、これが実に難問なのである。なぜなら、これから述べる水野越前守忠邦の天保改革が失敗に終った時点でも幕府財政のどん底状態は改善されていなかったからだ。
ましてや、第一次ペリー来航を受けて着手した内海(品川)台場の築造に民間からの拠出金を合わせて二十九万三千両もの巨費を投じることになるのだから、拠出可能な財政事情にあったと見て差し支えない。それなのに、水野忠邦失脚以後安政大地震まで足掛け十二年の間に財政の立て直しに成功したという記録がない。疑問が疑問を生むとはこのことである。考証はいきおい歴史探偵よろしく犯罪捜査的にならざるを得ない。
まず、幕府の財政がどん底に陥った経緯から明らかにしておこう。
家斉治世の前半は寛政改革の遺臣がまだ側近を固めていたため一時的ながら黒字に転じ、非常用銀の蓄えが百八万両に達したほどである。ただし、蝦夷地経営の費用を奥州諸藩に負担させおいて俵物など収入になる物産は幕府が独り占めして長崎貿易で稼いだり、朝鮮通信使応接の費用として諸藩や民間から三十万両拠出させ支出十九万両との差額十一万両を懐に入れるなど、かなりいかがわしい方法で積み上げた余剰金であった。田沼時代より多くの蓄えを得たといっても意次のように画期的な計画に投資することもなく、極端な倹約政策で出費を抑え収入は他から掠め取る詐欺的錬金術に頼るだけだったから、生産的な仕組みは何一つ残らなかった。当然、家斉が入り浸りになった大奥の浪費を長くは賄い切れなかったばかりか、諸藩の不満を醸成する一方で、いずれ行き詰まるのは目に見えていた。
寛政の遺老が幕閣から姿を消すと詐欺的錬金術も行われなくなり、財政は黒字から赤字へ坂を転げるようにどん底に向かって沈み始めた。水野忠成らが家斉に対する媚態政治を展開した後半は、大奥の浪費がますますひどくなり、財政は傾く一方になった。こうした無為無策状態が忠成が老中首座在任のまま病死する天保五(一八三四)年二月二十八日までつづいた。忠成は病気になっても現職にしがみついたのである。
それに先立つ文政十三(一八三〇)年三月、阿波国で伊勢参りが「お蔭参り」と称して突発的に始まると、紀州、畿内、北陸、東海諸国にまたたく間に広がり、延べ四百万人の規模にまで膨らんだ。
お蔭でさ
するりとさ
抜けたとさ
こんな世の中するりと抜けてどこかよいところへ行きたいということだろうか。現在を末世と見限り神仏に願うほか希望が持てなくなって集団でうたいながら列をなして街道を行く民衆の群れは実に異様な眺めだったろう。こんな現象が突発するほど家斉とその取り巻きが行う治世は乱脈を極めたのである。
家斉が殊に魂を奪われたのが、下総中山法華寺智泉院の祈祷僧日啓の娘美代であった。日啓の娘美代を養女にして家斉の側妾に上げたのが旗本中野石翁である。美代の方への家斉の寵愛に乗じて中野石翁は権勢を高め、水野忠成の死後、独断的に振る舞い始めた。
「この人に頼みさえすれば叶わぬことはなく、この人の気に障ったならば即座に身の大事に至る」
これほど恐れられた中野石翁の向島別荘御殿には、役職と利権を求める「へつらい者」が長蛇の列をつくった。亡くなった水野忠成の跡を継いで老中首座に就いた松平康任も「へつらい者」の一人で、金で地位を買ったのである。
ともあれ、へつらい者の一人・松平康任が老中首座に就いたのだから当然のごとく名ばかりの存在でしかなかった。隠然と勢力を保ちながら陰で実質的に御政道を動かしたのが「三翁」である。
一人は御三卿の一家を絶家に導いた一橋治済、家斉の実父で号して穆翁。将軍職を経験したわけでもないのに大御所として別に大奥を持つ西の丸へ入ろうと画策するなど、子の家斉に遜色のない破廉恥漢であった。
二人目が家斉の正室茂子の父親で薩摩藩主だった島津重豪で、隠居すると同時に号して栄翁。重豪は「蘭癖」と呼ばれたほど蘭学に力を入れ、常に密貿易のうわさが絶えない貿易拡大主義者でもあった。時の趨勢で開国論が攘夷論に封殺されながらも命脈を保つことができたのは、外様でありながら将軍家正室の父親として幕閣に大きな発言権を持ったこの人のお陰である。だから、同じ三翁の一人でも穆翁あたりと同日には論じられない。
三人目が旗本から御側御用取次に成り上がった石翁であった。幕府の旗本が元御三卿一橋家の当主や外様雄藩の名門大名と肩を並べてしまったのだから、まさに前代未聞、驚天動地の出来事だった。
酒池肉林と化した大奥には亡国の公方、へつらい者が我が物顔で権勢をふるう江戸城、民衆の目に末世と映ったとしても不思議はない。
いつまでつづくぬかるみぞ。世直し明神は出ないものか。もう待ちくたびれた。出るなら早くとっとと現れてくれ。
世間の声なき声、阿吽の付託を一身に引き受け、家斉と刺し違える覚悟で老中に就任した人物がいた。
もっとも、刺し違えるといっても、脇差で切りつけるわけではない。家斉を抹殺したところで、のちに「そうせい公」と呼ばれる家慶が次期将軍となるだけで、老中任せの治世が繰り返されるだけである。それでは政変を演出するだけで終って意味がない。我が身が無事を得て治世を担当しつづける必要があるのだ。また我が身の無事を得ながら家斉を隠居させるのに成功したとしても、治世の妙策と財政再建策を持たなければ権力闘争で終ってしまう。
家斉の隠居は天保八(一八三七)年四月二日のことだが、西の丸は手狭で居心地が悪いという理由で強く抵抗している。これは資料に記されている。従って、家斉の隠居は本人の意思ではなく他から無理に押しつけられたものだ。歴代将軍中唯一現役で太政大臣に任官したばかりで意気盛んな家斉にだれが隠居を強制したのだろうか。臣下の分際で将軍に隠居を強要するなど不忠の極みである。恐らく末をよくしなかったろう。
こうした条件にことごとく該当するのはだれか。
ところが、手当たり次第に資料を漁っても、該当する人物はおろか、家斉の隠居をどのように実現させたか、方法手段に言及した記録が皆無なのである。実に面妖なことであるが、よくよく考えてみると現職の将軍を本人の意思を無視して隠居させるという大不忠を働いたのだから、その名はおろか事実の経過さえ記録されないのは当然なのである。
そうなると少ない資料では該当する人物を割り出すのは不可能である。経過が述べられていないのだからヒントとなる事実を寄せ集めるなり、当時の人間の発言をあちこちから掻き集めて、多重クロス分析を行って割り出すしかない。その作業に時間を費やすこと実に六年、ようやく該当する人物として資料データに浮上したのが「加州侯」の敬称で呼ばれた小田原藩主大久保加賀守忠真であった。
