阿部正弘と二宮金次郎を世に出すための遠大な計画


 長井検事の論述書のつづき。

          

 しかし、福山藩の内部事情もさることながら、伊勢守正弘と加州侯との接点が通常ではあり得ない経緯で生まれたことに注目する必要がある。複雑な因数分解はまだまだ始まったばかりである。

福山藩主となって幕府奏者番を拝命した伊勢守正弘に加州侯がいきなり与えた任務が、下総法華寺知泉院住職日啓摘発問題だった。当然、大奥がからんでくる。正弘は能面のように整って、上品な顔つきをしており、立ち居振る舞いも優雅で、大奥の下馬評でも最上の評価を得ていた。奥女中が歓迎する人事を行うことが、過去の経験から見て大奥対策に欠かせない重要な条件であった。

阿部正精の早すぎる老中辞任が持つ意味は、殿中と大奥の危険な大掃除を早くから視野に置いたものであり、幼少から神童といわれ、大奥に気に入られそうな容貌をしていた正弘を、世に出すべく準備されたものであったと判断するほかない。加州侯の嗣子忠愨(ただなお)は幼少から病弱で、大奥向きの条件を満たす男子がほかになかった。伊勢守父子二代にわたる加州侯との心の紐帯はかくも強力だった。

しかし、なぜ、そのようなまわりくどい準備をしてまで時間をかける必要があったのかというと、二つの理由が考えられる。一つは二宮金次郎が報徳仕法による実績を積む時間稼ぎを兼ねていたこと、もう一つが大奥から好感を持たれる可能性のある正弘の成長を待つこと。さらに踏み込んで推理すれば、正弘と金次郎を同時に登場させ、強力な改革体制を構築するという遠大な構想もあったのではないか。

ここで浪費する側の大奥の論理を紹介しよう。

寛政改革当時、上下に例外なく倹約政策を断行しようとした松平定信は、大奥に対する締めつけの第一弾として状箱、文箱に用いる紐が無用に長いので半分に縮めよと注文をつけた。

大奥上臈は次のように反論した。

「これは御寿命紐といって、大奥全体が御将軍家、御方様、御部屋様の長生きを願って、意識的に二尋の寸法に定めたもの。これを短くしろということは、上様の御寿命を縮めよと申されるのに等しい」

 表御殿の最高責任者のいうことを、あっさりはねつけるほど大奥の発言権は強かった。当然の帰結として、大奥にまで手をつけようとしたことが、定信失脚の一因になった。

 あとで述べる水野忠邦も天保改革で同様に煮え湯を飲まされた。

「人間には大欲望として男女の愛欲がある。大奥に勤める女は当然として持つ愛欲を断念せざるを得ないのだから、その欠如を、美衣美食で補うのもまた当然のこと。したがって、削減の対象とはならぬ」

 このように理論武装された奢侈だから、愛欲の禁を犯した証拠でもつかまないかぎり、真正面からの力技では歯が立たなかったのである。加州侯が日啓摘発に腐心したのはそのためだ。

さて、ところで、家斉の隠居は、あくまでも改革の前段にすぎず、究極の目的は幕府の財政立て直しである。家斉隠居は自分がやるほかなかったわけだが、大奥問題は、自分にも、農民出身の二宮金次郎にも、手のつけようのないことだけに、だれか別に適当な人物が必要だった。加州侯は正弘に大奥対策を期待し、世直しは二宮金次郎に付託する考えだったわけである。しかし、二宮金次郎の幕臣への取立てにどれほど長い期間が必要か、過去の似たような事例を参照すれば加州侯には自明のことであった。

享保改革の時代、大岡越前守忠相が、将軍吉宗の内意を受けて、改革の担い手として期待する川崎宿名主田中休愚を、代官に取り立てるために費やした手続と期間は並大抵ではなかった。休愚が享保六(一七二一)年に脱稿した経世書『民間省要』全十七巻は、儒者で、奥坊主の成島錦江の手を経て、大岡忠相、吉宗の順序でようやく上聞に達した。処士横議の禁令(譜代大名、直参旗本以外は政治向きに言及できないという掟)に抵触しないよう配慮したのである。また休愚を代官に取り立てるため、町奉行の忠相に地方御用取扱掛を兼任させてまで、手続を踏ませた。公事方を担当する町奉行が、農政を担当する地方御用取扱掛を兼ねるのは前例のないことであり、しかも忠相は、農政についてはまったくの素人である。将軍の腹心と目される忠相に、人事上の手続を踏ませ、吉宗の強い意向が働いていると匂わせても、休愚を御普請御用十人扶持の身分にするまで二年、代官に就任させるのに六年を要した。その間、忠相が人事当局者にいくたびも掛け合っているのに、である。田中休愚が支配勘定格として代官に就任したのは、享保十四年、実に六十八歳のときであった。

こうした先例に照らして考えれば、阿部正弘の幕閣入りと、二宮金次郎の幕臣登用に、長い年月をかけたとしても少しも迂遠ではなかった。田中休愚に対する大岡忠相のような役割を、金次郎に対して、正弘に担わせる意図があったとすると、加州侯と阿部正精は、家斉を隠居に追い込む目算が立つまで、少しも急ぐ必要はなかったのである。

以上が複雑な因数分解によって得られた答えである。

ところで、「加州侯の大義」の前段は、見事な手際で行われたが、まだ核心部分が残っている。それは行われたのだろうか。行われたとしたら、どのような方法で、めざすものは何だったのか。

加州侯なしに「大義」はどのように行われたのだろうか。

 これがまた難問であった。阿部正弘は、大奥対策に専念していて手がまわらない。二宮金次郎は、加州侯の急死で、幕臣に登用される道を閉ざされたままである。ならば、天保改革で知られる老中首座水野越前守忠邦が、代わってやったのだろうか。

答えは「ノー」である。

 大塩平八郎が、加州侯の重体の報に接すると、たちまち無謀というほかない反乱の挙に出たのは、当時、広く世間に水野忠邦の老中首座就任が取り沙汰され始めたからであった。

加州侯がまだ存命であった頃、筆頭勘定奉行矢部定謙が、財政立て直しに当たり、大塩平八郎や二宮金次郎の登用にも熱心だった。野に下っていた大塩平八郎を加州侯に推挙して、幕政に復帰する寸前にまで橋渡しをしたのが、時の勘定奉行矢部定謙その人だったのである。

 家斉の乱脈政治に絶望し、幕府の政治腐敗に嫌気がさして、いったんは大坂東町奉行所吟味役の職を辞し、私塾洗心洞を開いて、門弟に講義していた大塩平八郎でありながら、再び里心を起こして幕政への復帰を決意したのは、加州侯の治世に期待したのと、矢部定謙に対する信頼が深かったからで、吟味役在職中に内偵を進めた老中水野忠邦・東町奉行跡部良弼兄弟の不正を糾弾したい一心からでもあった。

 天明の相次ぐ飢饉は、規模としても、深刻さにおいても、天明の大飢饉に次ぐもので、津軽藩では一年に四万五千人もの餓死者を出した。物資集散地の大坂はかつて経験したことのない米不足に陥った。当然、大坂からの廻米に依存する江戸の不足は、もっと深刻だった。老中水野忠邦が家斉の歓心を買うことに努めるさなか、実弟跡部良弼が兄の立場をよくしようとして、ただでさえ払底する米を、江戸へ優先してまわさせたため、大坂一円は米騒動のあらしに見舞われた。

 大方の史家が指摘するように、忠邦・良弼兄弟の政を私する行いに強く抗議する意図も反乱の一因ではあろうが、数少ない史家が唱える決定的な原因は加州侯の腹心となって矢部定謙とともに「世直し」政治に参画する機会が失われたためであり、早くも水野忠邦の老中首座就任が取り沙汰されて、「加州侯の改革」の後退が予想されたからであった。大塩平八郎の反乱ほど、他の有志の言葉以上に、加州侯の死を惜しむ気持ちを表すものはなかった。

一方の矢部定謙については、多くの史家が「歴代江戸町奉行中出色の傑物」として、大岡越前守忠相以上に高く評価する傑物で、加州侯亡きあとは水野忠邦の下で南町奉行を務め、民衆の側に立って「遠山の金さん」こと北町奉行遠山金四郎景元とスクラムを組み、百姓・町民イジメの改革手法に盾突いた。民衆はそれにやんやの喝采を送ったのである。結局、水野忠邦ににらまれて末をよくしなかったため、後世に名が伝わらなかったのだが、その人物識見、実力とも、かつては忠邦自身が改革の中枢に望んだほど傑出していた。それなのに矢部定謙が水野忠邦を忌避したのは、大塩平八郎から彼ら兄弟の不正の一部始終を耳に入れていたためであった。

水野忠邦が、矢部定謙の起用を断念して、代わりに重用したのが鳥居耀蔵である。鳥居耀蔵はだれもが嫌がった大塩平八郎の沙汰書作成をやってのけ、それだけで水越侯に認められた男だ。鳥居耀蔵は矢部定謙と大塩平八郎の関係を殊更に強調し、冤罪をデッチ上げて、ライバルを獄に陥れた。これが矢部定謙疑獄である。

 蛮社の獄については、あらためて説明する必要としないだろう。ただし、鳥居耀蔵が国学の泰斗林述斎の三男だったことに着目する原因説は、まったくの見当違いである。当時、百姓が、疲弊した農村を捨てて、江戸大坂へ流入する動きが止まらなかった。現金収入を求めて出てくるだけでなく、蘭学者を志し、それを踏み台にして幕臣になろうとする者が増えていた。越中の山村の百姓の子であった斎藤弥九郎が、そのよい例である。斎藤弥九郎は剣客として名を上げたものの、本来の姿は蘭学者であり、韮山代官所手代であった。

 鳥居耀蔵は、農民が蘭学を踏み台にして武士に成り上がる世の動きを憂えたのである。出世欲の塊りだけに、階級を厳格に定めた身分制度が、目の前で崩壊するのが許せなかった。そのため蘭学を目の敵にし、蘭学者弾圧の挙に出たと解釈するほうが合理的で説得力がある。

 長崎事件で謀反の罪に問われた高島秋帆もまた、同断であった。長崎出島の町年寄風情が韮山代官江川太郎左衛門坦庵や旗本下曽根金三郎に西洋流砲術を指南するなど、コチコチの守旧派の鳥居耀蔵にしてみれば、もってのほかだったのだろう。

 それにもかかわらず、天保十三(一八四二)年十月三日、二宮金次郎は御切米二十俵二人扶持、普請役格の身分で、幕臣に取り立てられ、それから間もない十七日、老中首座水野忠邦から「利根川分水路疎通工事実施調査」を拝命した。鳥居耀蔵が、水野忠邦の腹心的存在に成り上がって、改革が最も実現しそうもないときだというのに、なぜ二宮金次郎が登用されたのだろうか。

理由として有力視されるのが小田原藩の陰謀説である。

普請役格を拝命した当時、二宮金次郎は小田原藩財政の分度仕法に着手していたが、藩は報徳仕法に不可欠の「分度」の設定に頑として応じなかった。

「金次郎の分度仕法は、農民の救いにはなるが、武士にとっては役に立たないどころか、困らせるだけだ」

 しかし、二宮金次郎の名声は、天下に広く行き渡っている。金次郎の分度仕法による藩財政の改善は、亡き加州侯の厳命でもある。拒めない代わりに、受け容れることもできない。重臣たちは、腹に一物で、煮え切らない態度を取りつづけた。

「報徳仕法やよし、なれど、分度の設定は罷りならぬ」

 分度というのは、名目ばかりとなった石高ではなく、現実に消費可能な実高を意味する。従って名目の石高よりも、遥かに低く設定されるのが通例で、家中の士は分度の範囲内に出費が収まるよう、極端な倹約生活を強いられる。分度の設定がならぬというのは、これまで通りの暮らしを維持させながら、財政の再建をせよというまことに虫のよい話で、二宮金次郎が応じないのは当然であった。

「早く分度の設定に必要な資料を出してください」

「よくよく評議したうえで返答致すによって、やれることから改革に着手せよ」

「分度が決まらなければ仕法が決まりません」

「そのことならば、評議中である」

 藩の重役と二宮金次郎の果てしない押し問答がつづくさなか、普請役格拝命の知らせが、降って湧いたように出てきた。小田原藩が農民の二宮金次郎に藩財政立て直しを任せることを潔しとせず、裏で水越侯に働きかけ、幕臣にして遠ざけようとした、とするのが小田原藩陰謀説である。金次郎を幕臣にしてしまえば、小田原藩の仕法に手を出せなくなるわけであるから、前後の経緯から推して十分にあり得ることだ。

 これまで、二宮金次郎の報徳仕法に従った桜町領、烏山藩の財政再建は成功しているのだから、本家が公然と拒めば世の中のよい笑い者になってしまう。しかし、幕臣として遠ざける分には立派に名目が立つ、というのが小田原藩重臣たちの思惑ではなかったか。

 しかも、二宮金次郎の幕臣登用は、加州侯の遺志でもある。小田原藩の傾いた財政を分度仕法によって立て直し、その実績によって幕臣に取り立てるというのが、加州侯の描いた筋書きである。二宮金次郎を幕臣として推挙することは表面上の名分からいっても、至って都合がよい。

歴史には偶然の符合という事例が少なくない。

印旛沼干拓とワンセットになった利根川分水路疎通は、幕府の財政再建と国防を兼ねた壮大な財政再建計画であり、水野忠邦が唱える「天保の改革」の超目玉政策である。印旛沼干拓に成功すれば数百万石の増収になる。干拓した印旛沼に掘割を通し、鹿島灘と江戸湾を結べば、黒船に浦賀水道を封鎖されても、江戸の経済がマヒする恐れがなくなる。田沼意次の印旛沼干拓普請のパクリとはいえ、着手するだけでも人気取りになる。だが、田沼時代を支えた石谷清昌のように有能な勘定奉行がいなかった。実力者矢部定謙は冤罪を着せて刑死させてしまった。矢部定謙に代われる唯一の人・川路聖謨は忠邦と距離を置いてよい返事をしない。そこへ小田原藩が二宮金次郎を推挙してきた。

小田原藩重臣の口から忠邦に報徳仕法というものがいかなるものか、金次郎の実績と併せて、いちいち語られたことは想像に難くない。

 水野忠邦は、「それだ」とばかりに、小田原藩の金次郎推挙に飛びついた。

 これが偶然の符合で、加州侯が描いた筋書きにはないことだった。しかし、取り立てた人間が筋書きにはない人物と違っていたとはいえ、二宮金次郎を幕臣に取り立てる遠大な計画が実現をみた事実は揺るがない。

かくして、上下の身分に大きな隔たりがあるとはいいながら、阿部正弘と二宮金次郎の二人が、ようやく幕閣に顔を揃えた。しかし、加州侯の大義の継承者であるはずの阿部正弘、この日を待っていたと思われる藤田東湖、間宮林蔵らは、それをどう受け止めただろうか。

 幕閣に要路を占める正弘はさておき、農民出身のにわか幕臣の金次郎は、彼を用いる人が「予定してされていた者(加州侯)」と異なったのでは、まるで意味をなさない。登用を推挙する側、受け入れる側の趣旨からみて、どちらにも二宮金次郎の資質を最大限に発揮させようという考えはなく、自分たちの都合から出たにすぎないわけであるから、失敗のうちに帰結することは最初から見えていた


(つづく)




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