松平近直と二宮金次郎、その絶妙の二人三脚


 長井検事の論述のつづき。

          

 ところで、二宮金次郎の報徳仕法とはどのようなものだったのだろうか。

天保九年、相模国大住郡片岡村の名主大沢市左衛門が、二宮金次郎に相談を持ちかけた。片岡村は以前五十七戸あった家が八軒も減って今は四十九戸、出来高は七百二十八石、反別では六十七町九反余、うち三百十四石、二十九町が大沢市左衛門の持ち分だった。

「村勢の衰えが止まりません。どうすればよいのでしょうか」

 二宮金次郎は片岡村の平均石高を十四石八斗と弾いて、さりげなく市左衛門を諭した。

「物事の衰退には必ず原因があります。原因のほとんどが、<道の衰退>です。道が盛んなときは国が栄え、道が衰えるときは国も衰えます」

 片岡村で平均石高を超えるのは市左衛門だけ。大沢家を除くと他の平均は八石五斗にしかならない。いわば、一人の領主の下に大勢の領民がいるようなものであった。

「道というのは<人の道>で、互いに協力し、一円融合をもって相養い、救助することです。能力ある者は能力のない者の目をかけ、富める者は貧しきを助け、それぞれが有無相通じてこそ、初めて国家は一家のごとく治まるのです。一つの村の復興も道理はこれと同じです」

 大沢市左衛門は悟るところがあって、二宮金次郎の言葉通り各戸の生産力向上を指導し、不足分を援助して、二年で年貢の滞納をなくした。しかし、慈悲をかけるだけではいずれ市左衛門の資産が枯渇してしまう。二宮金次郎は大沢家歴代石高の平均を分度に定めて七十七石とし、復興期間を十年と設定した。大沢家の現在の石高は三百十四石だったから、向こう十年間、差額の二百三十七石を村の復興のために供出せよというわけである。

 最初の二年が「慈悲復興仕法」で、これからが「報徳復興仕法」である。

 市左衛門がこれを受け容れるかどうか。

 村人は領民、市左衛門は領主の立場である。受け容れれば村の復興に成功し一円融合が実現する。結局、市左衛門は二宮金次郎が設定した分度に従う道を決断し、復興をやり遂げた。

 片岡村の報徳仕法の成功が、二宮金次郎には大きな自信になった。

 大沢市左衛門家を徳川家に置き換えれば、幕府財政立て直しの方策そのものだから、二宮金次郎は規模を拡大して取り組むだけでよい。片岡村の経験が『富国方法書』に反映されたことはいうまでもない。前に紹介した江川太郎左衛門の鬼気迫る倹約生活を考えれば、伊勢守正弘が『富国方法書』を採用し、松平近直をして実践に努めさせたという方程式が浮き彫りになる。

 ただし、理念と実際は違うから方法論を探るため、その裏づけになる二宮金次郎と松平近直の人となりに注目してみよう。

 二宮金次郎が書き残した『報徳記』に面白い逸話が記されている。

 性無頼、大酒のみで、博亦にふけって困窮して、いくら諭しても暮らしぶりが改まらない厄介者の農民某がいた。金次郎の下僕が主人の使いを果たした帰途、にわかに便意をもよおして農民某の厠を拝借して用を足した。ところが、壁の代えて竹に薦をかけ、それを支える柱が腐っているという厠だったから、つかまった拍子に倒壊してしまった。

 農民某は激怒して下僕を追いかけ、六尺棒を振りまわし、日頃の説教の恨みとばかりに金次郎の屋敷に怒鳴り込んだ。

「俺んちの厠をてめえの下僕が壊しやがった。百姓は厠がなくっちゃ一日として仕事にならねえ。何の恨みがあって下僕に厠を壊させたのか、わけを聞かせて貰おうじゃねえか」

「わしの下僕がおまえさんの厠を壊したのは不届きなことだが、わざとやったわけではなかろう。まさに倒れんとする状態にあったため、誤って倒したのだろう。謝って済むこととも思われまいから直ちに厠を建て直し、ついでに母屋も新築してさしあげよう」

 金次郎はみずから指揮して約束を果たした。

 農民は金次郎をやり込めて溜飲を下げようとしたのだが、思いもよらない対応に度肝を抜かれ、恐れ入って前非を悔い、涙ながらに改心することを誓った。以後、暮らしぶりを改め富農に変身した。

 農民某とは逆に吝嗇で蓄財癖の旺盛な岸右衛門という男がいた。村中の嫌われ者で、他人のためにする金次郎の仕法を嘲り、悪口をいって歩いた。七年ののち、金次郎に対する感謝の声が高まるのに反して自分の評判が悪くなる一方とあってか、岸右衛門は金次郎の門人に加わればまわりの評価が改まるだろうと考えを改め「指導を仰ぎたい」と申し入れてきた。金次郎は快く応じ、岸右衛門も指導に服してよく働き富を築いた。しかし、岸右衛門の長年の行いを知る村人の見る目は常に冷ややかだった。岸右衛門はなぜなのかと煩悶して金次郎に泣きついた。

「人の人たる道は、おのれを捨てて人に恵みを与えることにある。それなのにおまえさんは自分を利することしか考えていない。おまえさんが蓄えた金銀で困った人を助け、田を分け与えてやれば、周囲の者まで感服するだろう」

 岸右衛門はまさかそこまでとはと迷いが生じ、家族にも反対されてたちまち退転しそうになった。

「小人もとより君子の行いを踏むべからず。おまえさんのような者に教えたのはわしの過ちだった」

 金次郎の嘆きに鞭打たれる思いで、岸右衛門は家族の反対を押し切り、田畑家財を売り払い、今度こそ心から門下の一員になった。

 金次郎は今こそ本物と認めて農民を動員し新田を開発して岸右衛門に与えた。自分が拠出した田畑よりも面積が広いばかりか、新田なので向こう八年間は無税だったから、岸右衛門はようやく報徳仕法の極意を悟った。

 勤倹節約を理論で押しつけるだけでは本当に意味ある結果につながらない。さりとて「慈悲復興仕法」すなわち慈悲から恵むだけでは生産が伴わない。報徳仕法は恵む側と恵みを受ける側が心を一つにして「新田」という新たな生産を生み出すことを究極の目的にしていたわけである。これをもって「一円融合」という。

 二宮金次郎を用いる松平近直はどういう人となりだったのか。

ペリー来航後の安政二(一八五五)年一月十六日に病没した韮山代官江川太郎左衛門坦庵の葬儀法要が浅草本法寺で営まれたとき、

「わが不明を悔ゆるも、泉下の霊に謝するに由なし、如かず、ただその嗣子と親交してわが丹心を表せんにはとて、その英敏を見ること、わが子のごとく……」

 松平近直は以上の弔辞を述べ男泣きした、と記録されている。

 上役として坦庵の存命中に彼の能力を生かし切れなかったことを悔い、詫びようにも伝えるべき人は亡くなってしまった、このうえは遺子太郎左衛門英敏をわが子と思い、亡き父に代わって親しく交わるであろう。

 部下の葬儀でこれだけの弔辞を述べる上役が、今日、果たしているだろうか。松平近直は部下の能力を活かすことをわが使命と感じていた人なのだろう。それなのに江川坦庵という不世出の農政者・科学者であり、画人でもあった人の登用に常に反対してきた。理由は自分と金次郎の間に坦庵を置かないと報徳仕法が広まらないからである。弔辞を述べながら男泣きしたのは坦庵ほどの人物をより大きな目的のために犠牲にせざるを得なかった運命を嘆いたからだろう。二宮金次郎はようやく加州侯に代わる人を得たのだった。

 家斉隠居からペリー来航まで足掛け十七年、報徳仕法が効果を表さなかったわけがない。目立った勢いではなくじりじりと改善する手法であり、改革の名を冠しなかったため、取り立てていつとは特定できなかった。それも記録に残らなかった一因であろう。

以上が私のいう「加州侯の改革」のあらましである。

しかし、考証はまだ完結していない。

 世の中は「米遣い経済」から「金遣い経済」に移行したというのに、農民は米をつくらないと金を得られない。洪水、飢饉などの天災と闘いながら苦労してつくった米の相場が一定しないということは、「国の本」が立ち行かなくなり始めたことを意味する。

 ならば重商主義的政策に転換を図るか。

 不可である。

 二百年近く鎖国状態をつづける間に日本は自給自足経済が確立しており、それに見合った生産機構しか持たない。生産をうながしても商品価値を下げるだけで、かえって富の偏在を招く。だから開国して流通を世界に拡大するほかない。しかし、自給自足のまま貿易を始めたらどうなるか。

 あたかもその頃、ナポレオン戦争に端を発する緊迫したヨーロッパ情勢はようやく落ち着きを取り戻し、欧米列強の黒船が再び鎖国の扉を叩き始めていた。

 切り替えなければならないのは松平近直と二宮金次郎の頭である。

身分に着目すれば金遣い経済は士農工商のうち「士商」の二人三脚で、主役のどちらも非生産者である。生産を受け持つのは「農工」だけである。田沼時代に貿易拡大政策とワンセットで農工組織の確立が図られたのだが、松平定信の寛政改革によってたたきつぶされてしまった。

田沼意次と二宮金次郎に共通するのは、年貢の増徴という解決手段を全否定したこと、まずそれを大前提にして、財政の出と入りの差が常に黒字になるように世の中の仕組みを設定しようとしたことである。幕府財政の基盤は天領から上がる年貢のみで、全国規模で徴税する手段を持たなかったから、困窮すると増徴という手段に出るほかなかった。それを避けるとなると田沼意次のように重商主義的政策を進める見返りとして商人階級から間接税のかたちで収入を得るほかなかった。したがって、報徳仕法が次に目を向けるのは農工組織の復活であろう。

 これまで長崎だけが鎖国下の唯一の貿易窓口としてきたが、実は公許の窓口がもう一つあった。対馬藩が地の利を得て行った対朝鮮貿易で、薬用人参など輸入オンリーの片貿易である。幕府は朝鮮通信使を文化交流として受け入れるのみで貿易には直接タッチせず対馬藩から買い付けるかたちを取った。薬用人参を主とする対馬藩の輸入額が長崎貿易の規模を上まわったときもあり、宝永七(一七一〇)年から正徳四(一七一四)にかけて「人参代往古銀」という貿易銀が鋳造されたほどであった。貨幣の鋳造は幕府の専管事項であったからみずから輸入にタッチしない薬用人参のためにあえて貿易専用銀を提供するのは異例というほかない。国内需要がそれほど旺盛だったわけである。薩摩藩の密貿易は家斉隠居の際の交換条件で半ば公認となっているし、事実上、長崎一港に限定する「開国状態」はなし崩しに拡大していた。

ただし、貿易を念頭に置いた田沼時代までの生産システムの構築は莫大な額に達した輸入額を砂糖、薬用人参などを国産化することで削減し金銀の国外流出に歯止めをかけようとしたもので、限定開国のもとでは輸出を積極的に進めるためのものとしては俵物以外めぼしいものが思い浮かばなかった。

貿易相手国を拡大しないかぎり清国向けの俵物の増産にとどまり、規模も知れたものにしかならない。さりとて攘夷論が台頭したこともあり輸出可能な生産物を公然と模索するわけにいかない。だが、模索しなければ可能性は開けない。

佐倉藩主堀田備中守正睦の「一藩一港開港説」はそうした背景から生まれたのだろう。佐倉藩は内陸にあって貿易港を持ちようもないはずなのだが、島津重豪も顔負けの「蘭癖」で、水野忠邦が利根川分水路疎通普請に着手したとき老中を務めていたから、城下の印旛沼に貿易港を開く考えだったのだろう。

鎖国令のもとで限定開国の範囲を広げ、そのために輸出可能な生産物の増産体制を構築するという重い命題。二宮金次郎の『富国方法書』がそこまで踏み込まなかったのは、加州侯の改革に着手する段階だったこともあり、鎖国令に抵触する内容になるのだから当然の配慮というべきである。

だが、米遣い社会を前提にした「加州侯の改革」が完結をみたとき、その重い命題に踏み込まなければならない段階にさしかかった。阿部正弘、松平近直、江川坦庵、そして二宮金次郎の前に当然のように鎖国令と攘夷論が立ち塞がった。

攘夷論が台頭をみたのは限定的であったとはいえ開国論がくすぶっていたからである。ここで再び時計の針を過去に戻そう。ロシア、イギリス両国との摩擦が文政八(一八二五)年の異国船打払令の発令を招いたことはすでに述べた。

水野忠邦が老中首座でいた天保八(一八三七)年六月二十八日、アメリカ商船モリソン号が日本人漂流民七人を送還しようとして浦賀に来航した。モリソン号には商館員、医師、宣教師が乗り組んでいたから、本当のねらいは通商にあったと思われる。しかし、時の浦賀奉行太田運八郎資統は平根山砲台からモリソン号に向けていきなり砲撃した。発射された一貫目砲弾は命中しなかったが、モリソン号は驚いて退散、薩摩湾に向かって、七月十日、湾内に投錨した。二日後の十二日、薩摩藩は異国船打払令に従ってモリソン号に砲撃を加えた。非武装の船舶に攻撃するのは国際公法違反である。これがモリソン号事件として世界に伝わり、欧米列強は対日戦時体制と認識するようになった。

従来からのイギリスの外圧に加えて、これまで鳴りをひそめていたアメリカが攻勢に転じたため、天保十三(一八四二)年七月二十四日、幕府は外圧に屈して異国船打払令を廃止して薪水給与令に改めた。

弘化二(一八四五)年三月十二日、アメリカ捕鯨船メルカトール号が浦賀港に入港し、日本人漂流民二十二人を送還した。浦賀奉行土岐丹後守頼旨は感謝して漂流民を受け入れ、直ちに薪水食料品を供給したばかりでなく、友情の気持ちを表す和歌さえ贈った。

諸と母に漕や出づらん我も人も同じ三浦の海士の友ぶね

 ここに模擬的な開国状態が現出した。

翌三年五月、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが大小の軍艦二隻で浦賀に来航し、正式に開国して通商に応じるよう幕府に求めた。ビッドルの旗艦は大砲八十三門、小銃・短銃各八百挺、乗組員八百人、もう一隻は大砲二十四門、乗組員二百人であったと記録されている。

阿部伊勢守正弘は浦賀奉行から急報を受けると迷わず拒否の決断を下した。貿易の仕組みが整備されていないのに鎖国令を廃止してまで通商に踏み切っても意味がないからである。そうした理由が伝えられたためだろうか、ビッドルは拒否されると直ちに引き返した。ビッドルの浦賀来航から退去までわずか十日、のちのペリー来航時に阿部正弘が見せたのらりくらりの「ぶらかし策」とは百八十度異なる即断であった。

その対応の違いが意味するのは何だろうか。

  対ビッドルのときは薪水給与令の模擬開国状態だったが通商開始は「ノー」、ペリーのときは異国船打払令が復活しており、通商は「イエス」だが時間的猶予が必要なため、薪水給与令プラス下田・函館開港で対応した。ビッドル来航後ペリー来航まで足掛け九年の間に輸出品増産に何らかの見込みが生じたことをうかがわせる。阿部正弘が外交と防衛をつかさどる海防掛を新設し、みずから管掌したのはビッドル来航の直後だった。以上の展開に照らせば、この頃、松平近直と二宮金次郎の二人三脚で輸出品増産の模索が本格化したとみなすのが妥当である


(つづく)




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