キーワード「勃興」と「消滅」を再現させるための踏まえるべき事実、見えてくる事実の実例(その11)


踏まえるべき事実から見えてくる事実群(その4)

 

 

天保八年に起きた出来事群から見えてくる事実(その四)

 

 今回の公判では、間宮林蔵の浜田藩潜入が松平康任から加州侯への老中首座交代にどのような影響を与えたかということについて審理します。いつものように、秦野裁判長の論述書を長井検事が代読して公判廷の幕が上がりました。

 

林蔵の浜田藩潜入の文政十二年説から見えてくる「加州侯の大義」の輪郭

 

 間宮林蔵が外国貿易に関する知識・情報の収集に着手したのは文政七年あたりからであった。洞富雄著『間宮林蔵』(吉川弘文館)が述べる《晩年の林蔵は、老中大久保忠真に信任されて、その特命の隠密でもあったらしい》というのはこの頃からではなかったか。

 なぜなら、加州侯が小田原城下から二宮金次郎を見出し、名主役格として士分に取り立てたのが文政四(一八二一)年だからである。二宮金次郎の仕法に着目、これぞ世直しの手法と気づいて、いわゆる「加州侯の大義」が構想され、桜町領復興事業に着手させる恰好で第一歩を踏み出したのが判断材料の一つ。もう一つが、薩摩藩士調所広郷(四十六歳)が唐物方となって密貿易に着手したのが文政五(一八二二)年のことだからである。

 しからば、加州侯は金次郎のどこに着眼したのだろうか。

 金次郎の生まれた二宮家が酒匂川の氾濫で田畑を失ったのが寛政三(一七九一)年、両親を亡くして一家離散の憂き目に遭ったのは享和二(一八〇二)年で、十六歳のとき。生家を復興させたのが文化十二年で、金次郎はそのとき二十九歳であった。まず、雇い人となって現金を貯めて下々田(げげでん)と評価された最低ランクの田を買って、百姓を始め、それだけではやっていけないため、賃金を得るために働き、田畑を買い足して規模を大きくした。

 田沼政治の足を引っ張ったのは古今未曾有の大飢饉で、幕府の金蔵は空になり、備蓄米も底をついたのが原因だから、どんなにすぐれた政治をやっても、飢饉や洪水などの自然の大災害への対策なしに、改革は成り立たない。金次郎の生家復興の仕法は、そういう意味で示唆に富むものであった。

 すなわち、加州侯は金次郎の仕法を「分度」による立て直しと「税金のかからない現金収入」の二本立てと分析して、どちらかというと後者に着目したのである。二宮家を徳川家と考えると、外国貿易なかんずく売る貿易すなわち輸出に目を向けた。と、なると、鎖国政策を廃止しなければならない。そうした視点からすると、各藩で行う密貿易は摘発して取り締まるという対象ではなくなってくるし、事実、加州侯損命中や阿部正弘の時代は、取締りがゆるやかだった

 結果が目的の法則から考えると、林蔵が探知した浜田藩と薩摩藩の密貿易は摘発しながら処罰にまでは持っていった形跡がないことから、どちらかというと「いずれは表彰されるべき性質のもの」という認識だった公算が大きい。

 もし、これが事実とすると、加州侯の大義は内政を二宮金次郎、外交面の下準備を間宮林蔵に担わせる基本パターンが浮き彫りになる。

 

 薩摩藩と浜田藩の密貿易は森の中の二本の木

 

 これまでのように結果のみから浜田藩、薩摩藩のみに言及してしまうと、最初から両藩にねらいを絞った行動と誤解されそうである。しかし、文政七年から長崎を中心に諸国の貿易(交易)事情を調べて歩くうちに、浜田藩と薩摩藩のケースが政局がらみで利用価値が生じた、と、このように見なすとシチュエーションが見えてくる。つまり、浜田藩と薩摩藩は「開国交易通市」という森の中の二本の木だったわけである。このように考えると、文政十一年の浜田藩の密貿易探知は政局がからまなかったため、林蔵が大坂東町奉行高井実徳と面談したのは、浜田藩の密貿易摘発の助言ではなくて、加州侯が武家無尽禁止令違反の罪に問われないようにするためであった可能性が高まってくる。

 すると、間に薩摩藩潜入を挟んで天保三年から五年にまたがって行われた大坂西町奉行矢部定謙に対する浜田藩密貿易摘発のサゼスチョンは何が目的だったのかということになるわけであるが、今度はこれに将軍家斉の君側の奸で老中首座水野忠成の死、松平康任の老中首座就任がからんでくる。家斉の君側の奸の首魁水野忠成の死が天保五年二月二十八日、松平康任の老中首座拝命はその直後であった。この人事は家斉の君側の奸の片割れ中野石翁と深く通じる御側御用取次水野美濃守忠篤ら「天保の三佞人」の生き残り策だったから、まず康任が林蔵の槍玉にあがった。

 しかしながら、康任を破滅させることが目的ではなく、老中首座を加州侯に譲らせるのが目的だったから、林蔵は仙石騒動にからむ汚職の事実を伏せておいて、水面下の取引の場に使途を委ねたものと思われる。松平康任は仙石騒動の摘発で収賄の罪に問われないことを条件に老中首座を加州侯に譲り、ヒラの老中に退いたのである。

 このように考えると、事件の摘発よりも、松平康任の老中首座なり、老中辞職が先になった不自然さに説明がつく。なぜなら、追い込まれたからには、老中首座なり、老中の地位にしがみついて踏みとどまったほうが保身のためには有利だからである。それを放棄したということは、そうすることが保身につながると判断したにほかならず、時系列的経過としても自然のなりゆきというべきであろう。

 加州侯の目的は家斉の君側の奸を一掃して、将軍の交代を実現し、二宮金次郎の仕法による改革を全国規模に拡大することだから、恐らく松平康任の老中失脚までは考えなかったはずである。それなのに、天保七年の大疑獄にまで発展したのは、高井実徳の死という予測不能の出来事が関係したためであった。

 

石炭より黒い水野忠邦・跡部良弼兄弟の腹の中 

 

 文政十二年当時の大坂東町奉行高井実徳は、天保元年に東町奉行から御三卿の一家田安家の家老に転じたが、天保五年十一月、七十二歳で他界した。与力の大塩平八郎も下野していない。高井が亡くなったことで息を吹き返し、枕を高くして眠れるようになったのが、かつて二人に摘発寸前まで持っていかれたことのある時の老中水野越前守忠邦と大坂西町奉行跡部良弼だった。二人は実の兄弟で、忠邦は水野忠成の死去により空席となった本丸老中に西の丸老中から繰り上がったばかりである。

 かつて肥前国唐津藩主だった水野忠邦は老中になりたいと願って猟官運動を展開、多額の賄賂を使って水野忠成に取り入り、文化十三(一八一六)年、奏者番に就任した。しかし、長崎警備の任務を受け持つ唐津藩主でいる間は奏者番以上の役職につけないと知ると、老中を輩出してきた浜松藩への転封を決意、家中の反対を押し切って実高二十五万三千石といわれる肥前国唐津藩主の座を捨て実高十五万三千石の藩主に甘んじようとした。このとき、家老の二本松義兼が諫死を遂げている。文化十四(一八一七)年のことであった。

 忠邦は、その後も猟官運動をつづけ、寺社奉行を兼任すると、今度は賄賂を取る側になって汚職にまみれた。文政八(一八二五)年大坂城代、文政九年京都所司代と出世して、文政十一年にとうとう西の丸老中に上り詰めた。忠邦の猟官運動資金の捻出には、実弟の跡部良弼が一役買っており、そこを大塩平八郎に尻尾をつかまれたわけである。跡部良弼にとって忠邦の本丸老中就任と高井の死は汚職の罪を揉み消す絶好の機会だ。

 天保七年になると、矢部定謙もまた大坂西町奉行から勘定奉行になって大坂を去った。矢部と入れ替わるように堺町奉行から大坂東町奉行に転任してきた良弼にとってはますます都合がよい。

 こうした推移に、《天保七年十二月二十三日、大坂東町奉行跡部良弼が浜田藩の密貿易を摘発、藩主松平康任は永蟄居、国家老岡田頼母、年寄松井図書は切腹、勘定方橋本三兵衛、会津屋八右衛門は斬罪に処される》という年表記事をからめて考えると、松平康任と接触を図ったのが、「加州侯・林蔵ルート」と「水越侯・良弼ルート」の二つであることがよくわかる。これで、浜田藩と藩主松平康任の処罰と辞職の順序に食い違いがある理由が解明できたと思う。

          

 長井検事が代読を終えると、秦野裁判長が説明を加えました。

「天保八年に起きた出来事群に水越侯と跡部良弼兄弟が登場して、ますます複雑の度合いは深まった。天保八年に起きた大塩平八郎の乱は『跡部良弼暗殺未遂事件』の側面もあるということだけ本日は付け加えるにとどめて、今後、《水越侯・良弼ルート》を詳しく解明しながら、水越侯の正体に迫りたい。本日はこれにて閉廷」

 いよいよ、水越侯と跡部良弼兄弟が俎上にのぼってきました。これまでのところだけでも、忠邦はかなりの悪印象ですが、このうえ印象を落とすとなると、どういうことになるのでしょうか


(つづく)




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