幕末開国史には定説をひっくり返す重大な事実が山と埋もれている


 モリソン号事件当時二十八歳だったチャールズ・キングが、八年後の弘化二(一八四五)年に、三十六歳の働き盛りで、なぜか急死を遂げる事実を予告したうえで、今回から音吉と深いつながりを持つはずの栄寿丸船頭井上善助、岡廻り(賄方)初太郎に関する審理に入ることになりました。

 あらかじめ申し上げておきますが、ごく限られた文献史料でありながら、トータルすると食い違いや矛盾があり、仮説を立てても、一つの文献史料の記述を楯に取って批判されてしまうと、仮説も、まとめも、理論上では瓦解しかねないため、本・日本史法廷では、ありとあらゆる矛盾や説明の食い違いを無視して、本筋のみを追っております。そのことをあらかじめお断りしてから、栄寿丸沖船頭井上善助、岡廻り初太郎に関する審理に入ることに致します。

 秦野裁判長が開廷を宣言してから、次のように切り出しました。

「これまでは、モリソン号に乗ってきた音吉に着眼してきたわけだが、すでにラナルド・マクドナルドと一緒の二年間にわたる学校生活が確認された。そのマクドナルドが、後年、利尻に偽装漂着して日本に潜入し、長崎においてオランダ語通詞森山栄之助らと、日本語と英語の交換授業を行うことになるのだから、当然、マクドナルドは音吉のその後の消息を求めて、彼がマカオにいて、日本人漂流民の帰国の手配を行っていたことを知らないまま日本にきたとは考えにくい」

「日本史のどこを叩いたって、そのような事実は語られておりません。戦国時代もわからないことが多くありますが、どうやら、幕末開国史はそれどころじゃなさそうですね」

「本法廷が、クエッションマークのつく歴史舞台ばかり、審理の対象にしているから、当然といえば当然なんだが、幕末開国史は明治政府のバイアス史観により、かなり事実が隠蔽されている節がある。維新政府を美化するためには、幕末の幕閣は無知で、無能で、役立たず、そういうイメージを国民に植え付ける必要があった。日本史の根源的な偏向は、アジア侵略か、アジア解放か、そうした戦争解釈のために目をくらさまれてきたんだよ」

「まったく、同感です」

「そのためにも、事実を明らかにして、そうした事実を踏まえて、自分の考えで気づいてもらうほかない。それが、今、始まったということだな。たとえば、ペリー来航の真相を知るためには、水野忠邦が老中首座であったとき、オランダから蒸気機関車を買い付けようとした事実が頭になければならない。なぜかというと、天保から弘化にかけて、アメリカの上院仮議長がウィリアム・キングであり、ペリーの第二次来航の際の彼は、副大統領に就任したばかりだということ、まさにその第二次来航時に実物の四分の一大の蒸気機関車、炭水車、客車、レール一式が幕府にプレゼントされ、横浜村の砂嘴に敷設され、客車の屋根に幕臣を乗せて実際に走った、という事実につながっていくからだ。一つひとつの事実は点でも、以上のケースは線でつながりやすく、比較的容易にストーリーが組み上がっていく。そのストーリーの説明はあえて先送りして後述するが、幕末開国史は既存の定説などあざ笑うような重大な事実が、山のように触れられぬまま残っている」

「それが、これから明かされていくわけですね」

「ただし、それらの多くは点だけで、相互に結ぶ線が残されていない。だからといって、放置しておいてよいわけがない。少ない点を共有したうえで、犯罪捜査法を駆使して、仮説(状況証拠)をたたかわせるようにしていかんと、いけないんじゃないか」

「おっしゃる通りだと思います。では、裁判長、せっかくの証拠調べですから私が代理で、読み上げさせていただきます」

 こうして、幕末開国史の証拠調べがスタートしました。

 以下は、長井検事による証拠事実の代読です。

 

 善助と初太郎がジョン万の船頭筆之丞を訪問した理由

 

 天保十四(一八四三)年の暮れ、清国船に乗って長崎出島に帰国してきたのは、犬吠崎沖で難破しスペイン船に救助された摂津国中村屋伊兵衛の持ち船栄寿丸の漂流民で沖船頭だった善助と岡廻り(賄い方)だった初太郎であった。これから三年の長きにわたって、二人は審問を受けるのであるが、なぜか、その内容は不明である。

 三年後の弘化二(一八四五)年、善助は釈放されて郷里紀州国周参見に戻ってから、紀州藩の『東航異聞』の編纂に協力、初太郎は郷里阿波国で藩主蜂須賀斉裕に庭前で拝謁、侍臣に語ったそのときの内容が『亜墨新話』として編纂された。しかし、河田小龍の手で編まれた『漂巽紀略』がジョン万次郎の漂流記の域を出ず、アメリカに関する微細な報告は、勘定奉行松平河内守近直によるジョン万からの聞き書『十月勘定奉行糺問書』に詳述された事実に照らすとき、それらがいずれも『それぞれの漂流記』でしかないこと、二人の放免が水野越前守忠邦の失脚、阿部伊勢守正弘・松平河内守近直政権樹立の時期であったこと、のちにジョン万次郎のアメリカに関する微細な報告が勘定奉行松平河内守近直による聞き書き『十月勘定奉行糺問書』に詳述される事実、などなど、こうしたことから考えて、二人がもたらした情報の中に音吉の消息があったばかりでなく、フランスで微粒子病が蔓延していること、漂流者ジョン万がアメリカ人捕鯨船船長の養子となっている事実が含まれていた可能性が高い。

 以上の推理の基になっているのが、ジョン万と初太郎、音吉を結ぶ線の役割を果たす次の事実である。

《天保十四年十一月下旬、栄寿丸で難破し救助されマカオに来ていた善助と初太郎は、アビゲイル・サラ号のドーヌ船長に船賃百五十ペソを払ってホノルルへ渡り、筆之丞と五右衛門に会う。ジョン万次郎はホイットフィールド船長の養子となり北米東海岸スコンチカットで夫妻と三人に暮らしている》

 これは、一体、どうしたことか。

 まず、善助と初太郎の難破と漂流、救助・帰国までの経緯から記すことにしよう。

 善助が沖船頭として乗り組む栄寿丸は、摂津国西宮の中村屋伊兵衛の持ち船で、天保十二(一八四一)年、浦賀に寄港したあと、下総犬吠崎沖で嵐に見舞われ、難破して漂流を余儀なくされた。乗組員は善助以下、堀弥市、初太郎、太吉、伊之助、儀三郎、惣助、七太郎、万蔵、要蔵、岩松、勘次郎、三平の十三人であった。百日ほど漂流してのち、天保十三(一八四二)年二月、スペイン船エンサヨー号に救助された。最初は三食を給されたが、やがて二食に減らされ、酷使され、三月、善助、弥市、初太郎、太吉、伊之助、儀三郎、惣助の七人は、メキシコ領カリフォルニア半島先端に置き去りにれた。その後、七人はサンホセに送られ、そこでエンサヨー号で去ったはずの七太郎と万蔵と再会した。しばらく九人で行動してメキシコの港湾都市マサトランに行き、善助は初太郎と組み、広東経由で日本に向かい、天保十四年に清国船で帰国した。

 善助と同郷の弥市はマカオへ向かうスペイン船に便乗し、マカオ、香港、舟山、寧波を経て、弘化二年二月、乍浦に到着した。

 太吉、伊之助、儀三郎は、マニラへ向かうドイツ船でマサトランを出港、マカオ経由で乍浦を目指したものの、途中の寧波で宝順丸の漂流民岩吉と出会い、そこで儀三郎は帰国を断念して音吉のいるマカオに戻り、定住した。寧波で儀三郎と別れた太吉と伊之助は、弘化二年、乍浦着。

 マサトランに残った惣助、七太郎、万蔵の三人は消息不明。

 エンサヨー号に乗ったままだったのは要蔵、岩松、勘次郎、三平の四人であったが、このうちの三平と弥市がマサトランで再会。三平の説明によると、エンサヨー号はグアイマス沖で沈没、そのために要蔵、岩松、勘次郎、三平の四人はようやく解放されて、他所へ向かった要蔵、岩松、勘次郎の三人と別れた三平だけがマサトランに戻ったという。

 ここで注目されるのが、寧波で宝順丸の生き残り、音吉、久吉、岩吉のうち岩吉と出会った儀三郎が帰国を断念して、マカオに引き返し、定住を決めた事実である。

 当時、音吉はアヘン戦争にイギリス軍兵士として参戦していた。アヘン戦争が終結したのは天保十三(一八四二)年八月二十九日だから、音吉も、久吉も、岩吉も、除隊して、別々にマカオへ向かうところだったのだろう。このうち岩吉が太吉、伊之助、儀三郎の三人と遭遇し、儀三郎のみ連れ帰ったのではなかっただろうか。

 こうなると、善助・初太郎の消息が音吉に知られたとしても不思議ではないわけで、必然的に《天保十四(一八四三)年十一月下旬、栄寿丸で難破し救助されマカオに来ていた善助と初太郎は、アビゲイル・サラ号のドーヌ船長に船賃百五十ペソを払ってホノルルへ渡り、筆之丞と五右衛門に会う》という動きになっていくわけである。

 では、善助と初太郎は、ジョン万次郎に関して、どの程度の情報を得て戻ったのだろうか。

 それを考える前に、ジョン万次郎とラナルド・マクドナルド、マンハッタン号クーパー船長と結びつきそうな点となる事実を拾い出すことにしよう。

 まず、ジョン万次郎について調べると、次の事実がある。

《天保十二(一八四一)年十一月十七日、アメリカ海軍チャールズ・ウィルクス科学探検隊がホノルルに寄港し、十日間滞在したとき、メンバーの画家が英語を話す日本人としてジョン万次郎に興味を抱いて、彼をスケッチした》

 ウィルクス科学探検隊が、南太平洋などの海流、地勢、生態系、その他、もろもろのことを調査して、ニューヨーク港に帰着したのは、天保十三(一八四二)年六月十日のことである。ウィルクスが海軍経由で政府に報告した資料には、「英語を話す日本人」という説明つきでジョン万のスケッチが含まれていたのだから、ホワイトハウスがジョン万に関する情報に飛びついた可能性は極めて高い。この事実は、のちに、ジョン万次郎が第一次帰国航海途中のグアムから、ホイットフィールド船長に宛てた手紙(現存)の文意に大いに関係することなので、記憶しておいてほしい。

 モリソン号の次に取り上げる来日アメリカ捕鯨船マンハッタン号に関しては、次の事実を挙げれば十分であろう。

《天保十四年十一月八日、マイケーター・クーパー船長のマンハッタン号がニューヨーク港を出帆》

 この事実は、補足説明を要する。

 すなわち、クーパー船長は、元来、農園主であって、船乗りではないということである。操舵手コンサーも、かつては農園の元奴隷であった。クーパー船長の父親が亡くなり、幼いときの彼が農園を相続することになったのだが、当時、まだ幼かったため、農園は後見人が管理することになり、奴隷のコンサーは他所に売られてしまった。やがて、成長して農園を相続したクーパー船長がコンサーを買い戻し、自由の身にしたうえで、なぜかマンハッタン号を購入して、船長と操舵手の資格を取ったのであった。だから、どちらも付け焼刃的な編成なのである。したがって、マンハッタン号が日本人漂流民を鳥島やその近海で救助し、日本に送り届けることになるのは、あくまでも結果論であり、以上の経緯からして、モリソン号事件同様に杜撰というほかない計画であった。ましてや、帰国後は捕鯨でなく南極探検に方向転換しているのだから、はるばる太平洋を横断してきたにしては、本来の目的であるはずの捕鯨に対して執着が希薄にすぎる嫌いがあり、何のための来日かと理解に苦しむばかりである。

 しかし、クーパー船長の訪日談が、ラナルド・マクドナルドやジョン万次郎に与えた影響は大きい。

 試しにここで、マクドナルドについて調べると、次の事実に目が向く。

《天保十三(一八四二)年三月、銀行員となってセント・トーマスのアーマティンガー家に寄宿していたラナルド・マクドナルドは、同家を出奔。ヒューロン湖、スペリオール湖を船で渡り、ミシシッピ河上流のセントポールからニューオーリンズを経てメキシコ湾に達し、ニューヨークに行って船員となった》

 ニューヨークから先のマクドナルドの航海の軌跡はロンドン、カルカッタ、サンフランシスコ、アフリカ西海岸を経て、再びサンフランシスコへと戻っている。その途次、ホノルルでマンハッタン号クーパー船長の訪日成功談を記事にした雑誌を読み、日本への偽装漂着に自信を深めていく。

 以上の流れを思うとき、善助と初太郎がアビゲイル・サラ号でホノルルに着いて、筆之丞と五右衛門に会った天保十四(一八四三)年十一月下旬の時点で、ジョン万次郎の存在はある程度知られた存在であったことがわかる。善助、初太郎から報告を受けたであろう音吉改めジョン・マシュー・オットソンが、ホイットフィールド船長の養子となってアメリカ東海岸のスコンチカットで夫妻とともに三人に暮らしている事実に、同じく「英語を話す日本人」として重大感心を抱かなかったはずがない。ましてや、サンフランシスコに向かう途中のマクドナルドとホノルルで落ち合うことが目的として加わっていたと仮定すると、善助らのホノルル訪問はますます無視できなくなってくる。

 さらに欲目で、マクドナルドが時のホワイトハウスの後押しを得ていたと仮定すると、同じくホワイトハウスの関与が状況的に濃厚なマンハッタン号の来日事前情報も得られたであろうことは、時間的なレベルからいっても決して不可能ではないのである。

 事実、日本側すなわち松平河内守近直が行った奇妙テキレツな人事に照らすとき、その推測は、俄然、現実味を帯びるのである。

          

 長井検事がここまで読み上げたとき、秦野裁判長が声をかけました。

「ストップ」

 長井検事は論述書から目を離して、秦野裁判長を見つめました。

「状況証拠だけでも、丹念に積み重ねれば、実体的真実に限りなく近似させられることは、検察官だからわかると思う。これまでの論述(音吉の伝書鳩プロジェクトに結びつく一連の事実群)を仮説《》とすると、《》を事実とみなさないかぎり《》という事実に合理的説明がつかなくなってしまう。《》が事実であることを裏付けるには、そうした《》という事実を提示すればよいわけだ」

「確かに、いえることです」

「次回は、そうした事案《》に当て嵌まる事実を切り取って提示することにして、本日は閉廷」

 かくして、本日の公判廷は閉廷の運びとなりました


(つづく)




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