ジョン万次郎の帰国航海の一部始終(その7)

 ジョン万次郎が二度とも琉球上陸にこだわった理由



 本日の公判では、長井検事の論述書が読み上げられることになっておりました。早速、耳を傾けることにしましょう。

 以下は、長井検事の論述書……。

          

いきなり結論に言及してしまうと、ジョン万次郎がミスターXのアドバイスによって第一に目指したのは薩摩藩だったのである。

 すなわち、「本当の上陸地は琉球ではなくて、薩摩藩」という仮説は、ジョン万次郎がホイットフィールド船長に宛てた手紙に書かれている内容のうち、「どうして琉球上陸なのか」という疑問が解析の切り口で、ミスターXを実在の人物と考えることで、初めて成り立つヒントといってよい。

ミスターXないしはジョン万次郎が、琉球を上陸地に選んだのは、お由羅騒動がまだ解決していなかったのが原因で、琉球を待機地にしたと考えるのが妥当な線である。いきなり薩摩に上陸するより、はるかに安全で、時間的なゆとりを持って、間違いなく薩摩藩主島津斉彬に面会できるからである。

なぜ、島津斉彬かというと、阿部正弘とツーカーだからである。

第一次帰国航海から第二次帰国航海までの中断期間を琉球滞在とみなして考えると、ジョン万次郎の琉球滞在が長引いている間に、薩摩藩では「お由羅騒動」が進行していた。

御家騒動の遠い発端は、島津重豪の藩主時代にある。島津重豪の蘭癖趣味、西洋式火器の大量買付けなどで、薩摩藩の財政赤字は文政年間に約五百万両にまでふくらんだ。島津重豪は、孫の斉興と相談したうえで、側用人調所広郷(ずしょ・ひろさと)を呼び、脇差に手をかけて、立て直しを迫った。こうして調所広郷は、決死で取り組まざるを得なくなったのだが、彼は金主に働きかけて「改革が済むまで調所を更迭しない」という朱印状を島津重豪に書かせた。この朱印状は、二つの効力を持つ。調所広郷は、朱印状を担保にして藩の債務一切を必ず返済すると約束する代わりに、無利子で、二百五十年賦という条件を無理やり呑ませて、砂糖の専売制度の確立、煙草などの特産物の産地形成、琉球経由の密貿易、贋金づくりなど、収入につながることなら構わず片端から手をつけ、とうとう全債務を期限前に返済し、巨額の貯蓄さえ残した。これが一つ目の効力というか、朱印状の使い道であった。

 ところで。

マンハッタン号が離日した翌年の弘化三(一八四六)年六月八日、老中首座阿部伊勢守正弘は、調所広郷を江戸城に呼びつけて、「琉球支配は薩摩藩に一任、やむを得ない場合は交易を許す。ただし、相手はフランスに限り手細く行え。そうする分には交易を結んでも幕府に異存はない」と告げた事実がある。既出の通り、対フランスにかぎりというのは生糸の輸出が念頭にあるからである。それに先立つ六月一日には、まったく同じ内容を将軍家慶が調所の主君島津斉興と斉彬に伝えた事実も、すでに述べた。

大御所支配をつづけた島津重豪の死去を受けて藩主としての実権を取り戻した斉興は、保守的なため、阿部正弘はあまり歓迎せず、早くから開明的な斉彬を立てようとしていた。調所広郷は、島津斉興寄りで、異国方を軍役方に改めるなど、対外的には強硬姿勢に転じており、彼もまた阿部正弘にとっては好ましくない人物であった。二人とも更迭したいところだが、相手は外様だから直接手を下すわけにもいかず、さりとて、薩摩藩の財政が揺らいだまま斉彬を立てても意味がなく、仮にそうしたことを無視して二人の粛清を断行するとしたら、斉彬を後方から支援して内部から呼応させるほかないわけである。しかし、先君重豪の朱印状がものをいって、「改革が済むまでは調所を罷免できない」のだった。これが、広郷が考えた重豪の朱印状の二つ目の使い道あった。

調所広郷は、かくのごとく、阿部正弘でさえ舌を巻くほどのやり手だったから、御家騒動の出口すら、なかなか見えてこなかった。それでも、フランスにかぎり手細く貿易を開始する権限を薩摩藩に与えざるを得なかった緊急性、そのことをしっかり理解しておく必要がある。すなわち、フランスを相手に生糸輸出を始める必要性に迫られたシチュエーションが、マンハッタン号の来日前後に生じたことが重要なので、調所広郷のサボタージュによって、フランスとの貿易が実現しなかったこと自体には、あまり意味がない。なぜなら、日本は鎖国中であり、自給自足経済だったから、輸出にまわせるだけの生糸はまだ生産されていなかったからである。

なぜ、生糸なのかはすでに述べたことなので、ここでは説明を省く。すなわち、フランスの微粒子病蔓延により、最低でも、向こう十数年は欧米市場で生糸が払底に向かうのは必至だった。

金次郎は幕府の財政がこうまで傾いては報徳仕法だけでは間に合わない、田沼時代に行われたように、清国相手の貿易を拡大して、金銀を稼ぐなどの手を講じないと再建は困難だという

 二宮金次郎の分度仕法だけでは財政再建に時間がかかりすぎると認識する幕府にとって、生糸の特需は天からぼたもちが降ったようなありがたい話であった。すぐにでも飛びつきたいのだが、準備に五年、六年という長い年月がかかり、攘夷論者に知れた場合、大騒ぎになるのは必至。だから、公にやれることではなかった。それゆえに、輸出用生糸の増産に着手しながら、当面は国内向けの生糸を目立たないように輸出に振り向ける、というのが金次郎の腹案だったと思う。輸出に振り向ける量に応じて、「フランスにかぎり、手細く(輸出をするように)」なのだ。大々的に生糸貿易を始める前に、ひとまず隔絶された薩摩藩で、貿易の実績をつくっておきたいという腹づもりなのだが、フランスの養蚕が復活するまで期間限定の特需だというのに、お由羅騒動の決着が長引いてなかなか埒が明かない。

ところが、調所広郷は、権力を握って好きなように振舞ううちに、さしもの明晰な頭脳に曇りが生じたのだろうか、阿部正弘らが意図するところを察することができず、限定開国と対仏貿易に幕府のお墨付きまで得たというのに、彼が向かったのは正反対の方角であった。調所広郷は、とうとう藩主の交代に介入するほど権力を私してしまった。

阿部正弘は、本来強引なやり方を好まない性質の人間なのだが、薩摩藩の財政が黒字になったのをよい機会として、島津斉興にそれとなく隠居をほのめかし、意中の斉彬を藩主にしようとした。薩摩藩のためでも、斉彬のためでもなく、日本という国が独立を守りながら開国し、貿易面で大きな利益を得て、財政再建に成功する道筋の最初の一里塚として、斉彬を一刻も早く藩主の座に就ける必要があったのである。しかし、調所広郷と斉興の側室由羅が結託して、「斉彬が藩侯になろうものなら、彼の蘭学趣味が原因となって、二十年前の赤字財政に後戻りしかねない」という理由で、一味と語らい、現当主の隠居に真っ向から反対しつづけた。

そのために、三十八歳にもなって藩主になれないでいた斉彬は、隠密を使って調所広郷の行状を洗い上げた。その報告書が、阿部正弘に届いたのか、どうかは不明だが、調所広郷は斉興と出府して四ヵ月後の嘉永元(一八四八)年十二月十九日、江戸藩邸で急死。斉彬は事前に「調所の今度の出府は少し危ないと思う。阿部が何かいうらしい」と予言していたと伝わる。

幕府の介入で、調所広郷を除くことに成功した斉彬は、すぐに斉興を隠居させられたわけであるが、さらなる家中の内紛を恐れ、調所一派の追放にとどめた。しかし、側室由羅が残っている。二十年にも及んだ調所執政政権の崩壊を直接の発端として、実は、お由羅騒動は、これから本格化するのであるが、展開をいちいち記すと煩雑になりかねないため、阿部正弘がしびれを切らして再び介入し、斉興を隠居させ、斉彬を藩主に立てたのが嘉永四(一八五一)年二月二日だったという結末だけを述べておく。

以上が、ジョン万次郎の琉球滞在が、百七十七日に及んだ原因であると同時に、第一次帰国航海が中断のやむなきに至った最大の原因である。お由羅騒動が決着をみて、ようやく万次郎は琉球から薩摩藩に移送され、斉彬から直接下問を受けて、洋式船の建造を命じられるのである。万次郎が、フェアへブンの船大工ジェームス・アレンから見様見真似で学んだことが、このとき役立ったわけである。

また、斉彬が反射炉(溶鉱炉)を鹿児島に築造したのは、嘉永四(一八五一)年八月のことだったから、それについても、万次郎は意見を求められたものと思われる。

薩摩藩滞在五十日余、その間、斉彬は、万次郎の帰国を幕府に報告せず、賓客のようにもてなして、聞けるだけのことをすべて聞いてから、ようやく長崎奉行に報告した。斉彬が、万次郎の持ち帰ったアメリカの知識をいかに重要視したかの表れであろう。

 幕府は、栄寿丸の漂流民善助と初太郎が帰国した時点で、「英語を話す日本人」として、アメリカにジョン万次郎がいることを察知したはずなのだが、そのジョン万次郎が帰国してきた事実を知ったのは、当座、このときだったということにしておく。

          

 長井検事の論述を受けて、秦野裁判長が質問を投げかけました。

「すると、どういうことになるのだろうか」

「まず、タイミングの問題があります。ペリーが、東インド艦隊の指揮を取るよう準備命令を受けたのが、一八五二(嘉永五)年一月二十二日のことで、オランダの別段風説書は「ペリーが東インド艦隊を指揮して来航する」ということを予告しています。そのさなかに、ジョン万次郎は、土佐へ差しまわされました」

「問題は、そこだな。タイミングだよ。何に、何が、どのように関係してくるか。そこを読み違えるとだな。見えていることまで、見えなくなってしまう」

「せっかく、『うまく、帰国』したわけですから、ね」

「幕府としては、どのように対応したらよかったのか、うまくいったのかどうか、その判断はむずかしいところだぞ」

「私も、そう思います」

「しかし、今日のところは、『うまく、帰国』したことが確認できたのだから、よしとして、これにて閉廷」

 さあ、これから、どういうことになるのでしょうか。幕府は、うまく対応できたのでしょうか。ひとまず、今日の公判は終わりました


(つづく)




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