輸出用生糸の増産と輸出に関する時系列的考察(その1)
前回はジョン万次郎の帰国航海の考証過程で次の事実が提起されました。
《『輸出用生糸の増産』が行われたにもかかわらず、復命の段階ではまだ絵に描いた餅のままでした。増産された輸出用生糸は日米修好通商条約の条文交渉、調印を受けて、批准されて初めて効力を持つわけで、当初、五年を目標としたことが五年も遅れて十年目となったのでは、本来なら特需が終わっていて、ほとんど意味をなさなくなっていたはずなのです。すなわち、阿部正弘、二宮金次郎、松平近直らが他界してしまったために、『輸出用生糸の増産』さえもが砂上の楼閣となっていなければならなかったわけですが、現実にそれが効力を発揮できたのは、イタリアの冷害がプラスに働いて、フランスの養蚕復活のマイナス効果を相殺してしまったためです》
これまでは、「フランスの養蚕地を襲った微粒子病」が生糸輸出の踏まえるべき事実でしたが、新しく「イタリア養蚕地を襲った冷害」が加わってきました。
万延元(一八六〇)年の日米通商条約批准の段階では、フランスの微粒子病蔓延の始まりを弘化元(一八四四)年とした場合、すでに十六年もの歳月が経過していることから考えて、微粒子病を原因とする特需は終わっていたとみなければなりません。しかし、歴史的事実では特需はつづいて、幕府に莫大な関税収入をもたらし、近代日本へ脱皮するための原資を稼ぎ出しました。
結果の事実という概念からすれば、それが厳然たる事実です。その発端を用意した幕府が恩恵を受けないで、たまたまそのときになって政権を担当した明治維新政府が恩恵を享受した。このことも厳然たる結果の事実で、これまでの日本史、なかんずく幕末史に欠落しつづけた大事な点なのです。
輸出用の生糸の増産を切り口にして、幕末史を再検証すると、どのような日本史に出会うのでしょうか。
問題は、どの時点で、特需がなくなったか、ということになってきます。
以上のようなことを考えると、輸出用生糸の増産は「結果オーライ」で、かなりあぶなっかしい経過をたどったことがわかります。そうした中で、ペリー来航が現実となったわけですが、実はアメリカもペリーの第一次来日と第二次来日に対応する政権が交代したことによる影響は無視できないものでした。もっとも、日本の「結果オーライ」に対して、アメリカは逆に「滑り込みセーフ」という違いはありましたが……。
以上のようなことを考えると、これまでの幕末史が最重要事項に目を向けないままで結論づけられてきた過ちが浮き彫りになってきます。
本講座が学術的な資料主義を全面的に肯定しておきながら、必要絶対条件ではなく、「方法論というに値しない」と真っ向から否定するのは、資料(史料)の文言に拘泥するあまり、前述したような「結果の事実」や「シチュエーションから帰結される事実」といった「言葉で記述されない現前する事実」の発見に無関心のまま今日まできたという現実が背景にあります。もう少し具体的にいうと、輸出生糸の増産に関する具体的な数字や記述が皆無であるという目下の事実が、資料主義に拘泥する研究者の目が幕末史を語るうえでの最重要事項から逸れてしまう原因となったわけです。
まず、そのことを指摘したうえで、考証を進めることにします。
時系列的にいうと、本講座はジョン万次郎が帰国した時点にさしかかりました。次に待ち受けるのは「ペリー来航」ですが、同時に国内に雪崩を打つといっても大げさでない崩壊現象が起きました。外交と内政が複雑にからみ合い、文章では描き切れないくらい複雑で、立体的で、それらが相互にからみ合った政変を解きほぐすように描写しなければならないのです。
しからば、どこに切り口を求めるかといえば、これまでの公判の集大成ともいうべき「ペリー来航」に求めるほかありません。そういう意味では、これまでの公判は、従来の「ペリー来航」に関する解釈は事実の見落とし、お手盛り解釈のオンパレードであったことを説明するためのプロローグにすぎません。
つまり、事実に立脚した開国維新についての本格的な公判は、これから始まるのですが、さまざまな筋道を解き明かすためには、どうしても過去に述べた事柄を重複して述べる機会が多くなりますので、あらかじめお断りしておきます。
すなわち、マンハッタン号の来日では、ミスターXの存在がキーポイントでしたが、ペリーの来航では、実物の四分の一大の蒸気機関車・炭水車・客車・レールなど鉄道一式がキーポイントになります。そして、その背後に行われた政権交代によって、ペリーの第一次来航と第二次来航はひっくり返るくらいに性質を一変させてしまったのです。ベリーを迎えた日本側の政変も、開国維新の終焉といってよいくらいに激変します。そういう波乱要因にきり揉み状態といってよいくらいに激しく翻弄されながら進捗した輸出用生糸の増産もまた、「特需期間中」と「特需消滅後」の分岐点がキーポイントとなり、生糸商の盛衰に大きく影を落とすことになります。その被害の最大の結果が「秩父困民党事件」であったわけです。秩父困民党事件は、たまたま自由党のオルグが関与したために、研究者の注目がそちらへ逸れたにすぎません。本筋を追うには、やはり、フランスの微粒子病克服とイタリアの冷害による国際生糸相場の変動とわが国への余波に目を向けなければならないと考えます。
さて。
ペリー来航を再考証する公判に先立って、輸出用生糸の増産について説明しておさらいに代えます。
輸出用生糸の増産を成し遂げたのはだれか
将軍家慶、老中首座阿部正弘、勘定奉行松平近直、二宮金次郎の改革グループがやったことは、潜在的なものを含めるとどれほどあるかわからないのですが、輸出用生糸の増産も幕末史を語るうえで忘れてはならない大事な仕事の一つです。
横浜開港直後に輸出された生糸は年間約三十万斤(一斤は約六百グラム)、輸出価格は国内流通価格の約三倍。当時、和糸問屋が全国の産地から集めた生糸の総量は年間約五十万斤、うち関東の産地が半数を占めたといわれます。数字の出所は前橋市図書館で閲覧した蚕業界の統計資料です。ちなみに、幕末当時の蚕業界のようすを記録した資料は皆無で、輸出向け生糸の増産がどのように行われたかも不明といわれます。
ここに新たな疑問が湧いてきます。
もし、生糸の増産が行われなかったとしますと、のちに外国貿易が始まって横浜から生糸が輸出されるようになったとき、国内で生産される生糸の約半分に相当する量が輸出されたのですから、京都西陣、仙台平などの国内織元は一大パニックに陥っていなければないのです。
ところが、多少の不足はきたしたとしても、小規模の混乱に留まり、糸飢饉と呼ばれる事態には至らなかったのですから、輸出向け生糸の増産は一応間に合ったと理解すべきです。
そうすると、だれが生糸の増産を担当したのでしょうか。
増産がどのように行われたか、ということがわかれば実行役もわかります。 輸出用生糸の増産は焦眉の急でしたが、五穀制度の制約がありますからおおっぴらにはやれません。土佐藩が行っていたように家臣の屋敷の庭に桑を植えるよう義務づけるほかないわけですが、そうした方法では量的に限界があります。本田畑を桑畑に転換するのが最も効果的で、しかも隠密裏に認めるとしたら、やれるのは徳川親藩しかありません。
川越藩、川越藩前橋御分領、紀州藩、会津藩、尾張藩、越前藩などは、いずれも養蚕が盛んで、しかも、徳川親藩でした。生糸の増産を問題なく速やかに進めるには、これらの親藩に働きかけるのが最も合理的です。
それをやれる立場の人間はだれでしょうか。
