前回の公判では、補給艦レキシントン号のペリー艦隊への参加が第二次来航になった理由を考証して、それが、ペリーの来航が二度になった最大の原因なのかどうか、検証するための新しい切り口として提示されました。
さらに、もう一つの切り口として、「実物の四分の一大の蒸気機関車一式は出来合いなのか、日本向けに新しくつくられたのか」という疑問点も提起されました。
本日の公判では、それらについて本格的に検討するに先立ち、その持つ意義を確認することになります。いつものように、秦野裁判長の論述書を長井検事が代読します。
イギリスに至っては本物の蒸気機関車を持参した形跡すらある
実は、これまでペリー来航と神奈川条約締結までにばかり目が向けられていて、対英露交渉に触れた文献にほとんど接したことがなかった。いつもの癖で自前の年表を作成していて、初めて気づいた事実がそれであった。そのときの私の驚きは、それこそ電撃的だった。やはり、年表は自前でつくるに限ると再確認した次第である。
詳細な記述は今後に譲るとして、横浜村の神奈川条約交渉で、ペリーが最も強く要求したのが最恵国条項であり、第三国としてイギリス、フランス、ロシアを挙げ、次のようにいった。
「他日、日本が第三国とアメリカより有利な条約を結んだ場合、直ちにそれをアメリカにも認める」
これが最恵国条項であるが、以上の事実は「はい、そうでしたか」とすんなり読みすごしてよい事柄ではない。
ペリーが最恵国条項を持ち出した意義は幕府にとって何よりも大きかったのであるが、具体的にイギリス、フランス、ロシアの国名を挙げた意義も負けず劣らず大きかった。
江戸城に詰める海防掛は万次郎の訳文を回覧して、上方言葉の「ほんまかいな」という感じで、まさに瓢箪から駒の思いではなかったか。なぜなら、最恵国条項を盾に取れば、イギリス、フランス、ロシアとも、アメリカと同条件で通商を五年間先送りできるからである。阿部正弘はこれに飛びついた。
北海道を未開地とみなして沿岸を測量してまわり、長崎に国旗を伏せた軍艦を突入させてオランダ商館員を拉致したり、交渉の窓口を浦賀にすると一方的に通告してきたり、これまでの狼藉ぶりからしてイギリスが日本に領土的野心を抱いているのは明白であった。阿部正弘が頭を悩ましていたのは、実はペリーではなくスターリングの来航だったのである。
嘉永七(一八五四)年三月三日、幕府、横浜村応接地でアメリカ使節ペリーと日米和親条約に調印し、下田・箱館の二港を開港。
同年閏七月十五日、イギリス東インド艦隊司令長官スターリング、軍艦四隻を率いて長崎に来航し、ロシアとの開戦を告げ、開港を要求する。
同年八月二十三日、幕府、日英和親条約に調印。
イギリスはロシアと交戦状態に入っていた。スターリングにしてみれば、ペリーに出し抜けを喰って「トンビに油揚げをさらわれた」という感じであったに違いない。「しからば、イギリスは長崎を」と一気呵成に長崎の対イギリス開港と通商を迫った。しかし、幕府は神奈川条約の最恵国条項を根拠に「日米和親条約の中身を超える条約を結べる状況にはない」として応じない。
ロシア使節プチャーチンが率いる艦隊四隻が再交渉の機会をうかがって日本近海をうろついている。英露が牽制し合う状況の中で、スターリングは交渉を長引かせるわけにもいかず、どさくさ紛れの感じで通商を五年先送りした日英和親条約で手を打つほかなかった。
スターリングの長崎来航から一ヵ月少々、最大の難問であった対イギリス交渉が百点満点で決着をみたのだから、阿部正弘にしてみれば、まさに「ペリー様、最恵国条項様さま」であったろう。
年表から以上の事実を読み取れなければ、神奈川条約の値打ちは半減するといってよい。
ところで。
以上のようなことは、これから述べる事実に重みを持たせるための前置きにすぎない。嘉永七(一八五四)年の日英和親条約調印から四年の改正交渉を経て安政五(一八五八)年、ようやく日英通商条約が調印の運びになったわけであるが、注目すべき事柄として、同時期、「イギリスが中国大陸に敷設する予定で本国から運んできた実物の蒸気機関車を長崎で一ヵ月にわたってデモンストレーション走行させた」という記事があることである。
その後、この蒸気機関車が中国のどこに持ち込まれて、実際に走ったのかどうか、該当する記事がないので、目下は未確認情報としておくが、「中国大陸に敷設される予定でイギリスから運ばれてきた実物の蒸気機関車が長崎で一ヵ月にわたってデモンストレーション走行を行った」という事柄は、単独ではあまり重要視されないと思われるが、ロシア使節プチャーチンのミニチュア模型、アメリカ使節ペリーの四分の一大の蒸気機関車、イギリスが長崎に持ち込んできた実物の蒸気機関車という、こうした一連の動きとしてとらえ、将軍家慶の対オランダ蒸気機関車買い付けのオファーに対置すると、未遂に終わったとはいえ、家慶がいかに進んだ考えを持っていたかがうかがえて、衝撃すら覚える。すなわち、輸出用生糸の増産は、幕府財政の立て直しのみならず、蒸気機関車による鉄道網の構築まで視野に入れていたことがうかがい知れるわけだから。
なお。
蛇足ながら、中国で最初に敷設された蒸気機関車による鉄道は、一八七六(明治八)年にイギリスが敷設した呉淞鉄道とされているから、「イギリスが長崎で、云々」の記事と十八年もの誤差があり、あの実物の蒸気機関車はどうなってしまったのかという疑問が残ってしまう。
長井検事が代読を終わるか終わらないうちに、秦野裁判長がいいました。
「ロシア、アメリカ、イギリスの動きは、将軍家慶の対オランダ蒸気機関車買い付けのオファーに集約されるわけだよ。要するに、そこが最重要ポイントということだな」
「まったく、おっしゃる通りです。モリソン号事件をほとんど無視するくらいに軽視して、マンハッタン号の来日に始まり、ミスターXのデフォルメ仮説提起とつづいて、ペリーの実物の四分の一の蒸気機関車に至るまで、こつこつと証拠事実を積み重ねたのは、記録が突如失われた感じの『徳川家慶の政権運営の実在場面』を掘り起こすためだったわけですね」
「さすが、長井検察官、察しがいいね」
「そこを理解しないと、アメリカ政府の伝統的対日外交方針に目が向かないでしょうし、うっかりペリー来航から幕末史に首を突っ込んでしまうわけです」
「それどころじゃない。明治維新には、何の新味もないというところまで、メスが入るぞ。しかし、論より証拠、実はわしのいうジグソーパズル式シチュエーション構築法は、シャーロック・ホームズの証拠重視の推理法と同一なんだ。そのことを再確認して、次回からアメリカ政府の伝統的対日外交方針について言及することにしよう。本日は、これで閉廷」
