パターンに映すと見えるものがある
さて、ところで、家康が結果として二つの退避ルートを用意していたという事実は重大である。光秀が自分の饗応役を受け持つことになっていた時点では本能寺事件など想像のほかであった。このたび『二人太閤記』の考証を小田原合戦と秀長の死から始めたのは、この時点で秀吉黒幕説が信長や家康に伝えられたかどうかの問題解明の伏線に「宗二惨殺」を用いる必要があったためである。
大徳寺人脈の茶人・僧侶が秀吉の陰謀を感知して隠密を放っていたとすると、家康の伊賀越えで柘植三之丞が働いた事実に整合する。本多正信も感知していないと事前の根まわしは不可能だからである。家康人脈が感知したとなると信長に警戒するよう忠告が行われたと見なさなければならない。
以上が事実なら十七日の家康饗応役交代の解釈はあっさり逆転する。光秀謀反というより秀吉の陰謀が感知されたのだから、危機管理的には光秀を先行させ、秀吉討伐もあり得ると示唆した可能性もあり得る。
突飛かもしれないが、ここで、太田道灌と北条早雲をパターン物差しとして持ち出してきて秀吉と光秀に当て嵌めてみよう。
太田道灌にとって不都合だったのは主君であった信長や家康とは違って家臣だったということである。主君扇谷定正は暗愚とはいわないまでも凡愚だったのは間違いないし、山内顕定も大した人物ではなかった。道灌は顕定の家臣に出した書状で次のようにいう。《去ぬる年以来、わが頭を剃りて入道となりけるに、やむを得ず戦場をかけめぐりおりぬ。さだめし、主君よりお讃めにあずかると思いいたるに、さにあらず、しかも、山内上杉殿と扇谷上杉殿が不仲になりける有様にて、まったく不運の至りなり》
書状を出したのは道灌が景春の乱を平定した文明十二(一四八〇)年十一月のこと。頭を丸めた「さんぬる年」というのは、つまり文明六年の歌合わせのときにはすでに道灌を名乗っていたのだから、その前の年、すなわち景春に対する早急な対応を顕定と定正に訴えた文明五年である。
文明五年の場面を再現してみよう。
関東管領山内顕定の執事長尾景信が五十子の陣中で死去したため、子の景春が跡を継いだ。ところが、景春を執事にすると白井長尾氏が三代つづくことになり、今でさえ扇谷上杉氏の倍以上の所領を持つのにこれ以上強大になっては困ると恐れて、顕定は惣社長尾家の忠景を執事に任命した。これを不服とした景春は従兄弟の太田道灌に挙兵の合力を求めた。道灌はこれを拒絶し、五十子に在陣する山内上杉顕定と主君定正のもとへ出かけて諫言を行った。
「景春を懐柔するために武蔵国の守護代に任命し、忠景を執事職から一時はずすべきです」
顕定は聞く耳を持たない。ならばと道灌はいった。
「それがならぬとおっしゃるなら大事に至らぬうちに景春を討つべきです」
「目の前に降りかかる火の粉を振り払うのが先決で、今はそれどころではない」
顕定は道灌の諫言に取り合わず、定正は口添えをしなかった。
このために景春は三年という準備期間を得た。
史料に「道灌」の名が初出するのは文明六年六月に江戸城であった歌合に関する記事というから、早いうちに手を打てば反乱を未然に防げるのに諫言が受け容れられず、さりとてまだ反乱を起していない景春を討つこともならず、道灌は恐らく抗議の意をこめて出家したのであろう。
上杉顕定は太田道灌の「景春を成敗すべし」という意見を聞き流し主君の扇谷定正も受けつけなかっため、長尾景春は反乱の準備に三年間たっぷり費やし満を持して鉢形城で挙兵した。一太刀で平定できるはずだったことに五年間もかける羽目になった挙句、共闘関係にあった顕定と定正が不仲になったのは共通の敵が一掃されたためであるが、どちらかというと原因は顕定のほうにあった。
のちに『永享記』はいう。
《扇谷殿は山内より分国が少なく、軍勢もわずかなれども、太田父子の善政を聞き及び、武功の者の集ること、その数を知らず》
山内上杉氏より分国が少ないどころか、その執事長尾氏の所領の半分しか持たなかった扇谷上杉家が、景春の乱を掃討しながら武蔵国から相模国にかけての大部分を席巻してしまったのである。本来なら定正は論功行賞を真っ先に行わないといけないのに、それをしなかった。
顕定もまた家来から道灌の書状を見せられたなら直ちにヘッドハンティングすれば成功したと思われるのだが、『関東管嶺記』は次のようにいう。
《顕定重ねて密かに申し遣わしけるは、太田道灌はこれ自他ともに邪魔なり、早く計って討ちたまえ。この方には長尾父子を誅して騒動を鎮めそうろうべし、と申されしかば、定正、何の分別もなく、長尾父子を討ちそうらわば太田を誅しそうろうべし、このうえは互いに遺恨あるまじという》
口先だけで「道灌を計って討て」といっても不仲の相手がうんというはずがない。道灌の書状を謀反の証拠に用いたのかもしれない。だとすると、あまりにも人を用いる器量のない対処の仕方である。
良禽は木を選ぶというが、持朝という三代前の名君から先々代、先代とごく短期間に代替わりしたため、道灌としては選択のしようがなかった。良い木があればよいのだが顕定はその器ではなく、さりとて古河公方成氏というわけにもいかないから、結局、下剋上しか活路がなかった。しかし、道灌は下剋上をやるような人ではなかったから運命を打開するすべを持たなかった。
運命の文明十八(一四八六)年七月二十六日、定正は江戸城から糟屋館に道灌を呼び風呂に入れて出るところを家臣曽我兵庫に襲わせて一命を絶った。
「当方滅亡」
これがそのときに放った道灌の最期の言葉であった。
定正は恩賞をもって報いるべき道灌に死を与え、顕定は陰でその蛮行を唆したのである。もう一度繰り返すと、道灌の不幸は天下を動かす資質にめぐまれながら主持ちの家来であったこと、主君にめぐまれなかったこと、さらには下剋上をやれる人ではなかったということであった。
一方、駿河国に再び下向してきた北条早雲は姉の北川殿の子竜王丸を今川家の当主の座に就けて家臣となり、あってもなきがごとき足利氏になり代わるべく上洛する考えだったと思われるのだが、そうなると道灌の運命すなわち「明日はわが身」といえなくもない。成人して氏親を名乗ったばかりの主人が自分を信頼してくれるかどうかわからないし、そうでなかった場合は下剋上しか活路はないのだが、相手は姉の子だからそれもならない。道灌と同じシチュエーションなのである。
問題は早雲が下剋上を断行できるタイプの人間であったかどうかである。
道灌の死というパターン認識なしに早雲が下剋上に踏み切れた人だとしてしまうと従来の人物認識と何ら変わらないことになり、その治世との乖離という不条理を未解決のまま残してしまう。下剋上などやれる人ではなかったし道灌の死からパターン認識を得ていたからこそ、道灌の死が「おまえにはそれしか生き残る道はないぞ」と早雲の背中を押した恰好で起こり得ないはずのことが起き、結果として伝わる歴史事実になったのである。早雲が道灌の死から得たパターン認識に基づいて下した方針は、氏親は上洛の準備に専念させ、早雲はそれを助けながら独自に他を侵略して一国のあるじになることであった。と、なると、対象になる国は甲斐か伊豆あるいは相模しかなかった。
四国国分案変更の恨みを思うとき、光秀には秀吉に負けない謀反の動機があった。秀吉は中国陣に釘づけで動けない、越後の上杉を抱き込めば安土は中空になってしまう、義昭からの誘惑もしきりであった。
「時は今……」
安土近辺で軍勢を動かせるのは堺で四国攻めの準備を進める神戸信孝と近江坂本城と丹波亀山城に軍勢を置く光秀くらいなものであった。光秀は中国陣への援軍をみずから買って出たい。信長は秀吉の腹が読めた以上は光秀の出方を見るため中国陣への応援を命ずる必要性に迫られた。実行に移されると、果たして光秀は坂本城に十七日から二十六日まで滞在、信長、信忠、家康、利長の動きを見極めていた節がある。
俄然、光秀謀反の可能性が浮上した。
秀吉のねらいはそこにあったかと見破った信長側にしてみれば、「なぜ、坂本から動こうとしないのか」という疑問が先に立つ。
(つづく)
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真相に迫る近似値を解析する九つのセンスとノウハウ
これまでの日本史は「俺が、俺が」と個人が勝手に解釈して書き散らかす時代でした。
100パーセント真実といえる事実など時のかなたの当時以外には存在し得ないという大原則に照らすとき、いつまでもそれでよいのかという思いに駆られます。真相に迫る近似値を掘り起こすためにも方法論を用いて確かな道筋を模索し、一致協力してかかる時代の幕開けをもたらす必要があるのではないでしょうか。
そこで、次の九つのセンスとノウハウを駆使して解析する試みを提案します。
◎疑問感受性
(解析の切り口を発見するのに不可欠の疑問を感じ取るセンス)
◎見識物差し
(歴史上の人物の見識レベルで判断する洞察力)
◎モンタージュ法
(踏まえるべき事実群から法則性を持つパターンを選り分けてクロス分析するセンス)
◎因数分解解析法
(発言や手紙文を要素別に分解して思いもよらない背景を描き出すノウハウ)
◎セグメント抽出法
(踏まえるべき事実をセグメントして多重解析により思いもよらない背景を描き出すノウハウ)
◎パターン物差し
(パターンを比較して潜在状況を読み切るセンス)
◎時系列物差し
(踏まえるべき事実を時系列的に相関させて一連の動きを筋道立てて掘り起こすセンス)
◎仮説検証法
(方程式は未知数Xを含む等式ですが、仮説Xを用いて真相の近似値を導く手段です。ただし、仮説Xを立てないと解析が一歩も進まないという場合に限って用いる最後の手段です)
◎ジグソーパズル式多重モンタージュ
(最後に仮説検証法も含めて八つのコツから導かれた解析結果を矛盾なく組み合わせて真相に迫る近似相を再構築します)
記録が少なく既成の解釈や推測まじりの史料から得た事実だけでは解析の精度が低くなりがちなので、極力、埋もれた事実の発掘に努め、解析の精度を高めていく必要があります。
もう、これ以上は不可能というところまで、本講座に終わりはありません。
どのようにして埋もれた事実を発掘していくのか、実例を用いて説明していきたいと思います。
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真相に迫る近似値を解析する九つのセンスとノウハウ
これまでの日本史は「俺が、俺が」と個人が勝手に解釈して書き散らかす時代でした。
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◎仮説検証法
(方程式は未知数Xを含む等式ですが、仮説Xを用いて真相の近似値を導く手段です。ただし、仮説Xを立てないと解析が一歩も進まないという場合に限って用いる最後の手段です)
◎ジグソーパズル式多重モンタージュ
(最後に仮説検証法も含めて八つのコツから導かれた解析結果を矛盾なく組み合わせて真相に迫る近似相を再構築します)
習うより慣れろ
本講座のモットーです。
説明するよりも実例を用いたほうがわかりが早いと思います。これから更新するたびに実例を展開して解析法を演習していきます。
本講座と出会ったのがきっかけで自力で解析できるようになり最高の知的エンターテイメントを手に入れていただきたいと願っております。
記録にない事実を掘り起こす説明するよりも実例を用いたほうがわかりが早いと思います。これから更新するたびに実例を展開して解析法を演習していきます。
本講座と出会ったのがきっかけで自力で解析できるようになり最高の知的エンターテイメントを手に入れていただきたいと願っております。
これが真実だといいきれる事実はない、というのが本講座の基本認識です。
したがって真相を解明するというより真相の近似値を解析するのが本講座の目的ということになります。記録が少なく既成の解釈や推測まじりの史料から得た事実だけでは解析の精度が低くなりがちなので、極力、埋もれた事実の発掘に努め、解析の精度を高めていく必要があります。
もう、これ以上は不可能というところまで、本講座に終わりはありません。
どのようにして埋もれた事実を発掘していくのか、実例を用いて説明していきたいと思います。
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