いずれ大事が事実になるやもしれぬ


 小牧・長久手合戦直後の秀吉のことを松本清張は
『私説日本合戦譚』の中で《秀吉は小牧長久手合戦までが取柄で、関白になってからは愚物に転落した。こんな人間は、当面の敵がみんな無くなって、ただひとり、最高位にのこってしまえば一種の虚脱状態になる。小牧長久手までは、とにかく彼の攻撃すべき標的があった。そこに秀吉の人生目的があり、実力以上の力が発揮された。だが、その目的をうしない、張りあいがなくなってくると、頭脳がおとろえる。バカバカしい贅沢のなかに据えられ、追従ばかり聞かされていると、どんな天才でも鈍化しよう》とこき下ろしている。小牧・長久手合戦直後の家康との和睦交渉で秀吉が見せた醜態と太閤になってからの愚物ぶりは、そういわれても仕方がないわけであるが、そのへんの考証は先へ譲るとして、信長の天才性を如実に示した桶狭間合戦に秀吉がどうからむかを考証することにしよう。

 前野家文書『武功夜話・信長編』に目を通して驚いたことは、秀吉が桶狭間の合戦のとき清洲城に残留して参戦していなかったことと、信長がほとんど生駒屋敷に入り浸りだったことである。信長と秀吉の接点も生駒屋敷が舞台で彼が久庵吉乃に取り入って、彼女の口添えで仕官に道を開いたのだという。


 清洲城から遠く隔たること約四里、当時、生駒屋敷は信長の深謀遠慮による対今川戦略の「陰の大本営」になっていた。ここでいう信長の深謀遠慮とは梅雨から初夏にかけて午後になると尾張地方を襲う猛烈な村雨を利用して今川軍に接近、当時としては三間槍、三間半槍という破格の長槍で敵兵をなぎ倒すというもの。そのために信長はあえて正規軍をはずし、非正規軍を鍛錬したものと思われる。それまでの信長のいくさは身内の骨肉相食む消耗戦で厭戦気分が浸透して使い物にならなかったからである。家来の太田牛一がのちに記録した『信長公記』は十六、七歳当時の信長の消息を次のように伝えている。


《信長十六、七、八までは、別のお遊びは御座なし。馬を朝夕御稽古、また、三月より九月までは川に入り、水練の御達者なり。その折節、竹槍にて叩き合いをごろうじ、兎に角、槍は短くそうろうては悪しくそうらわんと仰せそうろうて、三間柄、三間々中(三間半)柄などにさせられ、そのころの御行儀、湯帷子の袖をはずし、半袴、ひうち袋、いろいろあまた付けさせられ、御紙は茶筅に、紅糸、萌黄糸にて巻き立て、結わせられ、大刀、朱鞘をささせられ、ことごとく朱武者に仰せつけられ、市川大介召し寄せられ御弓御稽古、橋本一巴を師匠として鉄砲御稽古。平田三位不断召し寄せられ、兵法御稽古。御鷹野などなり》


 正規軍の調練というには程遠い描写である。それでいながら、遊びといえるような気軽なものでもなさそうだ。


やってくるのは今川か、はたまた武田か、桶狭間の合戦まで六年余、雨中の合戦を想定してわざと動きにくい水場で稽古を積み重ねるわけだから、戦意が旺盛でなければならなかった。と、なると、非正規軍を密かに編成して鍛え上げるほかないわけである。


 それにしても、なぜ雨中の合戦なのだろうか。


 尾張・三河地方は梅雨時から夏場にかけて午後になると「にわかに急雨、石氷を投げ打つように、敵の面に打ちつくる。味方は後のほうに降りかかる」というほど激しい驟雨に襲われることがある。前へ進もうとしても息ができないくらいだから馬を駆って進むなど訓練なしには不可能である。


かつて私が取材で生駒屋敷跡へ向かっていたとき車のワイパーが作動しているのにフロンドガラスが雨水の幕に覆われて視界が利かなくなった。車を路肩に寄せて停車して三十分近くかけてやり過ごしたほど物凄い降りようだった。もし、車の中でなく外で驟雨に遭遇したら、行動は不可能だったと思う。


 もし今川が攻めてきたときこの村雨を利用することができたら……。


 可能性はゼロではないわけである。「信長十六、七、八までは、馬を朝夕御稽古、また、三月より九月までは川に入り、水練の御達者なり」というのは、ゼロとはしない可能性にピンポイントに目標を定めたがゆえの軍事調練と解釈すべきであろう。


《ここに醜きことあり。街をお通りのとき、人目をもお憚りなく、栗、柿は申すに及ばず、瓜をかぶり喰いになされ、街中にて、立ちながら餅を頬張り、人に寄りかかり、人の肩につら下がりてよりほかは、御ありきなくそうろう。その頃は、世間公道なる折節にてそうろう間、大うつけとよりほかに申さずそうろう》


 太田牛一が記す「ここに醜きことあり」以下は今川義元に自分を侮らせ油断を誘うための信長の擬態なのである。


 織田上総介、相手に値せず。


 油断の先に信長が仕掛けた乾坤一擲の罠があるわけであるが、今はその罠を効果的にするための擬態とだけいっておこう。


さらにはまた今川義元の上洛は時間の問題なのに信長は一度も評定らしい評定を開かなかった。それどころか、想い人久庵吉乃がいる生駒屋敷に入り浸り、生駒家長、前野将右衛門、蜂須賀小六ら、外部の人間ばかり身内同然に扱っていた。これもまた今川義元を油断させる策の一つとしておこう。今日の選挙にたとえると生駒屋敷が「影の大本営」だったわけである。


今川上洛が現実味を帯びても織田家の家老も重臣も女子どもら家族を安全な場所に避難させるといった程度の意見しか持ち合わせなかった。いくら議論しても結論がそこに落ち着くほかないのでは評定などやるだけ無駄というものである。信長が必要としたのは評定でも議論でもなく、自分に命を預けていわれた通りに動く生駒家長、前野将右衛門、蜂須賀小六ら外部の腹心であり、不惜身命の働きをしてくれる親衛隊であった。織田家の家老や重臣をオミットして親衛隊と評定するには生駒屋敷が最も適していた。


今川義元上洛の動きをキャッチすると、信長は家長、前将、小六を走らせて桶狭間近在祐福寺村の村長藤左衛門に命じて、次の品を今川義元に献上させるよう手配した。


酒一〇樽、昆布五〇連、米餅一斗分、栗餅一石分、唐芋煮つけ一〇櫃分、天干大根煮染め五櫃分。


 なぜ桶狭間なのだろうか。


 桶狭間山田楽狭間近辺の地勢を「脇は深田の足入れ、一騎打ちの道」と『信長公記』は伝える。田楽狭間を戦場にすることができたら望みの雨が降らなかったとしても兵数の差による不利はかなり減殺される。まして本命の急雨がこようものなら戦勝の確率は数倍する。まず雨を頼みにして決戦の覚悟を固めたが、それだけでは確率が悪いと考えて、迎撃の場として田楽狭間にねらいをつけたのである。


 永禄三年三月、今川義元が上洛軍四万五千を発向させる準備に着手。いよいよ、運命のときが迫った。信長はこの日も生駒屋敷にいた。蜂須賀小六が今川上洛の情報をつかみ、生駒家長が信長に耳打ち、二十七歳になった信長は五つ年上の最愛の恋人吉乃(本名お類)の前で幸若舞いに没頭していたが、俄然、瞳を光らせてつぶやいたという。


「いずれ大事が事実になるやもしれぬ。それを思うと武者震いがとまらない」


 信長は吉乃と二人だけになるのを望み、幸若舞「敦盛」を舞った。


「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」


 映画や小説では清洲城の評定がお開きになってから舞う有名な場面なのだが事実は違うようだ。場所は生駒家、相手は永遠の恋人吉乃のみ。のちに信長は病に臥せったこの恋人のため至近の小牧山に新たに城を築いて清洲城から本拠を移したほどである。しかも、その人が病没すると三日三晩部屋に籠もって涙にくれたという。この事実は前にも述べた。信長は一人の女性のために新しく城を築いたばかりか、苦心して手に入れた清洲の本拠をあっさり捨ててしまうほど愛に殉じた人だったのである。桶狭間合戦ピンポイント勝利の方程式を思いついたのは、この人を今川の軍勢に蹂躙されたくないという一途の思いだったのかもしれない。


 清洲城に戻った信長は素知らぬ顔で義元を待ち受ける。今川軍が国境に迫ったとき、信長は初めて評定を催した。しかし、催しはしたものの本人は雑談に時を費やし肝腎のいくさのことについては口をつぐんだままだった。


《その夜のお話、いくさの手立てはゆめゆめこれなく、いろいろ世間のご雑談までにて、すでに深更に及ぶの間、帰宅そうらへとお暇下さる。家老の衆申す様、運の末には知恵の鏡も曇るとはこの節なりと、おのおの嘲弄して罷り帰られそうろう》(信長公記)


 折角の深謀遠慮を話しても理解できない家臣団をいかにしてリストラすべきか。


信長の脳裏にはすでにこうした課題が胚胎していたのではないだろうか。このことはあとで触れるが、それも信長のいうように六、七年も前からピンポイントにねらいすましてきた「いずれ大事が事実になって」からのことである。

(つづく)




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