家康の伊賀越え、秀吉の瀬戸内返し、秀長の備中大返しは同一パターン


 これまでは秀吉が備中大返しの当事者とされてきたわけであるが、前野家文書『武功夜話』が出たことで真っ赤な嘘だったことが暴露されてしまった。前野家文書『武功夜話』は次のように記す。

《一、筑前様は岡山の宇喜多のところをお発ちになると、沼に出られて、これより先、八末、三石からは船坂の嶮路が、退去中の味方の軍勢で混雑するので、早船を仕立てて海路を姫路へ帰城すべくお考えになったようだ。蜂須賀彦右衛門を呼び寄せると、直ちに伊部浦に使いの者を派遣し、ひそかに早船の準備をなされたのである。

 一、筑前様は入間から御乗船になったが、扈従の者は主人・彦右衛門(蜂須賀正勝)、生駒甚助殿のほかは、御馬廻衆の十六名のみであった。人目に隠れての早立ちにつき、家中には誰一人として知る者もいないので、前将(前野長康)様に報告すべく、夜を日についで駆け、即刻、赤穂岬へ到着すると、筑前様をお迎えするよう申し上げた。

 一、天正十年六月六日午後四時、筑前様は播州の赤穂岬に御着船になった》

 以上、世にいう「備中大返し」は実は秀長が単独でやったことになるわけである。

では、秀吉が船を使って急いだのはいかなる理由によるのかというと、伊賀越えを敢行して白子湊に出た家康が、生死を共にした一行を置き去りにして、さっさと船で三河に渡ってしまったのと同じパターンである。俗にいう「いのちあってのものだね」の保身の行動であるが、光秀討伐をだれもが天下取りの最初の一手と受けとめたときに死んだらそれまで、せっかく遠大な計画を描いても死んでしまっては何にもならない、そういうスケールを持った前向きの保身である。こうしてみると、前述した「明智光秀を討ったくらいで秀吉を信長の後継者として認めてしまうのは結果を原因にすりかえる論法の類で感心しない」という認識に若干反するのだが、時系列的にこの段階ではそういう認識だったと考えるのが妥当と思う。光秀を討ったくらいで云々という認識はその後の推移を勘案してのことなだから。

 さらにパターンに照らしていうならば、家康一行と同様に秀吉もまたあらかじめ予定のルートを持っていたことにも着眼しないわけにはいかないだろう。 秀吉があらかじめ予定したルートとは、藤田達生氏が提起した次のルートである。

拙著では、秀吉が光秀のクーデターをあらかじめ予知していた可能性を指摘した。なによりも、自らが光秀を追い込んだ(引用者註・四国国分案の変更)ことから、当時の秀吉は光秀の行動を相当に警戒していたであろう。

 その証拠の一端として、クーデターの二日後の六月四日までに、秀吉方が備中高松から播磨国姫路を経て但馬国へ北上し、山陰道経由で京都そして近江国長浜までの通路を確保していたことを挙げた。これを単なる偶然の幸運と断言できようか。山陽道(西国街道)ではなく、このような迂回した不自然なルートを確保しえたのは、それまでもこの経路を通じて、光秀の情報を収集していたからではなかろうか。

 また拙著では、秀吉がクーデターの背後に潜む人脈や政権構想の詳細まで知っていた可能性まで指摘した。光秀が最も信頼していた与力大名・細川藤孝が、毛利氏が動かないことを確認したうえで、保身のためにクーデターに関わる最高機密を秀吉に密告した蓋然性が高いからである。

 なぜ、最前線の秀吉が、約二〇〇キロもの長距離を、異常な速度で、しかも光秀方勢力を的確に掃討しながら京上し、決戦において快勝するといった「奇跡」を実現しえたのであろうか。我々は、秀吉が従軍作家・大村由己などを通じて創作させた数々の「神話」に、いまだ幻惑されてはいないだろうか》

 すなわち、姫路から北上して山陰道経由で京都そして近江国長浜までが、秀吉が準備した一朝有事の際の軍事行動ルートだったわけであるが、本能寺ノ変というかたちで有事が起き、光秀が秀吉の予想する姫路城攻めに出ないで安土城へ向かったため軍事的行動の面で山陰道経由のルートは無用になった。光秀は秀吉が考えたような私怨の行動には出なかったのである。そこに秀吉の読み違いがあった。

 姫路から先はそうだったとして、問題は備中高松から姫路までのルートである。藤田達生氏は備中高松から京都まで一〇〇キロとしておられるが、備中高松と姫路の区間、姫路と京都の区間は時系列に対応する出来事の意味合いをまったく異にするから、一つのカテゴリーで括ってしまわないほうがよいと思う。姫路までは予定の行動を取った秀吉ではあるが、姫路にきてからの秀吉は二つか三つの大きな誤算に当面して、当初の目論見をかなり修正して行動した蓋然性が高いからである。

すなわち、秀吉が意図した本来の行動パターンが「瀬戸内返し」だとすると、秀長の「備中大返し」はあくまでも結果であり、秀吉が書いたシナリオにはなかった可能性が高い。光秀の本能寺襲撃後の行動にしてもしかり。特に備中大返しに関するかぎり、秀吉にとっては快挙というより大きな誤算であったという切り口から真相に迫る必要がありそうだ。なぜなら、本能寺事変級の変事の画策は信長だけでなく秀長をも取り除くことを目的としていた可能性が高く、もしそうだとすると対秀長の画策が備中大返しというかたちで誤算に帰したことにより、今後、それに代わるアイデアを考える必要性が生じるからである。それによって今回の講座の3回目で触れた秀吉と秀長の間に生じた溝の「本当の意味での分水嶺」がこの時期に絞り込まれることになり、結論として、この時期に生じた世間の目に触れない溝(原因)が小牧山合戦を境に顕在化(結果)していったという構図が見えてくる。

 と、なると、秀吉にとって、瀬戸内返しというほかない自身の行動を含めて「備中大返し」とは何だったのだろうか。

(つづく)




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