家康と秀吉、その無言のメッセージ


 小牧山合戦の背景のうち解析すべき残る一半が家康から見た羽柴家の内情である。本能寺事変勃発から京洛脱出までわずか二日間、秀吉が姫路城に入った六日夕刻前、そのときすでに家康は岡崎城にいた。

 家康というやつはこんなにも凄いやつだったのか。一体、どうやってあのピンチを脱したのか。

 答えを知るために偵察を放ち、戻った偵察から伊賀越えの詳細な報告を受けて秀吉が驚くところへ、秀長が雨と泥で真っ黒になった姿で到着した。

「今日は何日だ」

 と、驚いて迎えた秀吉が思わず腹心の蜂小六に聞いた、というのはフィクション。

 秀長にはこんな能力まで身についていたのか。

 外なる敵・家康……。

 内なる敵・秀長……。

 秀吉が自分を掣肘してやまない秀長に唯々諾々として従ったのは信長が後ろ楯になっていたからだ。信長が亡くなったからには秀長に従ういわれはなくなった。家康が伊賀越えを敢行したことを知る以前、加えて秀長が備中大返しをやってのける前まで、秀吉はそのつもりだった。しかし、秀長がやった備中大返しに敵も味方も驚いたくらいだから、秀吉が驚かないはずがなかった。世間の認識と事実の異なる点は秀吉も秀長と一緒だったと誤解している点だけである。

 これだけの能力と人間的魅力を持った秀長を殺してしまう。それに何の利があり、損失があるのか。

 もちろん、秀吉が秀長を除いて得られる利は「公儀は秀長に図らせ、内所のことはお寧に諮れ」という「藤吉郎時代からの桎梏」から逃れること。損失は家康を味方にからめ取る手駒を失うこと。余の細々とした利害得失は無視してよい。どちらに優先順位があるだろうか、と秀吉はソロバンを弾いた。

 秀吉には秀長抜きで家康を操る自信がなかった。のちに秀長に死なれたときに「大納言、俺を一人にしなや」といって号泣したときの秀吉には、「家康がまだ健在だというのに」という省略された接頭語が気持ちの底にあり、その思いは死を迎えるまでつづくのである。

 おのれを掣肘する手枷足枷を取り除くために長い期間かけて下剋上の起爆剤を仕掛け、今、見事に爆発を見、これから成果を得ようという矢先、それを二の次にし、家康を味方に取り込むために秀長を生かす……。

 普通ならあらかじめ仕組んだ通りに突っ走ってしまうのだが、秀吉という人間はそうではなかった。世のため人のために知恵を働かせるようなことは決してしないが、ひとたびおのれの利害がからむと破天荒というほかない知恵を働かせる、ここが秀吉の恐ろしいところなのである。

 家康にも秀長同様にその能力資質には端倪すべからぬものがある。秀長の備中大返しよりもはるかに難問の伊賀越えを成功させた家康は、岡崎に帰着するとすぐ出陣の準備にとりかかった。しかし、安土に伺候するためには戦備を解かねばならなかった。本能寺事変を関知したのは安土城伺候のときだったから、再軍備に時間がかかってようやく出陣に漕ぎつけて鳴海に進出したのは六月十九日であった。そこで去る十三日の山崎の合戦で秀吉が勝利したことを知ると潔く岡崎に引き返した。

 なかなかこうはさらりといくものではない。せっかく再軍備してきたのだから、普通ならそのまま進軍して秀吉を倒し天下を手中にしようと図るものである。しかし、家康は違った答えを選択した。備中大返しを秀吉がやってのけたと勘違いしたことが理由のうえで大きかったに違いない。

 さて。

 ここでまた、気づいたことがある。本能寺事変の家康黒幕説はすでに否定した通りであるが、ここでもまた否定材料を得た。家康黒幕説が事実なら、家康が「安土に伺候するためには戦備を解く」というようなヘマをするだろうか、ということである。するはずがないから家康黒幕説はないことになる。光秀討伐という観点からいうと、家康らの立ち遅れに比べて秀吉の手際が突出して鮮やかである。考えれば考えるほど秀吉は真っ黒になっていく。

 ところで。

 秀吉と秀長の人物像ばかり見つめてきたが、家康はどういう人だったのだろうか。パターンに照らしてみるとよくわかるのだが、一つのエポックをなした桶狭間合戦のとき家康は信長の敵方にいたのに無事を得たにとどまらず、戦後、間もなく織田徳川同盟を結んだ。そしてまた次のエポックをなす本能寺事変後の小牧山で敵対しながら直後に秀吉と和睦し、秀吉が死ぬまで平和条約を守った。ここに家康という人間の一つの特質というかタイプがあるようである。加えて家康の事に臨む姿勢を事実に語らせるとすれば、秀吉の死後、石田三成が福島正則、加藤清正、加藤嘉明ら豊臣子飼いの大名七人に命をねらわれて家康の向島の館に逃げ込んだときのことを持ち出せばよい。

 松本清張は『私説・日本合戦譚』中の「関ヶ原の戦」でいう。

《三成としては、死中に活を求めた行動で、七将の意表をついたわけだ。しかし、三成には、家康が自分を殺すことはないだろうという確信があったろうと、多くの史書は伝えているが、それは結果論であって、このとき三成の心中は、生死五分五分の目算ではなかったろうか。家康が自分を殺さないという保証は、どこにもなかったのである。

 現に三成が救いを求めて飛び込んだ夜、家康は、その参謀、本多正信を呼んで三成の処置を訊いている。

 正信はそれに答えた。

「いま石田を殺すのは容易ですが、もし、この時機で石田を殺せば、大名連中は勝手な熱を吹くでしょう。しかし、彼を助けておけば、諸大名は三成憎しでかならず一致して殿にお味方するでしょう。いま石田を殺すのはもったいないですよ」

 家康は、それを聞いて、

「実は、おれもそう思っているところだ」

 と大いにうなずいたという。

 つまり、正信のいうところは、諸大名はいま三成憎しでかたまっている。彼らの共同の敵である三成を今、消してしまえば、七将の目標がなくなり、自我に返って、かならずしも家康に味方するとは限らないというのである》

 このことは関ヶ原合戦の講座で取り上げることだとは思うが、三成の挙兵の動機と深く関わりがあり、挙兵に反対した大谷吉継が翻意して三成に味方する際の判断材料となる極めて重要な事実で、二人の間に友情などかけらも存在しないし、存在するわけがないとだけいっておこう。ここで以上の事実を引用したのはそういうことをいうためではなくて、家康が目の前に餌をぶら下げられても決して結果を欲しがらず、物事に対して常に合理的に対処したことを裏づけるためである。

 秀吉と戦って得るものはなくなった。勝てる見込みがあるなら話は別だが、備中大返しという「製品カタログ」を見せられた今、戦うことの不利を素直に認めて引き返すのが賢明と判断したわけである。

 その後の展開は織田家の跡継ぎを幼い三法師君に決めるための清洲会議、秀吉が織田信雄と信孝を弾劾する口実を得ようとして独断的に催した大徳寺における信長の葬儀という流れを受けての織田信雄の援軍要請となり、信雄の要請を拒むわけにはいかないが、秀吉との全面対決も考えものである、しからば、どうしたらよいかとなったとき、恐らく本多正信あたりが小牧山城址を総構えに修築するアイデアを持ち出したのではないだろうか。

 家康がわざとらしく小牧山に総構えの城を築いて入ると、秀吉は十万の大軍を楽田に進め対峙して動こうとはしなかった。

 以上は家康と秀吉の行動による無言のメッセージなのである。二人はお互いにメッセージを確認し合った。あとは和睦の条件の落としどころを探るばかりだ。必要なのは外交的な駆け引きで、犬山城と対峙させるかたちで家康の前から遠ざけた秀長が潜行して織田信雄と和睦の交渉を進める矢先、池田勝入が長久手の手痛い敗戦でミソをつけたのであった。しかし、秀吉が池田勝入の軽率な好戦論を認めてしまったという事実はマイナスに大きく働いた。家康を相手にして常勝のまま和睦の交渉に着手するのと、相手に手痛い打撃をこうむった直後に交渉を切り出すのと、どれだけ大きな開きが出ることか。秀吉は家康に間違ったメッセージを送ってしまったのである。

「長久手の敗戦が、どれだけ交渉を難しくさせたか、兄貴、おれはもう協力するのが嫌になった」

 秀長としてはそういって秀吉に喰ってかかりたい気持ちではなかったか。長久手の敗戦のみでなく、羽柴家には秀長にストレスが溜まるようなことが頻発しはじめていた。

羽柴家の内紛……。

秀頼が秀吉の子ではないという議論はまだ枝葉末節であると、そういいたくなるような深刻な葛藤が秀長の病を契機にして始まり、小田原合戦という一大イベントの陰に隠れて深刻の度合いを深め、秀長の死が引き金となって利休抹殺となり、大和大納言秀長家断絶、関白秀次家断絶につながっていく。こうしたことをも踏まえて考えると、秀吉という人物キャラクターは隠々滅々、はっきりものをいうどころか常に人影や物陰から事物を操るパターンが浮き彫りになり、そのパターンに照らすとき、秀吉が楽田から大坂に避難したのは「家康と戦う意思がない」という主に秀長向けのメッセージだった可能性が高いのである。

吉川英治『新書・太閤記』の秀吉像とは天地がひっくり返ったほどの開きが生じてしまうのだが、あちらは文豪の想像力(創造力)のなせるわざで、最早、ノンフィクションと理解する人はおるまいと思う。小説とは「整理的にこころよいウソ」なのである。かくいう私自身も『関ヶ原前譜』(ある逆臣の生涯)で主人公片山伊賀守延高の晩年の事実のみ採用して、前半生はまったくのフィクションで書きつづった。そのために「歴史考証の基本を怠っている」とどこかでお叱りを頂戴したが、小説とはそういうものであるとご理解いただくしかないであろう。

(つづく)




ブログランキングに参加しています。
↓ポチッとお願いします↓
人気ブログランキング