秀吉、分家撲滅を策す


 羽柴家の内紛という耳慣れないカテゴリーの解析にこれからチャレンジしていくのであるが、それが対家康和睦というおもて面と表裏一体をなしていることを常に念頭に置く必要がある。

 そのためにも、時系列物差しをずっと先にずらして、文禄四年四月十六日に起きた秀保の奇禍について述べることにしよう。秀保は秀吉の実姉日秀の子で、数少ない血のつながった身内であるが、幼少から問題行動が目立つ鬼子であったから、秀保の奇禍は彼を大和大納言家に養嗣子として送り込んだ秀吉には当初から予測されていたことであった。果たして秀保は領地を視察して臨月に達した妊婦を見かけると、家来に「腹を割いて嬰児を取り出して見せよ」と命じ、泣いて命乞いするのを無視して決行させたり、罪のない領民を成敗するなど、日常茶飯事のように非道の振る舞いに及んだ。したがって、秀保が舟遊びをするために十津川にきたとき小姓が抱きついて崖から飛び降りたという伝聞事実も、領民の側からしてみれば必然の帰結であったといえる。

 秀吉が秀保の破綻した人格をあらかじめ知ったうえで末をよくはすまいと読み切り、大和大納言家に養嗣子として送り込んだのだとしたら?

 あえてそれを「企み」とみなすからには理由があってのことである。

本能寺の変を受けて、秀吉が謀反人光秀を討ち、天正十(一五八二)年六月二十七日、織田家の跡目相続を議する「清洲会議」が開かれた。会議の結果、織田家の跡目相続者に秀吉の主張する三法師君(秀信)が決まったのは織田家宿老丹羽長秀の賛同が大きく影響したといわれる。光秀は惟任、丹羽長秀は惟住、二人のみが廷臣として由緒ある姓を賜った。その一方の光秀がいなくなって、残ったもう一人惟住長秀の存在の重みは倍加していたはず。そこに秀吉が長秀を籠絡するいわれがあった。

では、丹羽長秀はなぜ秀吉に肩入れしたのだろうか。

 光秀を討ったのが秀吉の第一の功績、それはだれもが認めるところ。加えて秀吉は長秀の三男仙丸を秀長の養子にすると約束した。竹中半兵衛、前野将右衛門、蜂須賀小六らで構成されるエリート・グループのトップである秀長の養子にできたら、長秀にとっても仙丸にとっても大いに今後のためになる。桶狭間不参加の秀吉を信長が殺さなかったのは彼が「自分が殿様の幕下にエリート・グループをつくってみせるから」と請合ったためだろう。この程度はまだ秀吉の才智の片鱗としておく。

一方、人物鑑識眼に秀でた秀長が仙丸を養子に迎えることに同意したのは惟住長秀の子で、しかも人間的にみるべきものがあったからである。ところが、それから時を経て秀長が大和大納言となって病の床に臥すと、敢然、秀吉は秀長に仙丸を廃嫡して姉日秀の子秀保を養子にして継嗣に直せと迫った。俊秀と評判の仙丸と極悪非道の秀保とでは比較にもならない。さすがに温厚な秀長も激怒し、秀吉との仲が険悪になり、ようやく幕切れ近くなって羽柴家改め豊臣家の内紛が世間の目に触れたのであった。

 さて、中間の推移は不明ながら、家老の藤堂高虎が廃嫡された仙丸を養子に迎え、結局、秀保を養子とし継嗣に直すことで一件落着した。秀長の気持ちは秀吉からますます離れていった。しかも、病は重くなるばかり。秀吉にとっては、最早、秀長は利用価値のない人になりつつあったから、そのような手段に出たとしか考えられないのである。秀吉は分家の継嗣に介入して仙丸を廃嫡し代わりに秀保を養嗣子に送り込んだうえで小田原北条氏討伐を宣言した。すなわち、小田原攻めは秀吉が秀長ぬきで臨んだ最初で最後のいくさということになるのだが、実はこれが史上最大の未解明事実満載の合戦なのである。そのことは第五回の講座で完膚なきまでに解析しつくすつもりなので、今は予告にとどめておく。

 結局、何がいいたいのかというと、秀吉の知恵の破天荒さである。この問題にだけかかりきったわけではないが、秀吉の悪魔的才智に気づくのに二十五年、悪魔的才智をかくかくしかじかと説明できるレベルまで具体化するのにさらに五年近い歳月を必要とした。決して自慢していうのではなく、本講座の記述が単なる思いつきの所産ではないことを知って欲しいがためにいうのである。

 秀吉の悪魔的才智の破天荒さは人智を超えたものだから、解明しようとチャレンジすること自体おこがましいのであるが、ほかにやる人もないこととて仕方なく私がやったのだが、以下、「疑ったらきりがない」の類いで退けられても仕方がないと潔く観念するくらい秀吉の邪神ぶりは芸術的なのである。清洲会議のあと秀吉は織田信雄を押し立てて織田信孝を奉じる柴田勝家を滅ぼし、自身は大坂を取り、大坂にいた池田勝入を美濃国大垣に移し、勝家の領地には丹羽長秀を入れた。光秀の領地には身内の秀勝、秀次を入れたから問題なしとして、問題は大坂を奪われた池田勝入の処遇であり、一挙に広大な領地を得、なおかつ秀長と養子縁組で強固に結びついた丹羽長秀対策であった。

 まず池田勝入からいうと、小牧山合戦でだれからも後ろ指を指されないで勝入を葬るチャンスを得た。すなわち、池田勝入が連日のように楽田の本営に押しかけて秀吉に「進歩的具体的作戦行動」に出るようにとせっついたことは前に述べた。

「今なら岡崎城は手薄でがら空きも同然だ。迂回して攻め込めば簡単に落とすことができよう」

 家康が無防備ともいえるほど本城を手薄にしてまで小牧山城に籠城するからには「岡崎城は手薄で、がら空きも同然」という認識は当然のように持っており、万一、秀吉が自分のメッセージに気づかないで岡崎城を攻めた場合の対策も考えて、備えを怠らずにいた。秀吉もそれを十分に認識しておりながら勝入を抑え切れなかったことから、前回は見えているまま「勝入を抑え切れなかった」と述べ、苦し紛れに理由を「秀長が側にいなかったから」としたわけであるが、「あとで反逆する恐れのある池田勝入を死に至らしめるまたとない絶好のチャンス」と考えて、あえて折れて出たとしたらどうだろうか。

 なお、池田勝入の働きかけではなく、秀吉自身の考えから出たとする説もあるらしいが、そうしたことに本講座の解析はまったく影響を受けないから、無視しておく。

 秀吉は羽柴秀長・丹羽長秀についても同じように考えた。丹羽長秀の子仙丸は単に利用しようとする「長秀の子」という認識でしかなかったのだが、実際に会って観察するうちにその人品に恐れを抱くようになった。その仙丸を羽柴家の分家秀長家から排斥するための廃嫡が、目的としては時系列的に先で「しからばどうすればよいか」と思案した末の結論が秀保の養嗣子擁立であった。

 羽柴仙丸は元服して高吉を名乗るのだが、姓は藤堂に変わっていたごとく、大和大納言家を襲った嗣子廃嫡騒動は同家家老の藤堂高虎が彼を養子に貰い受けて一件落着をみたのであるが、その高虎でさえわが子が生まれてからは高吉を疎んじたというほど彼の人品は秀でていた。関ヶ原合戦で大谷吉継の首を埋めた場所を知りながら知らぬ顔で通し、戦後になってから墓を建てた事実に語らせるだけで、その人となりの香りは推測されよう。

 大和大納言秀長卿存命のうちは在坂中の宿所を秀長邸に求めた家康が、その死後、藤堂高虎邸に変更したのは彼もまた信ずるに足る男と認めたからであろう。そうした高虎でさえ忌避したくなるほどおのれをはるかに超えた人品の持ち主、それが仙丸、のちの高吉であったとしたら。

 おのれの都合でやったことなのに、

「とんでもないことだ。おれとしたことが、ぬかったわ。道理で秀長のやつ妙におれに寛大になったと思っていたが、原因は仙丸にあったか」

 小牧山合戦直後から秀長はのちに死に至る何らかの病気を発症していたのだと思う。それだけに仙丸を養嗣子にしたことは秀長の大きな喜びであったはずである。

「秀長を最大限に利用しながら滅ぼしてしまう」

 かくのごとき高等戦術を進めてきた秀吉であったが、いささか勝手が違ってきた。そのための対策として仙丸の廃嫡・秀保の養嗣子擁立であったが、秀吉は家康との和睦を最優先して、ひとまず、その陰謀はおのれの腹にしまっておくことにした。

 と、まあ、こうした筋立てで考えると、織田信孝と柴田勝家は騙まし討ち同然に滅ぼし、長久手で池田勝入を死なせて、秀吉の思惑が着々と実現していったことになり、その悪魔的智恵の冴えに「恐れ入谷の鬼子母神」ということにならざるを得ない。

 秀吉の遠大にして壮大なる陰謀に秀長が気づいたのは間違いないのだが、秀吉のやり方があまりにも才智巧みで見事であったため、気づいた時期はまだ特定できない。


(つづく)




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