家康は秀吉の疑いを巧みに逸らしただけでなく、緒戦をまんまと秀吉本隊に押しつけてしまい、秀吉のいる早雲寺本陣との間に小田原城を挟む恰好で対峙することになった。しかし、前田利家らの北国隊は大道寺政繁が守る松井田城に釘付けで身動きもならない。
実は、ここにも小田原合戦を読み解く一つの「キー」がある。
先鋒でありながら山中城攻めを嫌がる家康の我儘を秀吉が黙認したのは彼が酒匂口に布陣すると明言したためであったとは前述したことであるが、もし、北国勢が予定通りに「タマネギの皮むき」をやっていたら、家康はどうなっていただろうか。
山中城攻防の段階では、前田利家、上杉景勝、真田昌幸といった歴戦のいくさ巧者が松井田城一つを抜くのに一ヵ月余も費やすなど、家康にも、秀吉にも、想像すらできなかったはずである。
すると、どういうことになるか。
ここにも暗号文が埋め込まれている。結論だけここで先に述べておくと、家康にだけはその予測がある程度ついていたか、あるいはほかに北国勢と秀吉本隊に挟撃される危険を回避する策があったとしないと、家康の酒匂口布陣はあまりにも無謀である。それゆえにこそ、秀吉は取引として家康の我儘に快く応じたわけである。
さて。
ここまでを小田原合戦の前段とすると、中盤に位置するのが石垣山一夜城の着工であろう。終盤に何がくるかはそのときを待つことにして、時系列的に推移を追うことにしよう。
天正十八(一五九〇)年四月三日、秀吉は家康が戦闘らしい戦闘もなく奪取した鷹之巣城に本陣を置き、翌日にかけて陸兵十一万、水軍一万四千による第一次包囲網を完成させ、第一回総攻撃を敢行した。もちろん、総攻撃は戦果なしに終わった。
同月六日、秀吉は本陣を鷹之巣山から早雲寺に移した。翌七日、秀吉は第二回総攻撃を敢行する。水陸十二万余で総攻撃というといかにも大規模な合戦が行われたように感じ取れそうだが、包囲陣のすべてが戦闘に参加したとはかぎらない。随所に櫓を構築した外郭大土塁は実に堅固で一部さえ抜くに至らず、またしても戦果はゼロに終わった。
いくらなんでも本気で挑みかかってこの結果はないだろう。二度とも戦果なしということはいくさがポーズだけであったことを意味する。京を発つとき、秀吉は「一人として兵を失わずに北条方の兵を皆殺しにしてみせる」と豪語した。
秀吉がこの言葉を口にしたのは京を発つときだが、一夜城築城のための古材確保の見通し、石垣用の石の確保など、事前にこれだけのことを隠密裏にやるとなると、かなり前から準備しなければならなかった。考えようによっては小田原合戦は秀吉の在京中すでに決着していたという見方ができる。
ただし、秀吉が一方的に自分のペースで事を進められたのは、そこまでだった。初戦の山中城攻めでは家康に体よく主力を押し付けられ、腹心の一柳直末を失い、韮山攻めも惨憺たる結果に終わってしまった。
家康が自分から酒匂口に本陣を置くと申し出たのも、考えてみればおかしな話だ。なぜなら、韮山城を包囲する織田信雄が北条氏邦と結託し、家康が北条と示し合って秀吉を襲ったら、ちょうど挟撃を受けるかたちになり、一転して窮地に陥るからである。
ただし、北国勢が予定通りに到着したら、その限りではない。このことから、家康と秀吉は互いに相手の胸ぐらを取り脇差の切っ先を突き付け合う恰好だったことがわかる。この時点では秀吉に分がありそうではあるが……。
四月九日、秀吉は笠懸山で石垣城の築造に着手した。
予備知識なしにこの事実だけ見せられたら、秀吉が不可能を可能にしたとだれもが錯覚するはずである。着工が九日ということは、本陣を鷹之巣山から早雲寺に移したその日から、一夜城築城のための古材確保、石垣用の石の調達に動いたわけである。築城の場所は早雲寺の本陣から馬で五分足らずの場所である。なぜ笠懸山だったかは北条氏の笠懸城があったからそれを利用したというようなことではなくて、小田原城から十分に距離が遠くて、なおかつよく見えたからであろう。北条氏の笠懸城のあった位置より小田原城寄りが一夜城築造の現場だから、この事実を踏まえれば北条氏が視認できる場所を選んだのは明白である。こうして事前に場所を決めてこなかったら、これほど短期間のうちに資材を調達して着工できるはずがない。
秀吉がこうまで着工を急いだのは、それによって家康が受ける心理的打撃を計算してのことであったと思う。おそらく、このとき、三月中に松井田攻めに着手した北国勢がこのときまだ膠着状態にあるという知らせを秀吉が受けたためであろう。こうなると織田信雄を韮山城包囲からはずして家康の近くに布陣させなければならなくなってくる。そのことは間もなく実行されるのだが、当座、家康のショックに駄目押しするかのように「降伏する者をも絶対許さず、長陣になっても敵を干殺しにせよ」という、いわゆる「皆殺しの軍令状」を発したのであった。
それに対して家康の反応は記録されていないようすだが、一夜城着工を知ったときの驚きは想像するにあまりがある。
一夜城が完成して、秀吉が入ってしまったら、当初の目論見は瓦解してしまう。さらに加えて、韮山城攻め大将の織田信雄が井細田口に移ってきた。
家康は絶体絶命の危機に瀕した。
これまでは、秀吉の一夜城築城計画を家康が知らなかったという前提で解析を進めてきたのであるが、一夜城築城の事実を確認したからには秀吉が「家康と北条氏との密約」を察知していたことに思い至らなければならない。それ以外に一夜城を築く理由は見当たらないからである。もちろん、一夜城が完成すれば秀吉の身の安全はそれだけ鉄壁に近い状態になるのだが、差し当たってのねらいは家康が受けるであろう打撃を見届けることにあった。
これまで、小田原合戦に関する著作物は一夜城が城方に与えたであろう心理的ショックにしか言及してこなかったわけであるが、そして、もちろん、それはそれで間違いではないのだが、一連の推移からいえるごとく石垣山に築かれた一夜城そのものにショックを受けたわけではなく、これまで仮説としてきた「家康と北条氏の密約」が事前に察知されていた、そのために「密約は実現不可能になった」という事態にいまさらながら衝撃を受けたのである。密約があってもなきがごとき状態になったことで、家康は家康なりの、北条氏は北条氏なりに、それぞれにいかに対処するか、もし、必要があるならば相互に連絡を取り合わなければならなくなった。
そういう家康らに対して、秀吉はどうであったか。
綿密かつ隠密裏に計画し、見事、実現にこぎつけただけに、このときの秀吉の思いは、おそらく高笑いしたい気分だったであろう。