キーワード「勃興」と「消滅」を再現させるための踏まえるべき事実、見えてくる事実の実例(その2)


ペリー来航後の日米外交モラトリアム(その2)

 

本法廷が幕末史の中で最も問題視するのが、「従来からの幕末史から家斉と家定の間がカポッと抜け落ちてしまったのは、なぜなのか」ということです。そのうちの一つに、孝明天皇即位の甚大な影響があります。なぜなら、今日まで噂として伝わる「孝明天皇毒殺説」がなければ、明治新政府は日本の近代化に着手できなかったからです。

「開国は罷りならぬ」

 だれにとってもこの大きな障壁は、孝明天皇の病的な紅毛人嫌いからきているのですから、この世から消えていただくほかないのです。維新の立役者たち、すなわち尊王主義者は説得のしようがなくなって、きりきり舞いさせられました。

 そういう意味で、孝明天皇即位の影響については、どれほど確認しても足りないほどですが、同様に幕末史からきれいさっばり抜け落ちた重大事項の一つが別にあるのです。以下は、長井検事によって代読される秦野裁判長の論述書です。

 

 もう一つの黒船・安政大地震

 

安政二(一八五五)年十月二日、安政大地震、江戸を襲う。

 降って湧いたようなこの大災害こそ日本開国維新の分水嶺であった。ここを境によくも悪くもこれまでの登場人物の運命が一変し、開国維新の流れに棹差す動きが活発になっていく。そして、アメリカでは南北戦争への動きが加速して、日米外交史は下田に置き去りにされたハリスが、単身で文官外交を貫くことになる。

 さて。

 安政大地震は夜半に起きたため火災の被害が少なくて済んだのが何よりであったが、震源が江戸湾だったことから直下型の激震となって被害は甚大を極めた。江戸城の諸所で石垣が崩れ、多門櫓は全壊、他の御門もすべて半壊。大名屋敷、武家屋敷も大半が全壊するか半壊し、町方の倒壊戸数は五千戸以上に達した。町方の死者は約四千人、重傷者二千人、武家方の死傷者はそれをはるかに上まわったということである。その武家方の死者の中に水戸藩士藤田東湖がいた。

 藤田東湖の自伝的回顧録『回天詩史』、著書『常陸帯』『弘道館述義』などのほか漢詩・和歌四百五十首余は、少壮の尊王攘夷論者にとってはバイブル的な役割を果たし、東湖の死後も彼らの精神的・心情的支柱になって明治維新の担い手に大きな影響を与えていく。明治維新は殖産興業、富国強兵、鹿鳴館文化などの開化的側面と水戸学実践という復古的な側面を併せ持つわけであるが、相反する以上の二面のうち水戸学実践について考えると、藤田東湖存命中の役割は尊王攘夷論者に対する精神的影響にとどまり、その実践は加州侯、阿部正弘によってことごとく封じられてきた。そのうえ東湖の実践的な役割は極端から極端に走る水戸斉昭の暴走の歯止めに効果を発揮していた。だから、東湖の尊王攘夷論者に対する精神的影響は、むしろ、死後において大きかったというべきかもしれない。また、日本の文壇の最高峰山本周五郎の戦時中の作品が藤田東湖の影響を強く受けていたことを考え併せると、日本軍国主義の精神的支柱として昭和の時代にまで影響は及んだことになりそうである。さしずめ「死せる東湖、日本を動かす」といったところだろうか。

 安政大地震のとき藤田東湖は小石川の水戸藩邸におり、いったんは難を逃れたが、余震がつづく中、老いた母が取り残されたのに気づいて救出に戻ったところへ梁が落下して圧死を遂げた。その死にゆく姿がまだ若かった明治の元勲たちの心により深い感銘を与えたのだから、藤田東湖は死ぬことによって逆に世に出たといえなくもない。

 水戸斉昭・藤田東湖主従の二人三脚が目指したのは、『戊戌封事』や『南北二策』にうかがえるように廃仏運動による神道国家日本の復活であり、対ロシア敵視政策であった。南北の「南」は水戸藩領で、「北」が蝦夷地である。二策というのは水戸藩の財政不足を解消するのに必要な封地を拝領し、そのうえで松前藩を貰いたい、それが認められたら家督を子に譲り、水戸斉昭みずから蝦夷地へ赴任して北方開発とロシアの侵略阻止に働くというもの。水戸斉昭は『南北二策』を「オランダ交易停止」を訴える『別封』と一緒に、かつて老中首座時代の加州侯(小田原藩主大久保加賀守忠真)に差し出したことがあった。請願書の『南北二策』は水戸斉昭から添削を命じられた藤田東湖が当惑したほど過激な内容だったから、当然、『別封』と併せて加州侯が受け容れるわけがない。加州侯は請願のうち「南」については毎年五千両ずつ五年間下賜するなどの理解を示したのだが、それにもかかわらず、水戸斉昭は自分を副将軍にしてくれた人を「保身家」と激しく罵った。あくまでも要求の百パーセント貫徹を目指したわけだ。水戸斉昭はそういう人だった。藤田東湖は自分が心から信服する加州侯の人となりまであげつらう水戸斉昭を持て余し、「加州侯が呑み込めないのだからだれにいっても無理」となだめて、ようやく矛を収めさせた。万事がこの調子だったから藤田東湖の死がもたらすのは水戸斉昭の暴走でしかなかったのである。その死によって一躍偶像と化した藤田東湖の遺風も、当時は無視できない逆風になってはね返り、時の政権には大きなお荷物になった。

 

 瓢箪鯰「阿部正弘」の正体

 

 阿部正弘の困惑の目は、大老就任を視野に蠢きだした井伊直弼にも向けられていく。

 死によって一躍偶像と化した藤田東湖の遺風が無視できない逆風になったという事情を説明しておくと、水戸斉昭襲封の際、高松藩の前藩主松平頼恕が猛反対して、犬猿の仲になった事実がある。それゆえに高松藩は井伊直弼に接近を図り、姻戚関係を結んで水戸斉昭に対抗した。しからば、水戸藩と高松藩がなぜ犬猿の間柄となったかというと、かつて長兄の斉脩が水戸藩主になり、次兄の頼恕が四国高松藩の松平氏に養子に入った当座は親戚付き合いをしていたのだが、斉脩が重病に陥り、世子を定めていなかったため、学者肌で気性が激しいことから三十を過ぎても養子の口がかからなかった斉昭にお鉢がまわったとき、頼恕は弟が水戸藩主になるのを不満として、斉昭の家督相続に介入し猛反対したためであった。反対が通っていたら問題はなかったのだが、当時の小田原藩主で老中首座の大久保加賀守忠真が藤田東湖の訴えを容れて斉昭を藩主とし、他方で頼恕の子を小田原藩に世子として受け入れて忠礼を名乗らせ、丸く収めたため、水戸藩と高松藩の関係が悪化してしまったわけである。その大久保忠礼が井伊直弼が大老になった当時の小田原藩主だから、加州侯当時とはまるで正反対の陣営になってしまったことになる。

存命中の加州侯は、水戸斉昭を立てる一方で、忠礼を世子として受け入れる約束をして、副将軍家の御家騒動を裁定したわけである。だから、大久保忠礼は高松藩主松平頼胤の義理の弟ということになり、当然、将軍継嗣問題では南紀派に属する。外交課題が一段落して再び将軍継嗣問題に火がつくと、俄然、井伊直弼を首領とする南紀派が攻勢を強め、藤田東湖という舵取りを失った水戸斉昭と激突するのは時間の問題であるだけに、阿部正弘としてはそろそろ旗色を鮮明にして一橋慶喜擁立で決着を図りたいのだが、そうすると小田原の佰山に本籍を置く二宮金次郎の立場が苦しくなってしまう。二宮金次郎に対する阿部正弘の配慮は個人的なものだが、金次郎の尽力でようやく立て直しに目途が立った幕府の財政が、先の品川台場築造に多くを費やし、そのうえ震災復興費用を捻出すれば、再び赤字に転落するのは間違いないから、一躍、生糸輸出の必要性がクローズアップされる中、二宮金次郎に後顧の憂いなく増産問題と財政再建に働いてもらう必要があった。そうした観点からも、分度仕法が中断し、金次郎と疎遠になったままになっている小田原藩との関係を軽視するわけにはいかなかった。

 まるでもぐら叩きのように次から次へ噴出する問題の対策もさることながら、阿部正弘が下した英断はみずから江戸復興に専念することであった。首都が機能しなければ内政も外交も成り立たないのだから、将軍家のお膝元の困窮を目の前にして手をこまぬいているわけにはいかなかったのだ。あまたある難題を差し置いても江戸の復興を対策の根幹にせざるを得なかった。

 安政二(一八五五)年十月九日、幕府、堀田正睦を老中に再任……。

 老中に返り咲くことは歓迎すべきことだが、その発案者の阿部正弘がかつて自分を罷免した張本人であっただけに、堀田正睦の心中は複雑だったはずである。しかも、堀田正睦は常識的かつ私心のない立場から一橋派を支持しており、溜間格としてその常席筆頭の井伊直弼から「裏切り者」呼ばわりされ、ねちねちと嫌がらせを受けてきた身だ。阿部正弘のねらいが開国通商事務の推進と将軍継嗣問題の決着を自分に委任することにあると最初から読めていたから、なおのこと老中再任を受けることにわだかまりがあったはずである。それでも堀田正睦が再任に応じたのは私怨よりも時流に従うのがみずからの使命と判断したか、瓢箪鯰と呼ばれた阿部正弘の「ぶらかし」人事の本心が自分を生かすべきときまで温存するためであったと理解して、これまでの私怨と公憤を水に流し捨て身の覚悟をしたということだったのかもしれない。

 阿部正弘は老中合議制を隠れ蓑にしてなかなか本心を明かさないできたが、堀田正睦を老中に起用することでようやく旗色を鮮明にしたかたちになった。遂に隠れ蓑から本心をのぞかせた阿部正弘に水戸斉昭が激昂し、井伊直弼も「二宮金次郎、ジョン万次郎を内政外交の枢機に任用し、海防掛内の上下関係の垣根を取り払うなど身分制度を徹底的に破壊し、外様・陪臣・町民に建議を許すなど処士横議の禁令にまで違反し、今また裏切り者に味方する阿部正弘は二重三重四重の敵」とばかりに牙をむいた。井伊直弼は決して開国に反対したわけではないが、開国派を宣言したのも同然の阿部正弘とそのシンパを敵視することで事実上の攘夷派に転じていく。

しかしながら、いかに井伊直弼といえども犬猿の仲の水戸斉昭とだけは「敵の敵は味方」とするわけにはいかなかった。井伊直弼にとっては開国も攘夷も、最早、どうでもよいことであり、南紀派の頭領として一橋派を追い落とし、自分が大老になって「反阿部政権」を樹立することしか念頭になかった。後世の史家をして本性を見誤らせるほど開国主義的言動を繰り返し、その姿を隠れ蓑にしてきた井伊直弼もまた旗色を鮮明にしたわけである。

          

 長井検事が代読を終わると、秦野裁判長が投げやりな感じで告げました。

「聞いているだけで嫌になる。幕末史はこうした気色の悪い事実ばかり穿り返してきたわけだよ。陪審員諸君ならびに傍聴人諸兄姉には我慢して耳を傾けていただくほかないようだ。本日は閉廷」

 裁判長がそういって、さっさと退出してしまったのですから、どうしようもありません。確かに本日の論述書は新味にかけていて、つまらない内容でした。しかし、よく知られた事実なのです。かぽっと抜け落ちた部分を隠しているのが、本日の論述書でいわれたような事実だと秦野裁判長はいいたいのでしょうか。そうだとすると、われわれも我慢して成り行きを見守るほかなさそうです


(つづく)




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