小早川金吾秀秋にもたらされた二つの誓書


もしも、東軍が西軍より先に進んで関ヶ原を通り過ぎてしまったら……。

笹尾山の事前準備はまったく意味をなくしてしまうわけである。必勝作戦を立てたという自負があるだけに、三成は唯一無二と思われる絶好の機会を逃したくなかったに違いない。だから、十四日当夜の行動になった。

三成は泥濘に足を取られ、のめってばかりいる馬を懸命に御しながら、真っ暗闇を真っ黒になって行軍する西軍将士の脇を駆けて、深夜、藤川台の陣地に駆け込み、吉継に面会した。

三成の突然の来陣に接し、秀秋に宛てた誓書に署名を求められたときの吉継の心境は、「この知恵が経世済民のために生かされるなら世間の評価は違ったであろうに」と心の中で嘆いた。なぜなら、吉継には自分に署名を求めにきた三成の魂胆がわかったからである。

吉継が三成の誓書に署名する意味は、「秀秋が西軍として参加するときは味方になり、東軍として行動するときは敵になる」という重大なものである。断れないようにしてさらりと署名を取り付けてしまう三成のずるさ。三成の下僚としてさんざん見せつけられてきたやり方であって、後世の史家にはおそらく想像もつかないことだろう。

ついでにいってしまうと、映画やテレビに三成役を演じるのはイケメン俳優ばかりであり、脚本も三成正義説・家康悪人説で一貫している。日本史に疎い頃の私は石田三成の大ファンだった。だから、フィクションの三成は大いに称揚すべきであり、愛すべきである。しかし、その人は歴史上実在の三成と正反対の真っ赤な偽物である。

ところで。

 吉継と三成が親友であったとする説については、いずれ垂井宿の場面で詳細に考証するが、

「長束正家・安国寺恵瓊は、このたび、伊勢方面より出動した中国衆はもちろんのこと、大谷吉継および御弓鉄砲衆までも南宮山に引き寄せようとしているので、人数が少々無駄になるようだ」

三成の自白調書第十六項の文言をもとに判断しただけでかなり怪しくなっただけでなく、秀秋に宛てた自分の誓書に署名を吉継に求めることで「東軍として行動するときは、まず大谷勢を敵にまわすことになるぞ」と暗に脅しをかけたことが、秀秋として迷いなく吉継に戦いを挑ませたことを考えると、親友説はかなり眉唾物になったといえるのではなかろうか。

 三成の自白調書第十六項にいう「伊勢方面より出動した中国衆」というのは吉川広家であり、毛利秀元であり、宇喜多秀家である。三成が第十三項で警戒する「近江から出動してきた衆」は小早川秀秋であるが、十二日の段階ではまだ松尾山に現われない。前者のうち毛利の二人は最初から最後まで合戦を確信犯的に傍観し、後者は東軍として戦闘に割り込んだ。三成は吉継をそうした吉川広家らと同列に論じて「ムダ」に分類してしまっているのである。これが「親友らしからず」と判断する所以である。加えて、長束正家と安国寺恵瓊が吉川広家を南宮山に布陣させたように、藤川台にいる吉継まで二人の近辺に引き寄せようとしていると他人事のような観測を述べている。

 これが親友に対して「親友」が書くべき言葉だろうか。

二人が親友の間柄にないということは心に響くようなエピソードの裏づけがないことが間接的に物語っている。男色の関係にあったとか、茶会の席で吉継が垂らした顔の膿みを気にしないで喫したなど、下衆のかんぐりに類するものしかない。それも、親友説の裏づけとして無理やり捏造されたものとしか思えないようなレベルの低さであり、引用することすら赤面を覚える。

 逆は真なるか式に心に響くエピソードを探ると、「藤堂高虎・大谷吉継親友説」が新たに浮上する。土山公仁『関ヶ原合戦』(『歴史読本』二〇〇九年七月号)が取り上げる次のエピソードを代表例として、当座、紹介しておく。

《吉継は為広の助言に随い戦場から離脱することなく自害。その介錯をしたのが側近の湯浅五助である。五助は羽織で吉継の首を包み密かに田中に埋納し、その後、藤堂仁右衛門と戦って討死した。今際の際、吉継の首を近くに埋めたことを告げそれを他言しないよう仁右衛門に頼んだという。

五助の首実験をした家康は仁右衛門にむかって「湯浅五助は最期まで吉継の近くにいたはずだ。なにか思い当たることはないか」と質した。しかし、仁右衛門は五助との約束を守り最後まで口を開かなかった。家康は仁右衛門の態度を賞賛したという》

 仁右衛門は藤堂高虎の甥高刑の通称である。高刑は高虎の家来だから同席する主人の許しがなければ家康の意向に背く返事はできない。たとえ高刑と五助という家来同士のエピソードとはいえ主人同士心に通う交わりを持つことを認識しないでは生まれない美談である。しかし、「藤堂高虎・大谷吉継親友説」についてはもっと先へいってから、もう一度、まったく別の切り口で検証する必要がありそうである。

 さて。

闇夜の雨の中を三成が持参した「九月十四日付小早川秀秋宛誓書」に吉継が署名して五人分が揃った。三成は松尾山へ使いを遣り秀秋の名代として麓に降りてきた家老の一人平岡頼勝と会見して、狼煙を見たら総攻撃を行うよう命令を伝え、誓書を手渡した。この誓書が明らかにする三成の行動はここまでであるが、他方、東軍の本多忠勝と井伊直政が秀秋の家老稲葉正成・平岡頼勝に与えた『九月十四日付誓書』を用いて家康が秀秋に約束した条件を明示しておく。

一、秀秋に対して聊か以て、内府御如在あるまじき事。

一、御両人、別して内府に対せられ御忠節の上は、以来、内府御如在に存ぜられまじく候事。

一、御忠節相究め候はば、上方に於て両国の墨付、秀秋え取り候て進むべく候事。

 すべてに抽象的で、前掲の三成の条件とは雲泥の差がある。

今、関ヶ原決戦を直前にして、松尾山に布陣する一万五千の軍勢が東西両軍の雌雄を決する立場にあるであろうことは武将なら容易に判断がつく。利のみで判断するなら秀秋が悩む必要はない。西軍に寝返って三成が勝利し、秀秋は恩賞として時限的とはいえ関白の座が現実になる。それだけのことである。しかも、家老の二人を含めて加増は思いのままとある。

三成が提示してきた条件と比べるとき家康が示す条件の何と貧弱であることよ。

 それにもかかわらず、秀秋が迷ったのは家康に「利のみならぬ何か」があったからであろう。しかし、利に誘われ、秀秋がぎりぎりまで帰趨に迷ったことは紛れもない事実である。結果として秀秋は勝者に与し二つのうち一つの恩典を得たわけであるが、彼自身の松尾山占拠という快挙を帳消しにし、信頼を失墜させ、備前岡山に移封されて間もなく落命することになるのだから、間接的で迂遠ながら三成の誓書が西軍の将たちの無念を晴らすことになるわけで、その意味で苦心の誓書の効果は絶大であった。

 しかし、「それにしても」である。三成が藤川台にきて平岡政勝と面会しているとき、松尾山に東軍方の目付役がいた事実を問題視しない考証とは何であろうか。東軍方の目付役が松尾山に到着したのはいつのことだったのだろうか。東軍の本多忠勝と井伊直政が秀秋の家老稲葉正成・平岡頼勝に与えた『九月十四日付誓書』の存在意義がここで生じる。すなわち、目付役は九月十四日に書かれた誓書を持参して、明るいうちから松尾山に詰めていたことになるからである。これをまだ疑問のレベルにとどめるなら、疑問は冒頭に掲げた二十六より増えつづけて、どこまで広がるかわからない。到底、私一人の手には負えない 
(つづく)




ブログランキングに参加しています。
↓ポチッとお願いします↓
人気ブログランキング