大谷吉継・藤堂高虎親友説をもって吉継・三成親友説を打破する


日本史考証の決め手は証拠とするに足る事実をいかにして的確に取り出してくるか、考証精度のレベルはそこにかかっている。犯罪捜査で問われる証拠採用能力と同じ理屈である。考証の精度を高めるには最初から時代区分を限定せず、古代史から現代史まで幅広く事実を把握していなければならない。

関ヶ原合戦の考証なのにここからいきなり過去の小田原合戦の考証を始めるのだが、そうする理由は二つの合戦が一つの底流の上に成り立っているからである。小田原合戦が秀吉の残酷さと消極性をワンセットにした傾向を白日の下にさらしたいくさであったように、関ヶ原合戦もまた石田三成の偶像性を見事なまでに暴き立てて今日的人気がまったく根拠のない虚構であることを告発するいくさとなった。小田原合戦と関ヶ原合戦は事実に立脚する考証がまったく行われていない点にも共通項がある。すなわち、どちらも物語的虚構の上に成り立つ「ヨタ話」でしかないという実に驚くべき事実が共通項としてあるわけであるが、しからば実体的真実は何かというと、どちらも「信頼」をキーワードにして判断しないと真相に迫れないのである。

 天正十七年十一月二十四日、豊臣秀吉が関白太政大臣の名において北条氏政・氏直父子の討伐を宣言した。それに先立って決定した小田原攻めの布陣で人目を引いたのが先鋒徳川家康、第二軍織田信雄という配置であり、なおかつその留守城に豊臣秀長、小早川隆景が留守居として入るという点であった。家康と信雄は「帰るに城なき」状態で出陣することになったのである。

 小田原布陣の発表に先んじて駿府城に乗り込み家康に条件を呑ませて帰ったのが大谷吉継であった。吉継が秀吉から与えられた交渉カードは人質の秀忠を返すというだけ。その人質返還カードすら要求する条件に照らしてみればペテンに等しいものだったから「後につづく怒りの度合いを高める」ために喜ばすようなはかないものだ。吉継の働きを伝える史料は具体的な内容については触れないで「話を煮詰める」と述べるだけなのだが、家康は嗣子秀忠を人質に取られている弱い立場であり、家老二人のうちの一人石川数正を秀吉に懐柔され、豊臣家に取り込まれて徳川の軍制や内実が筒抜けになったばかりだから、人質解放がペテンだとすると吉継の交渉は難渋に難渋を極めたはずである。

 しからば秀吉が考えたペテンはいかなるものであったか。

 明けて天正十八年一月二十一日、秀吉が人質の秀忠を返してきたのを受けて、駿府城大広間において家康は小田原攻めを議題に御前評定を開いた。冒頭、家老酒井忠次が何も知らずに口火を切って家康に祝いを述べた。

「秀忠様がお戻りなされ、祝着至極に存じます」

「何でめでたいものか。秀忠を返して寄越したのは、秀吉が小田原へ下るとき前将を留守居として置く腹があるからじゃ。実質、人質であることに変わりはない」

 前将とは前野将右衛門のこと。家康の言葉を聞いて酒井忠次は思わずどもった。

「な、な、何と仰せられしか」

「関白の腹は駿府城、岡崎城、吉田(豊橋)城、長沢城に大和大納言秀長卿を留守居として入れ、興国寺城、久能城、田中城、掛川城、浜松城などにも家来を留め置くというものだ。信雄卿の居城清洲には小早川隆景、星崎城には吉川広家、美濃竹ヶ鼻城には毛利輝元が入る。なぜ織田の城に毛利の三本柱を配し徳川は大和大納言秀長卿一人なのか、別に徳川を軽く見ているわけではない、むしろ逆だ、相手が秀長卿ではさすがにわしもこぶしの振り上げようがない。そこが秀吉という人間の悪賢いところよ。ひとたび出陣したら帰るに城はないのじゃぞ。徳川、織田の城を軒並み乗っ取っておいて小田原攻めを必死にやらせようというのだから、関白の腹の中は墨より黒い」

 家康が吐き捨てるようにいうと、井伊直政が立ち上がって怒号した。

「関東などの辺境に追いやられたら二度と天下など望むべくもありませんぞ。和睦など反故にして関白相手に一戦参らすべし」

 直政の意見というより家中全体を代表する意見だったと思う。しかし、家康には別の見地があった。

「折角、関東をくれるというのに、それを断って得るもののないいくさをせよというのか。駿府城には作左を残すゆえ、関白を迎えたときには接待に手抜かりのないようにせよ」

 本多作左衛門重次が驚いて異議を唱えた。

「徳川の本城たる駿府城に秀吉を泊めるなど奥方を貸すようなものでござる。お考え直し願えませぬか」

 家康の側近が秀吉をどう見ているか、図らずも本心を表白する場面となった。

 だが、

「関白など恐るに足らず。秀吉に従ったのは世の中の信望を集める大納言が健在だったからだ。それに、現実に二十万の兵を動かせる秀吉に歯向かうのは得策ではない。大和大納言の命数を読んだりしてはもうしわけないが、病気はかなり重いらしい。大納言を失えば必ずや関白は馬脚を現す。心ある者はみな鼻白んで見放すじゃろう。ここまで我慢したのだから、それまで待とう。待つには関東のほうが都合がよい」

 家康はそういって評定を締め括った。

 これが秀吉の考案したペテンの詳細である。それに加えて秀吉はとんでもない隠し玉を用意していた。今日にいう石垣山一夜城の築城である。すでに図面が出来ていて、秀吉は側近に「一人として兵を死なせずに北条の兵を皆殺しにしてみせる」と豪語していた。あの悪名高い皆殺しの軍令「降伏する者をも絶対許さず、長陣になっても敵を干し殺しにせよ」の草案と石垣山城の構想はすでに存在したのである。しかしながら、小田原合戦を北条氏と秀吉の合戦などと図式的に理解してかかったらとんでもないあさっての方角にピントがずれてしまうだろう。大和大納言秀長の病が重くなったことで豊臣政権に暗雲が立ち込め、天下を賭けた家康と秀吉の戦いがここに始まったのである。吉継の交渉がいかに剣呑で困難であったかは想像に難くない。

 それほど重大な意味を持つ交渉なのになぜ吉継に白羽の矢が立ったのか。

 もちろん、疑問に答えてくれる史料など私の知り得るかぎり何一つ存在しない。しかし、仮に推理推論であっても状況証拠の積み重ねにより限りなく事実に近いと思われることなら果敢に掘り起こして世の判断を仰ぐべきだろう。

 吉継が関係したと思われる事件は天正十六年に起きた。秀吉が秀長に嗣子仙丸を廃嫡して姉智子の子秀保を養嗣子とするよう強要したことに端を発する豊臣本家と分家の争いであるが、北政所や千利休までもが分家の大和大納言側について豊臣家崩壊かという深刻な事態を招いた。

 どうして、そんなことになってしまったのだろうか。

 正しく判断するには二つの事実を踏まえる必要がある。一つは外向きのことは秀長が裁量し内向きはお寧と千利休に相談するという不文律みたいなものが豊臣家にはあったという事実である。

もう一つは当時より遡ること六年前の出来事で、本能寺の変を受けて織田家の跡継ぎを決める清洲会議に先立ち、秀吉が秀長に仙丸を養子に迎えろといいだした。仙丸は丹羽長秀の三男であった。宿老丹羽長秀を自分の味方につけて会議を有利に進めようとして、秀吉が独断で約束を取りつけてしまったのである。

あのときは仙丸に人間的見所がありそうだったから応じたが、今度ばかりはそうはいかない。秀吉が自分から養子に押しつけた仙丸なのに今度はそれを廃嫡して代わりに人間的にいかれた甥の秀保を迎えろというのだから、あまりにも自分勝手で虫のよい要求である。温厚明敏で知られたさすがの秀長も激怒した。

 血のつながりからすれば養嗣子の入れ替えもあり得ない話ではない。本家・分家が手切れになっても受け容れられないほどの理由が秀保という人間の出来にあった。後年の秀保は妊婦の腹を割いて胎児を取り出させたり、農民を罪なく手討ちにしたりと暴虐のかぎりを尽くすのだが、その兆候が早くからあったから無体理不尽な要求というほかなかったのである。

外向きのことは秀長が裁量し内向きはお寧と千利休に相談するという不文律みたいなものが豊臣家にあったというからには秀吉にも何らかの兆候があって、行動を掣肘する必要があったということではなかったか。

文豪吉川英治が『新書・太閤記』を書き進んできて、関白の位に昇ったあたりになると「秀吉ほどの英雄でも晩年に至って権力の座に上り詰めると人間的にかくも堕落してしまうのだろうか」と嘆いているし、松本清張はもっと辛辣に「秀吉は小牧長久手合戦あたりまでが取柄で、関白になってからは愚物に転落した」と断じている。

極秘にされたから今日に伝わらなかったのかもしれないが、狂気の原因は父系にあったとみえて隔世遺伝だろうか弥右衛門を父親とする姉の智子と秀吉の系統から秀保・秀次ら問題児が出た。秀吉の場合は隔世遺伝の中間で狂気が小田原合戦の事前設計のごとき並外れた悪知恵となって現れたのかもしれない。弥右衛門を父親とする秀吉と竹阿弥を父親に持つ秀長を比較するのによい指針となるのが、いくさのやり方の違いである。すなわち松本清張がいみじくも小牧長久手合戦を区切りとしたように、小牧長久手合戦以前では秀長単独の四国征伐があり、中国陣における鳥取城の渇泣かし、備中高松城の干殺し、小牧城のにらみ合いなど臆病というほかない極端な持久戦が秀吉流という色分けであるが、混在してわかりにくい。しかし、秀長が病臥して不仲になったまま踏み切った小田原合戦こそは、だれの目にも明らかなくらい秀吉が初めて単独で行ういくさだった。

秀長が健在でいる間は襤褸を出さないでいられたが、秀長亡きのちの秀吉は何一つ取柄がない。もし、秀長がもっと長生きして秀吉が先に死んでいたら、吉川英治も松本清張も『太閤記』原本に描かれた人物像の突然変異に疑問を抱くこともなかったろう。

「大納言、俺を一人にしなや」

 秀長に死なれて亡骸にすがり秀吉は号泣したというが、肉親を失った嘆きというより、どうやったらこれから襤褸を出さずにやっていけるか、不安のほうが先に立ってのことではなかったか。

 秀吉が秀保を大和大納言家の養嗣子として強引にねじ込んだのは、秀長が俺の役に立たなくなるなら、最早、金輪際、掣肘を受けるいわれはないという自分本位の考えからであった。秀保を跡継ぎにしておけば不行跡を理由に切腹させ御家を断絶するのはわけのないことであった。事実、そのつもりもあったろう。秀保の場合はたまたま暴虐のかぎりを尽くした挙句、十七歳のとき十津川で舟遊びをしているさなか非業の死を遂げたから手間がはぶけたが、秀吉の悪しき知恵は秀次に対して生かされた。

 それはさておき……。

 大和大納言家の筆頭家老藤堂高虎、次席家老宇多頼忠、侍大将島左近にしてみれば降って湧いたような御家の災難であり、何としても回避しなければならない難題で、大和大納言秀長が病気がちになっていたときだけになおさら深刻な事態となった。

 問題を起こした秀吉のほうも何者にも掣肘を受けず自由気ままにやっていけるようにするためにも要求を貫徹したい。だれかにこの嫌な役目をやらせたはずなのだが、今のところだれが動いたか判然としない。秀次のときのように三成が担当したのだろうか。当時、三成は堺奉行を兼ね、吉継が補佐する関係にあった。恐らく秀吉が交渉を命じたのは三成だったと思われるが、三成はこの役目を汚れ役と嫌って吉継に押しつけたとみなすと、後々、あらゆる面に整合性が生じてきて都合がよい。前述のように本書が「大谷吉継・石田三成親友説」を事実無根と否定してかかっている根拠の一つがここにある。秀吉に向かって唾を吐きかけてやりたくなるような嫌な役目を押しつけられる吉継にしてみれば友情を抱くどころか三成にも非難の一言を浴びせたい思いだったろう。のちに吉継を三成に結びつけるものがあったとすれば島左近とのからみで、左近との関係もこのとき生じたことになる。

翻って大和大納言家に視線を転ずるならば、本件の真相は推理推論ながら本書が立脚する「大谷吉継・藤堂高虎親友説」の根拠の第一弾でもある。すなわち、本家側の名目上の責任者は三成だが吉継が実質的な代理人、分家側の代理人が高虎というパターンを前提にしていうと、吉継が高虎と本格的な交渉を持ち、島左近と知り合ったのはこのときを嚆矢とするわけである。そして、吉継と高虎が苦楽を共にし折衝して下した結論は次のようなものではなかったろうか。

次の条件で秀保が新たに大和大納言家の養嗣子に直る。大和大納言家の養嗣子を廃嫡された仙丸は高虎の養子となり「高吉」を名乗って従五位下宮内少輔に叙任される。

高吉の名は高虎と吉継から一字ずつ取ったのだろう。大和大納言家御家断絶のための布石はここに完了したわけである。

 小田原討伐宣言に際して吉継が対家康交渉の重責を担わされたのは、以上の成果の上に立ってのことではなかったか。パターン物差しに当て嵌めれば秀吉に命ぜられた三成が吉継にまたしても押しつけたと考えられなくもない。しかし、今度は吉継が駿府城に行って家康と交渉したという記録がある。

 今回もうまくしてのけた。でかした、でかした、あっぱれであるぞ。

 秀吉は満面の笑みで駿府城から戻った吉継に蜂屋頼隆が病死して空席となっていた敦賀城主の座に迎えた。その褒賞には大和大納言家養嗣子すげかえの功績も加味されていたはずである。しかし、吉継はそれを喜んだろうか。

 いかれた秀保を大和大納言家に押し込み、それがなければ行く末は大和大納言と呼ばれるはずだった傑物といってもよい高吉の人生を狂わせた。今度もまた三河・遠江・駿河・甲斐を領有する家康の居城をことごとく取り上げて小田原に出陣させるという理不尽な政略の片棒を担いでしまった。一国一城の主は武将の夢ではあるが、他を犠牲にした夢の実現を何で心から手放しに喜ぶことができよう。

 すでに業病の進行が著しく手足の動作が不自由になりかけていた体で関ヶ原に臨むという無謀ともいうべき行動に吉継が出たのは、敦賀城主に未練がなかったという推理推論を加味しないかぎり理解しがたいものがある。世の中への執着がまったく感じられない透き通ったような吉継の身の処し方の原因は何なのだろうか 
(つづく)




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